05 旅立ち

 船が水面を滑るように港を出発をしてしまえば陸地は瞬く間に見えなくなり、たちまち青い水平線に四方を囲まれた。


 大陸の国サリューへの出張は慌ただしくも言われた日の三日後だったので、初めて経験する船旅に要るものなど揃えるだけで精一杯だった。


 大きいとは言い難い旅行鞄に期間中分の服や化粧品など、どうしても必要なものをなんとか詰め込むことに成功し、無事に今、船上の人となっている。


 自分が会いたいからと言ってくれて、出発までの日々は少しの時間だけでも会っていた。けれど、今日は仕事だからと、シャーロックは見送りに行けないと言われた。


 どうしても行きたかった仕事を優先してしまったのは私自身なんだけど、付き合ってからすぐに突然三週間会えないと聞かされた彼があれだけ動揺したのが今ではわかる。


 付き合いたての恋人と何週間か会えなくなる喪失感がどれだけ大きいかを、あの時にきちんと理解出来ていればマクラーレンさんに聞かれた時出張は断っていたかもしれない。


 せめて、彼との関係が安定してからであれば、問題はなかったかもしれない。


 けれど、今後悔してももう遅い。船はもうイルドギァの港を出てしまった。また帰って来るのは三週間後。その間は絶対会えない。さみしい。


「シャーロック……」


「はい」


 もちろん。


 思わず出てしまった呟きに本人から、返事が返ってくるとは思わなかった私は、頭の中が真っ白になるくらい驚いた。


「な! ななな、なんで?!」


 落下防止用の柵に手をかけていた私が慌てて振り向くと、私が佇んでいた甲板のすぐ傍に眼鏡をかけたシャーロックが当たり前みたいな顔して居た。


「俺ね。銀狼騎士団の中でも、特務機関って呼ばれている部署に今所属しているんだけど。仕事として情報を探るターゲットが、偶然この船に乗ってるんだ……実はその仕事は、既に別の人が担当するようになってはいたんだけど……上司に必死で頼み込んで、俺に変更してもらった。出張先に俺が一緒なの、いや?」


 悪戯っぽく微笑んだ彼に近づき、思い切り首を振った。


「ううん! 全然、嫌じゃない。二人とも仕事にはなるけど、私もサリューに行くのシャーロックと一緒に居られて嬉しい……あ。もしかして、仕事中で見送りに来れないって……」


「そ。それは、嘘はついてないだろう? 俺もエレノアと、一緒に見送られる側ってだけ」


 まるで仕掛けた悪戯が成功した時の子どものような得意そうな顔で、シャーロックは微笑んだ。


「完全に、騙されちゃった。シャーロック、眼鏡って普段はかけてるの? 印象変わるけど、なんだか可愛いね」


 彼は大きな丸いレンズの入った眼鏡を、今はかけていた。可愛らしい印象の彼に、良く似合う眼鏡。


「いや、違うよ。目は悪くない。これは一応、変装用の小道具。探っているターゲットに近寄らねばならない時には、少しずつ印象を変えるんだ。同じ人物が何故か近くに居ると認識されてしまうと、尾行なんかがやりにくくなるから」


「すごい」


 自分の知らない世界に感心し、背の高い彼を見上げるとシャーロックは微笑んだ。


「そういう仕事だから……あのね。エレノア。俺、ひとつだけお願いがあるんだけど……」


「うん。良いよ。なあに?」


 真っ直ぐに彼の灰色の目を見上げると、何故かシャーロックは口に手を当てて何故か息をついた。


「本当に……本当に一緒に来られて良かった。上司の人、近くに居るんだよね? 俺をその人に、紹介して欲しいんだ。彼氏が偶然仕事で乗り合わせてって」


「え? マクラーレンさんに……?」


「うん。お願い」


 シャーロックの灰色の眼差しは、真剣だった。勢いに押されるように何度も頷くしかない。




◇◆◇




「えっと……この前に、付き合いだしたばかりの彼氏が……偶然、仕事で偶然に同じ船に乗り合わせることになりまして……」


 照れつつ私が、辿々しくシャーロックがここに居る経緯を説明する。


 自分の船室に居たマクラーレンさんは訪ねて来た私の隣にシャーロックが居るのを確認して、かなりギョッとして驚いた様子ではあった。


 けれど、双方ともに名乗りつつ握手をした後で、関係として間に居る私が説明することとなったのだ。


「……それはそれは……お仕事であれば船内でお見かけしても、声はおかけしない方が良いのかな?」


 マクラーレンさんはシャーロックがどんな仕事をしているか詳しく言わなくても、彼がこの船に居る理由をある程度察しているようだった。


「すみません。色々と仕事上差し障りがありまして……詳しい事情も明かせずに失礼をしてしまいますが、そうして頂けますと助かります。そう言った立場ではありますが、仕事以外の時間は出来るだけエレノアと過ごしたいと思っています。二人で居ることも多いと思いますので、それを不思議に思われるといけないので、彼女にマクラーレンさんを紹介して欲しいと僕から頼みました。よろしくお願いします」


 シャーロックは折り目正しく、綺麗なお辞儀をした。


「……いやいや。頭を上げて下さい。しっかり者の彼氏だな……エレノアはうっかりしているところがあるから、こういう人が合っていると思う。良かったな」


 苦笑したマクラーレンさんは、そう言って私の頭を軽く撫でた。


 今夜は早速仕事として出席する船内での立食パーティーがあるので、その時間の確認だけしてとりあえず失礼することにした。


 隣の私の狭い船室に入り、壁沿いに設置されたベッドに隣り合って座るとシャーロックはおろむろに私の頭を撫でた。


「ふふ。何? 何にも褒められるようなことしていないけど」


 私が微笑むと彼は頭に置いていた手をするりと移動させ、胸の前にあった髪の束を取り目を細めた。


「……エレノア。綺麗な赤毛だよね。夕日の色みたいで、俺はすごく好きだ」


 私の髪の毛は少し橙がかった赤毛で、この国では珍しい。人によっては好みの別れる派手な色だと言われればそうなので、他でもないシャーロックの好みに合って良かったと思う。


「ありがとう……これ。もう亡くなったお父さんの色なの。大陸の船乗りだったのよ。今はもう記憶も朧げだけど、優しかったのはなんとなく覚えているの」


「そっか……俺もエレノアのお父さんに、会いたかった。会えなくて、残念だな」


 シャーロックはこういう話を聞いた時のお決まりの、慰めの言葉も謝罪の言葉もどちらも使わなかった。私は、なんだかそれがすごく嬉しかった。


 それは、決して悪いことではない。世の中の当たり前の対応だ。けど、幼い頃からそうされる度に、私はどこか釈然としないものを抱えていた。


 お父さんとお母さんが事故で亡くなってしまったのは、もう仕方のないことだ。残された幼い私は、その時の記憶が曖昧になってしまう程に悲しみ落ち込んでいたらしい。けれど、それを乗り越えて、ただただ感謝と愛情だけが残る今。


 彼ら二人の話をして、慰められたり謝られるのは何か違う気がしていた。


「シャーロックって……本当に、実在してる?」


 私は彼が変装のために着ているであろう「ちょっと良いところの坊ちゃん」ぽい服の上から、ペタペタと存在を確かめるように胸の辺りを何度も触った。シャーロックはくすぐったそうにして笑いながら、軽く身を捩る。


「え? なんで?」


「私の理想通りの完璧な彼氏過ぎるから、もしかしたら私の妄想が作り出した本物の人間っぽい幻なのかもしれない」


 真面目な表情をして真剣にそう言うと、シャーロックは軽く吹き出した。


「エレノアにそう言って貰えて、嬉しいけど。なんで、そう思ったの?」


「こんなに私の好みの美形だし優しいし、性格もそうだけどいちいち言うことも全部好みだし。しかも、職業は騎士様。全部好みすぎて、なんかおかしい。夢の中の存在すぎる」


 口を尖らせてそう言うと、シャーロックは顔を近づけて微笑んだ。


「それを言うなら。エレノアは俺から見ると何もかもが可愛いし、仕事にも真面目で前向きで一生懸命な頑張り屋さんで……後……」


「後?」


 私が首を傾げ見つめ合ったその時に、彼の胸ポケットから微かな振動音がした。シャーロックは一旦離れて、小さく息をついた。


「っあー……ごめん。俺そろそろ行かなきゃ……なんか、エレノアと居ると君の事しか考えられなくなる。仕事中なんだけどちょっとだけって抜けさせてもらったのを、完全に忘れてた。組んでる先輩に怒られるな」


「あ、ごめん。そうだよね。仕事で来てるもんね。ねえ。次、いつ会える?」


 シャーロックが立ち上がるのに合わせ、私も立ち上がると彼は額にキスをした。


「……夜。今日はその辺りに、先輩と交替時間だから。パーティーが終わる頃、会場に迎えに行く」


「うん。わかった。待ってるね?」


「もし、夜に扉をノックする音が聞こえても、俺だとわかるまで開けちゃダメだよ?」


 子どもに言い聞かせるような口調が面白くて、私はクスクスと笑ってしまった。そんな私を見て、呆れるように彼は呟いた。


「あのね……絶対、君自身はわかってないと思うけど。エレノアに彼氏が出来たと聞いて、すぐに三週間も異国に行く、君が前から希望していたという出張同行を打診。しかも、男の上司と二人で、商談時までのパートナーも兼ねているって……付き合いだしたばかりの俺との関係を深める前に、夜のお相手もあるかもしれなかったんだよ。こんな隣の船室なんて……あー。もう。死ぬ気で頑張って上司にお願いして本当に良かった」


「夜のお相手? マクラーレンさんの? 有り得ないよー。私だよ?」


 ああ言うのは、お色気たっぷりのお姉様なんかが良いんじゃないだろうか。マクラーレンさんにだって、そういうお相手を選ぶ権利はある。


 そう言ったら、シャーロックは微妙な表情になった。


「そういう自覚ないところも可愛いけど、きちんと危機感は持って欲しい。俺の彼女のエレノアは可愛いから、本当に心配なんだ……わかってる?」


「はいはい。大丈夫だよ。心配性だなぁ。でも贔屓目でも、可愛いって言ってくれるの嬉しい。ふふっ」


「なんで、これで今まで何事もなく無事だったのか。奇跡としか思えない……俺。仕事終わったら、絶対に毎日夜は会いに来るからね。心配だから」


 今はもう仕事に向かうところだから遠慮するけど、ムッとした顔も可愛いって、本当に天才的な可愛さって褒めたい。


 頭撫でたい。夜にしよう。


「エレノア、俺の話聞いてる?」


「ごめん。シャーロックがすごく可愛くて。あんまり聞いてない。また夜に会ったら、いっぱい頭撫でて良い?」


「……良いよ。けど、俺の話もちゃんと聞いてね」


 頭をなでなでしたいというおねだりにちょっと嬉しそうな顔をしつつも、シャーロックは船室を出てから足早に去って行った。

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