第57話 化合物
帰りの道中、ナナは人物を元素に当てはめて、イメージする遊びに興じていた。
結論から言うとツルギは窒素、生物が生きる為に必要不可欠で、有機物の腐敗も防止する。一方で兵器や爆弾にも欠かせない。まさにツルギにぴったりだ。
次にナナは、自分を炭素だと仮定した。ダイヤモンド、カーボンファイバー、有機化合物。この世を良くする為にはなくてはならない存在だが、その神話のような逸話に反して、実体はありふれていて脆い。ダイヤモンドは高価で美しいが、簡単に砕け、燃やす事も出来る。
カーボンファイバーも軽さや強度で大きな顔をしているが、解きほぐせばただの繊維でしかない。
この理想と現実のギャップすらも自分には相応しく思え、教訓の為にも自分は炭素にした。
そんな思考実験を巡らせていると、ナナはいつの間にか一応は自宅と呼ぶべき建物のドアに手を掛けていた。
「おかえり。想定外だったけど、私はもうただいまって言ってある」
出迎えたのは声だけだったが、それだけで誰なのかはっきりと認識できるほど馴染んだ声だった。
「帰ってたんですか、アリッサ。
私たちは朝食を食べに行ってました」
家を出る前、ナナが目を覚ました時アリッサはすでに家にいなかった。
そもそもここ数日彼女はほとんど家におらず、時間平均で見ると彼女との遭遇はとてもレアなケースと呼べるだろう。
そんな性質も鑑みて、ナナはアリッサを水素と仮定した。
地球どころか、宇宙空間にすら存在する元素で、水素と愚かさのみは人類について回る存在だと言うからだ。
「そう」とアリッサはソファのスプリングを利用して起き上がると、クッションの形を転写した髪と、目の下にクマをのせて出迎え、薬物中毒者並にギクシャクした動きで、まるで半自動アンドロイド発券機とでもいうように、ナナに名刺サイズの銀色のカードを手渡した。
「これあげる」
そのカードは、ホームレス然とした人物が持っていたにしては、新品同様に綺麗でカードの端は手を切りそうなほど角が立ち、身に覚えのない自分の顔写真が貼られていた。
「これは、えっと、素敵ですね。真心も感じます。えっと、とっても、素晴らしいですが……これは何? 誕生カード?」
「はっ」とアリッサは吐息と区別のつかない笑い声を出すと、倒木のように力なくソファへ、安物のスプリングが折れる勢いで倒れ込んだ。
そして、背もたれに隠れた彼女の代理人として彼女の右腕がナナの手元を指差した。
「貴女のIDカードよ。不正に申請され、合法的な手続きで発行された、正真正銘のあなたの身分証明書」
カードには黒い刻印で、自分のファーストネームと見覚えのないファミリーネームが確かに刻まれていた。
「ジャノメ・ナナ? それが私?」
右腕は「仕方ないでしょう」とばかりに天井を仰いた。
「あなたの要望に最大限譲歩したつもりよ。気に入らなければ、今度自分で変えなさい」
ナナは以前、雑談のついでに希望したファミリーネームは、“スネーク”だった。
ヤモリと同じ分類になり、アルコールと同じ有機性の毒素をもたらす生物だからと単純な思いつきから答えが、実際にはもっと熟考すべき質問だったらしい。
「……蛇ノ目・ナナですか」
英語では馴染みのない音で、無理矢理に翻訳すればスネークアイズ。この時点で受け取るニュアンスは変わってくる。
2つの言語で意味が変わってくる特性には素直に興味が唆られた。
蛇の目は、デザインパターンであり、日本では古くからある模様形態だ。魔除けの意味合いも、験担ぎだと思える。
そして、スネークアイズ。蛇の双眸。蛇の目はあまり優れた器官ではなく、暗闇でも狩りを行えるの視力とは別の能力を使って熱を感知しているからだ。
が、人間の感覚からすれば蛇の目は、暗闇でも確実に獲物を捉え、その動きを補足できているように見える。
悪くない。少なくとも拒絶する理由はないとナナは結論を出した。
「 えっと、改めまして、蛇ノ目・ナナです。
蛇足な質問ですが、このカードって普通に手続きにも使えるんですか?」
磁性流体を思わせる動きで、右腕は指摘からサムズアップに変化。
「使える。実質本物だからね」
「でも、そんなモノどうやって作るんです?」
「私もよく知らない。ただ現にカードが発行されて、使えるのだから、ただの都市伝説じゃないのよね」
「あなたがやったわけじゃないと、誰に頼むんです?」
「モグリの質屋。
連中の中にその手に関係する奴がいてね、彼らだけが使える発行ルートがあるのよ。たぶん、住民管理のサーバーにマルウェアでも仕込んであるんでしょうね。
それを使うと、痕跡を残さずにデータを改竄できるのだとか」
この街の重要なデータバンクには、通常とは異なるアクセス方法が仕込まれている、さらりと告げられていれば、そんなのは陰謀論めいた与太話だ。
しかし、彼女の手元にはその産物が届いている。
ただ気になるのは、ナナの持つ知識ではこのカードの真贋を知る術がなく、渡して来たのがアリッサだと言う点だ。
「でも、記録は参照されて初めて存在意義を得ます。
ただのデータの改竄だけだと意味なくないですか?」
脆弱性のない完璧な防護プログラムもセキリティシステムも理論上にしか存在しない。ならば複数の予防策を備えているのが当たり前だ。
この件に関して言えば、電子世界のデータを改竄したところで、それが現実世界に反映させるには認証と検証が行われるはずだ。
同じ炭素でも、ダイヤモンドと人工ダイヤモンドでは全く価値が違うように、正規の手順を省いた公文書は本物にはなり得ない。
「その問題は再発行申請を通せば問題ではなくなる。
新しく認証させて作るわけじゃなくて、前発行した物をコピーするだけ。それだけでチェック項目はうーんと少なくなるの。改竄されたデータの中に、本当は存在しない発行履歴もあるわけだからね。
システムはそうやって悪用するものよ」
アリッサの解答は狡猾そのものだった。
重要なのは真贋そのものではなく、その議題が生じるような違和感すら持たせな事。
垂直思考しか持たないシステムでは、この問題は見つけられない。ベテランの船乗りとて、星が見えなければ航路を見失うように、水平思考を持つ人間でも、違和感という疑問点がなければ、そもそも疑惑を抱けない。
見抜こうとする意思すら芽生えさせないほど無味無臭の品物を見抜く事が出来るのは、偽造の実行犯と共犯者として関わっている人間だけだ。
「なんか、ニヒルというか、システムは全部虚構だと言ってるみたいですね」
「虚構とまでは言わないけど、証明書というものはある規定を論理的に定義するものだから、合理化されていて、そのシステムへの知識は必要なく判断できるようになっている。
でも、それを逆手に取ると条件さへ満たせば、規定を満たしている事が証明される。
運転免許証は、その者が運転に必要な知識を学ぶ事に時間を費やすという条件を満たした事を証明するけど、免許証を持っている交通違反者は無くならないでしょう。
その身分証の場合は、本物かどうかは重視されるけど、どうやって取得したかを聞かれる事はないわ。
条件を満たさなければ発行されないものだからね」
何もかも掌握したがる彼女からすれば、こんな気分の良い会話は無いはずなのに、アリッサの声色はとても冷めたものだった。
「なるほど………」
「ただ、そのカードは万能じゃない。むしろ、その場しのぎよ。
人間とは連続性のある存在だけど、あなたにはそれを示す経歴がない。本来ならテキトーな経歴を用意するところだけど、こればっかりは自分で作る方がいい。
あなたが何者か、あなた自身すらまだ決めかねているしね」
この時、ナナは聞こえる声に、熱が宿るのを感じた。
奇妙な考えだが、アリッサが好むのは、その性格とは真反対に予想出来ない事らしい。
「……アリッサは、自分をどんな風に捉えていますか?」
アリッサはむくりと体を起こし、タバコを咥えた。
寝癖でクジャクのように広がった髪形で、咥えたタバコは、口先からこぼれ落ちそうに先端を下を向き、瞼は相当な重量があるような顔つきだ。
「美人で知的な投資家」
美人な事だけは認めよう。だが、客観的に見て、程とてもだらしない性分だ。
彼女の豊富な知識や知能が生み出すのは、信じられないバカばかりなので、知的かどうかも見方による。
投資家なんてのは完全なデタラメだ。彼女が投資と呼んでいるのは、どちらかと言うと教唆と呼ぶべきもので、本来の投資と似ているのは、利益を得るために出費する行為だけだ。
つまり、アリッサ・コールマンの気質は、やっぱり元素の中では水素に似ている。
「なるほど。つまり嘘つき。どこにでも忍び込み、分子結合さへ崩壊させる水素原子だ」
「水素?」
「人の関係図を元素記号に当てはめて考えてみると、あなたは水素だ」
水素は宇宙空間にすら偏在し、どのような場所にも侵入する。それは分子の隙間にすら入り込み、触れるだけで金属すらボロボロにする事もできるほどだ。
同時に、水素はどんな空間からでも抜け出す事ができ、抜け出せなければ機会を伺って爆発する。
まさにアリッサそのものだ。
「じゃあ、あなたは?」
「炭素」
「じゃ、私とあなたの関係は炭化水素ね」
元素の話が出れば、それらを組み合わせた存在である化合物の話が出るのに違和感はない。
しかし、対等だった会話の主導権が一瞬でアリッサ側に傾いたのを感じると、ナナが注目したのはここから会話の流れがどのように動くかだった。
彼女が、音頭をとる時、彼女の中でこの会話の辿り着く結論は出ている。それ自体も優れた能力だが、それ以上に怖いのは、生み出した会話の流れの中で、相手の思考すら誘導してのける点だ。
「炭化水素……ガソリンですか」
ツルギが時折見せるように、会話をぶつ切りに終わらせれば、彼女の話術から逃れられるが、今のナナはむしろ全てをど真ん中で受け止め、自分に何が起こるかを正確に把握しようと試みた。
「ガソリンというより、いわゆる石油よ。大爆発するし、有害物質を振り撒く。その一方でそれが生み出す膨大で安定したエネルギーは、それこそ信仰のように私たちを支えているわ」
アリッサ、石油の欠点を分かりやすく悪口の口調で言ったあと、まるで通販のセールストークのような転調で声を明るくし、利点に言及すると、信仰と口にした時は祈るように手を組み、その文脈の中で出て来た“私たち”のところでは両目をしっかりとナナへと注ぐ。
そして、アリッサがろくでなしなのは忘れていないが、それでもナナは自分が褒められ、肯定されているような心地良さを覚えていた。
完全に誘導だが、ナナにそのカラクリまでは見抜く事ができない。
少なくとも、唆すや誘導という言葉が与える、まるで犬のリードを引っ張るような小手先の介入ではなく、潮の満ち引きのような感じ取れるより遥かに大きな力が働いているとしか思えない。
「あなたの分類が正確なのか、たまたまの偶然か、あなたと私の、この炭化水素の関係の生活は、内燃機関で言うと2段階目ね。
ツルギがいるおかけで、飛躍しているし、素晴らしい考えだ」
褒め終わる直前アリッサの声色には揶揄うような印象がノイズが紛れ込む。
ナナはそれを察知しつつも、会話の中に突如現れた内燃機関とツルギの話に思考は割き、結局アリッサの核心に最も近い言葉を見つける事が出来なくなっていた。
「内燃機関、エンジンですか?」
「ちょうど、あなたにはその手の専門家に会ってもらおうと思ってたから、良いタイミングだわ」
「えっ? 誰です?」
「クリアのドク。あなたがいきなり爆発しないか、ちょっと健康診断を受けてもらおうとおもってね」
言い終わるとアリッサはタバコに火をつけ、狙撃を受けたようにソファに寝転んだ。
一瞬で会話が切り上げられ、対象にフェードアウトされたナナの頭には自由奔放に疑問符が漂い。結局得られたのは、誘拐犯の逆探知に失敗した刑事の気分だけだった。
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