犠牲者に愛と花束を

紫田 夏来

 わしは青年の頃、放浪者だった。いつだったか、どこだったか、すっかり忘れてしもうたが、たまたま会った見知らぬ老婆は忘れられぬ。わしは何も言っておらんが、婆さんが勝手に喋り出してな、最初は相槌を打っていただけだったが、これは只者ではねえと思うた。まあ、若輩者の勘にすぎん。あてにするな。

 ああ、老婆は修道女だった。地元の者であろうが、古い話をしておったのう。信じ難い内容であった。しかしな、わしは、あれが老人の妄言だとは思えんかった──



 十九世紀の中頃、アメリカ北部で二人の兄弟がすくすくと育っていた。父親は英国文学者で、いつも優しく二人を見守っていた。母親は残念ながら、弟を産んですぐに亡くなった。父は仕事が忙しく、書斎にこもっている時間が長かったが、住み込みの女中たちやその子供たちもいる家は、普段から賑やかだった。

 兄の名はヘンリー、弟はビクターといった。女中たちはヘンリー様、ビクター様と呼んでいたが、父や子供たちからはハリー、ビックと短縮して呼ばれていた。

 しかし、一人だけ二人をさん付けで呼ぶ子供がいた。彼女はメアリー・スティーヴンソンといって女中の娘だ。性格は大人しく、やんちゃな子供ばかりの家では浮いた存在だった。しかしヘンリーは、いつもしょんぼりしている三歳年下のメアリーを、いつも気遣っていた。ビクターはきっと何もわかっていなかったのだろうが、兄とよく一緒にいる彼女に懐いていた。

 ヘンリーが十歳になる年、彼に学校で自分の名の由来を親に聞いてくるよう宿題が出た。真面目に取り組もうとするヘンリーにくっついて、まだ四歳のビクターも父の話を聞いた。父は英国の物語の主人公から取ったと話した。その主人公は科学者だった。父は息子に、将来はぜひ科学者として成功してほしいと思っていることを伝えた。以来「スプリングフィールド家を盛り立ててくれ」とよく口にするようになった。


 それから時が経ち、ヘンリーは二十六歳、ビクターは二十歳になった。父の願い通り、二人は科学の道を進んでいた。

 幼い頃にいた女中たちはみな年を取って顔ぶれが変わり、またかつて共に遊んだ子供たちも、自分の道を歩んでいた。しかし、あのメアリーだけはずっと家に残っていた。

 世間は対立の時代を迎えていた。人々の主張は北部地域と南部地域で真っ二つに割れ、既に戦闘状態。そんな中で、いったいどこで聞きつけてきたのか、ビクターがこんなことを言い出した。

「兄さん、北軍が新しい銃を開発するつもりらしい。機械の創造は兄さん、得意だろ。俺たちでやってみようぜ!」

 ヘンリーは、それを聞いて即答した。

「それは面白そうだな。成功すればこの家を盛り上げられる。」

「私も入れていただけませんか?」

 しれっと会話に入ってきたのは、メアリーだ。

「やろうぜ、三人で!」

 ビクターは心底嬉しそうだった。

 しかし、銃を開発するためには実験のために撃てる広い土地が必要だ。街中で暮らしている彼らには、このままでは難しい。すると、ビクターは提案した。

「確か、大通りをずうっと北に進んだ先が行き止まりになっていて、そこから獣道を歩いていくと開けた野原があるはずだ。」

「ビック、どうしてそんなことを知っているんだ? 僕はそんな場所、見たことがない。」

 ヘンリーは問いかける。

「昔の同級生で、地図を読むのが好きな奴がいたんだ。そいつが、何とも素敵な場所を見つけたと言って教えてくれた。ただし、道なき道を歩いて行くわけだし、俺の記憶だって曖昧だ。」

 それから、ビクターは野原の在処を調べ、そして突き止めた。また、その野原は放置されているが一応資産家が所有しているらしく、三人で暮らせそうな小屋があることも分かった。

 ヘンリーが決断を下した。

「よし、三人でビックが見つけた場所に行って、我々は銃を開発する。スプリングフィールド家を盛り上げよう!」

 ヘンリー、ビクター、メアリーはそれぞれ必要最小限の荷物を持ち、夏の日の夜に家を抜け出した。新生活が始まった。

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