八月三日 群馬 「疑」
相模原の携帯に入った連絡は、群馬で起こった島田宗吾殺害事件で、犯人が自首をしたという連絡だった。
留佳が島田宅で記憶していることの中に、島田亜美のスマホに出会い系アプリ「ループ」が入っているという話があった。
そのことを相模原の方で、警察に伝え、捜査依頼をしていたところ、複数人の男と連絡を取っていたことが分かったという。連絡を断ち、履歴を消している可能性もあるため、情報としては全てではないと思われる。だが、リストに出てきた人物たちの一人目に当たっていたところ、二人目に伺う予定だった人物が出頭し、自ら犯行について供述し出したそうだ。
「島田亜美さんとは、どのような繋がりがあるんでしょうか。」
留佳と相模原は、町田市の駅近くのコンビニで買ったコーヒーを、コンビニ前の道端で飲んでいた。
「犯人は、もう警察の方で事情聴取になっている。島田亜美の家にまた行くか?そっちならまだ動いていない。」
「話を、聞きにいきましょう。なるべく早く行きたいです。」
相模原と辻塚留佳は早急に群馬に戻るための新幹線に乗った。電車内で相模原は部下から犯人の詳細を聞いた。
島田宗吾を殺したのは、楠木蓮という男だという。三一歳、前橋市役所で働く独身男性。身長は一九二センチと大柄だが、部下から送られてきた画像を見ると、細身で、すらっとしているというよりは、病弱な印象を与える風体だった。凶器は利根川に流して捨てたとのことで、現在捜索中。事件時のアリバイもなく、公表していない犯行方法、犯行時刻も本人の口から正確に話をすることができた。
以上のようなことから、島田宗吾殺害事件は、楠木蓮の犯行として捉えることに、現段階では終着しそうだという。
また楠木蓮と島田亜美は、出会い系アプリ「ループ」でつながり、亜美と明確な交際関係にあったわけではないが、時々時間を見つけ、食事に出かけるなどしていたそうだ。亜美は、やはり不倫していたということになる。楠木は、以前、島田亜美に夫の家庭内暴力に関する相談を受けており、亜美さんがいずれ島田宗吾に殺されるんじゃないかと思うと、不安に思って耐えられなくなったため、殺害した。と供述している。
事件前に、二人の接触がないと見られることからも、楠木による独断の、歪んだ押し付けがましい正義感によるものということで、検察側の見解も一致しているようだ。
「後は凶器が出てくれば、物的証拠もあり。完遂だ。」
辻塚留佳の一線を超えた能力が、事件解決に導いた。
というのも、留佳には、瞬間記憶能力、海外でいうところの「カメラアイ」の能力がある。目で見たものを、一枚の写真のように記憶することができる能力だ。
今回、島田亜美にはアリバイもあったため、遺族のスマホを確認するという捜査方法は、手段として除かれていた。しかし、留佳の瞬間記憶能力によって捉えたスマホ画面に、出会い系アプリが収められたことで、捜査の軌道が変わり、このような帰結に至ったのだ。
先天的なものであり、留佳は生まれた時からその才能をもっていたため、学生時代、天賦の才として周囲から羨ましがられてきたが、両親があまり特別視しなかったこともあって、瞬間記憶能力をもつ子が経験する、期待による圧迫を受けずに過ごすことができたという。
留佳自身も、親のそのような姿があってか、特段その能力を好むことも、嫌うこともなく、無関心だったという。
「勉強しなくていいとかよく言われるけれど、結局暗記してるだけだと、応用問題解けないし、学習内容理解しないと勉強楽しくないから、理解しようって頑張ると、結局ちゃんとそれはそれで身になっちゃうから、この能力の出番って、全然ないんですよ。そもそも、私が覚えているって言っても、みんなもスマホで調べれば、情報なんて引き出し放題でしょ?受験っていう、携帯禁止タイム以外に、私の能力って出番ないんだなって思ったら、なんかただカンニングするだけみたいに思えてきて、変なプライドが邪魔して高校受験の時も使わなかったです。」
彼女の自分の能力に対する価値付けが良くも悪くも変わったのは、あまりにも不遇な事件によってだった。
相模原と留佳との出会いも、その事件が関係していた。
留佳は、高校生の時に、両親を交通事故で失った。父が運転し、留佳が助手席、後部座席に母が乗っていた。その日は、休日のルーティンのように行っていたイオンに向かう道中だった。
右折のため信号待ちをしていたところに、右から車が突っ込んできたのだ。留佳は助手席にあるエアーバッグによって、一命を取り留めたが、両親は見るに堪えない姿で亡くなった。その姿を目にしたこともあり、両親の死は彼女に大きなショックを与え、身体の傷が癒えてからも、心のケアのために退院までにはかなりの時間を要した。
留佳たちに突っ込んだ車は、当時頻繁に起こっていたレクサス盗難による盗難車で、相模原はこの盗難グループを追っていた。犯人は複数のはずだが、その時車に残っていたのは事故で絶命した一人だけだった。防犯カメラに姿は映っているが、人物がわかるところまでは至らなかった。
相模原は、留佳が何か目撃情報か何かをもっていないかという思いから、度々病院に見舞いに行っていたのだ。
はじめ、留佳は相模原が行っても、まるで見えていないかのように何も反応せず、不躾に事件について質問しようなんて考えも起こらなかった。それでも、花瓶の花の水を差し替えると「ありがとうございます。」と一言、言葉を発してくれた。その日はそれで終わった。
相模原は病院に通い続けた。寝ている留佳のそばにただ座って帰る日もあれば、少しだけ季節の変化について言葉を交わして帰る日、時には病院の前まできて、引き返す日もあった。それでも、通い続けていた。
ある日、いつものようにお見舞いに行った時、留佳の友達だろうか、お見舞いにフルーツかごが置いてあった。
「フルーツ、美味しそうだな。」
「お見舞い=フルーツって、いつから考えたんでしょうね?」
その頃には留佳の返事も、空返事ではなくなっていた。
「フルーツは、身体に優しいからじゃないかな。」
「じゃあ、海苔の詰め合わせでもいいじゃないですか。私そっちがいいです。」
「海苔は色が暗い。フルーツは色合いも鮮やかだからいいんだろう。」
「それは、花の役目だと思うんです。色鮮やかで綺麗な食べ物が、私が食べることで、いずれあの汚物と化してしまうというのは、何だか気が重くなります。」
そういって、彼女は微笑んだ。これが、初めて、ようやく見た彼女の、僅かでも口角の上がった瞬間だった。徐々に、徐々にだが、凍てついた留佳の心は、溶けていっているように感じられた。相模原はその変化を嬉しく思い、ほぼ毎日、顔を出すようになった。
相模原には、子どもができなかった。妻は四十八の時に脳梗塞で死別した。独り身の相模原は、突然の孤独による、虚無に苦しむ留佳に、かつての自分を重ねていた。
その頃には、留佳の見舞いに行く当初の目的など、とっくに忘れており、むしろ事件を追う日々の、癒しの場として、留佳のいる病院に通っていた。
「聞いたら、相模原さんが来てくださる日々が終わってしまうのではないかと思って、聞かずにいたのですが、相模原さんって刑事でしたよね?どうして私のところに見舞いに来てくださっているのですか?」
留佳が突然このような話を切り出したのは、相模原が留佳の病院に通うようになって二ヶ月経った時だった。
「もういいんだ。はじめは、事故の加害者についての情報を集めるためだった。だが今は刑事だからじゃない。君との時間が楽しくて、君に甘えているだけのおじさんだよ。」
「相模原さんは甘えてなんていません。花瓶を変えて、お話を聞いてくれて、本当に私を愛してくれています。「苦悩がないのと同じ程度に、愛する能力においても、全く欠如している。お前たちは、愛撫するかもしれぬが、愛さない。」太宰の言葉なのですが、相模原さんは、奥さんを亡くして、苦悩されたと思います。きっと今も、苦悩があるのでしょう。だからこそ、愛することを知っているんだと思います。甘えなんかじゃありません。私は愛されているなと、とても感じますよ。」
相模原は、今ではお馴染みとなっている留佳の太宰節でするすると出てきた言葉に、驚きと僅かに胸が熱くなる感覚がして、あわてて適当な考え事に努めた。
「おだてても何も出ないぞ?」
「そんなのじゃないですよ。それより、先ほど仰っていた、事件のことですが、お役に立てるかもしれません。」
「そうなのか?」
「はい。私、瞬間記憶能力があるんです。事件の瞬間の相手の車に乗っていた人たちの顔、絵で描いたりはできませんが、はっきり思い出すことができます。」
「それを思い出すのは苦しくないか?おれはそれをもう無理にして欲しいとは思わない。捜査方法は色々あるしな。」
「大丈夫です。むしろ蓋をしているうちは、私は虚無のままかもしれません。捜査に、協力させてください。」
留佳は、病室のベッドにもたれながら、言った。空間のせいで病弱な様相を感じさせるが、その眼は鋭く、力強く相模原を見ていた。
ここから、犯人逮捕までは驚くほどあっという間だった。容疑者の候補にあがっていた数多の人物たちの写真を見せていくと、留佳がこの人だと言う人物たちがピックアップされた。彼らに事情聴取し、アリバイを調べたところ、事故当時、留佳の車に事故を負わせた車に乗っていたことが発覚し、盗難組織の一員であることが確定。逮捕となった。
組織の一人が口を割り、芋蔓式に組織の幹部を逮捕。相模原が追い続けていたグループを壊滅へと追いやることができた。
留佳は、自分の両親の死を、悲しみはしたが、犯人について、憎しみを語ることがなかった。
「犯人らは、過失致死の罪に問われる。死刑とはならないと思われるが、遺族が死刑求刑で証言台に立つこともできるそうだ。出るか?」
「いえ、結構です。「人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。」これは太宰の言葉ですが、今の私にはそら恐ろしいほどにこの言葉が理解できてしまいます。死=生からの逃走=幸福、という死生観は、事件を通して、私の中に深く築かれていったように思います。ですから、死刑なんて逃亡、許しません。」
「そうか……。分かった。弁護士には俺の方から言っておこう。」
留佳は、打ち解けていく中で、彼女本来のどこかあっけらかんとしている雰囲気を感じる場面が増えていった反面、事故前後の変化がどの程度かは分からないが、内に抱えた深く深遠な感情を、垣間見ることも増えていった。大切に、見守ってやらねばならないと、相模原は感じていた。
この事件は、彼女の心に違う側面でも影響を与えた。留佳にとっては、今までみんなにずるいと言われた瞬間記憶能力というチート武器が、人々を救うための武器に変わった。この変化が、彼女に笑顔を取り戻すきっかけになったようだった。
しかし、相模原は当時知らなかったが、留佳が退院後、病院にお礼の品を渡しに行った時、留佳の担当医から、
「辻塚さんには、瞬間記憶能力があるため、我々に起こる記憶の干渉が起こりません。記憶の干渉とは、記憶「あ」と記憶「い」が混ざって新たな記憶「う」ができる状態のことです。そのため、辻塚さんは、事故の記憶を、そのまま思い出すことができてしまいます。そのため、事故のフラッシュバックが、我々の想定している以上のストレスを彼女に与えてしまうことは、承知しておいてください。」
と言われた。
相模原は、事件について思い出してもらった時、一体どれだけ留佳を苦しめてしまったのか、強く自責の念に駆られた。
それでも、カメラアイが活躍した時の留佳の笑顔を創りたい。相模原はそのような思いから、留佳に瞬間記憶能力が活躍する「探偵」という役割を与え、自分のそばで、ずっとその笑顔を、創出していくことを誓った。たとえそのためにお金を積んだり、危険を冒すなど、どれだけ悪どいやり口になったとしても、探偵辻塚留佳の出番になるよう、事件に首を突っ込もうと決めたのだった。
それから、数年の時を経た。
「本当に、島田亜美はこの事件に関与していないんでしょうか……」
「どうだろうな。だが、何にせよアリバイがある。」
「そう、そこなんです。これは、ただの違和感ですが、事件当日、妙なくらい島田亜美、また息子の昇太君のアリバイがきちんとしています。友人の証言だけでなく、監視カメラのある場所にもわざわざ行き、それを私たちに伝えてきました。アリバイが、きちんとありすぎるんです。」
「きちんとありすぎる?」
「事件が発生したのは、七月二八日、火曜日です。火曜日というのは、多くの居酒屋が定休日に定めるもので、「飲みに行きたい!」と思ったときに、まず避ける曜日だと思います。且つ、亜美さんは、二九日を休みにしていたようですが、他の友達には翌日に仕事がある方もいたでしょう。みんな酔っていたでしょうから、カラオケに行くと最初に言った人が誰だったかは分からないかもしれませんが、予約したお店の、目の前にカラオケがありました。カラオケ側も、一次会後の客をターゲットにしているのでしょう。そこで飲んだ後、カラオケに行く流れは、ごく自然です。それも想定して、そのお店を予約していたのだとしたら……」
「アリバイ作りに努めている……と捉えることもできるな」
「だが、島田昇太については、それは言えないんじゃないか?島田宗吾は、日頃から家庭内暴力を行なっていた。自分が家を空けるとなって、島田亜美は、自分の息子と宗吾を、二人きりにするだろうか?心配だから、昇太にも友達の家に泊まりに行くことを勧めた。こちらは、むしろ親として当たり前の行為に思えるな。」
「はい。私も、昇太君のアリバイについては、結果的に得られた産物であって、亜美さんとしては自分の息子が疑われることはないだろうと考えていたから、あまり重要視してはいなかったように思います。」
留佳の話から考えるに、島田亜美は、アリバイ工作をしていた。実行犯である楠木蓮の動機に亜美が絡んでいるとすると、その可能性も拭えないと、相模原は思った。
「もう一つ、島田亜美の行動に、気になることがあります。」
「なんだ?」
「事件当日、宗吾さんは仕事に出ていて、帰っていたとしたら、およそ夜の十時頃と思われます。配送業と仰っていたので、定時制ではないのでしょうが、帰ってくる時間はおよそ亜美さんも把握していたはずです。少なくとも、亜美さんはお伺いした際に「朝帰ってくると、もういなかったので、仕事に出たのかと思いました。」と言っていました。ここには、夜に一度帰宅した、という意味が込められています。ここまで、よろしいですね?」
「おじいちゃん扱いするな。宗吾は夜仕事から帰ってきて、家で一眠りして、また仕事に出かけた。遅番と朝番の連勤だと思ったんだろう。そうだったのだとしたら、きつい連勤だな。」
「はい。私たちが島田さんの家に伺ったのは、事件後日、二九日です。リビングの様子を覚えていますか?」
「ああ、とにかく何もなくて、綺麗だったな。それは家庭内暴力が原因だって判明したがな。」
「そうなんです。晩御飯の用意も何もなかったんです。お茶を出してくださるときに、冷蔵庫の様子が一瞬見えました。思い出しても、そのまま食卓に並べるようなものは入っていませんでした。勝手ながら除いたゴミ箱にも、食べ物がそのまま捨てられたようなものはありませんでした。我々が感じた島田亜美の人間性とのズレを感じます。」
慎ましく、夫の二歩後ろを歩く印象。家庭内暴力は愛がゆえだと訴える様子。対して、不倫していたという事実。そして、自分が遊びに行くときに、仕事帰りの旦那のご飯を用意せずに出かける姿。相模原の中で、島田亜美の全体像がぼんやりと、歪み始めた。
「島田亜美は、まだ何か隠しています。」
電車で二時間、夏とはいえ、夕方六時になると、少し暗がりも感じられる。留佳たちは、群馬に着いたその足で、島田宅に行った。
島田宅は、はじめて来た時と変わらない、寂しさを感じさせる空気を纏っていた。
インターホンを鳴らすと、島田亜美がすぐに玄関を開けた。留佳たちの顔を見て、当惑した後、
「何かあったんですか?」と言った。
何かあったんですか、か……
「旦那さんを殺した犯人が捕まったのは、ご存知ですか?」
「はい、楠木という方でしたでしょうか?自首したと聞きました。本当に許せません……。刑務所で反省してほしいです。」
「今日は、事件のことでもう少しお伺いできればと思い、伺いました。中、入っても?」
「あ、ええ、どうぞ」
亜美はスリッパをサッと出し、我々を招き入れてくれた。
「相模原さん、少し見てほしいところがあるんですが……」
前回と同じソファにつくと、留佳が唐突に、相模原も予想だにしなかった言葉を言った。
「昨日、楠木蓮がこの家を訪ねましたか?」
部屋全体の時間が止まったようだった。
「何を言ってるんですか?何を、言ってるんですか!」
島田亜美は怒りに任せたように声を荒げた。旦那の殺人犯と、家で会っていたと言われたのだから、腹が立っても仕方ないだろうと、普通は考えるだろうが、我々は予め疑いをもってこの家にきているため、その怒号は、むしろ確信をつかれ、狼狽えたが故に出たもののように感じられた。
しかし、ブラフだとしては大胆すぎるな、と思った。なぜ辻塚はそう言ったのだろうか?
「亜美さん、落ち着いてください。私は先ほど、こちらにいる相模原刑事に、私の目には届かない箇所を見てもらいました。上から二段目の靴棚です。前回私たちが伺ったのは七月二九日。その時には、靴棚上段は、見事に綺麗な状態でした。ですが、二段目の靴棚の側面が、少し汚れているんです。相模原刑事に見ていただいたところ、靴棚に砂が残っていたそうです。そうなると、七月二九日から今日に至るまでに、その靴棚を使用したと考えるのがごく自然です。」
楠木蓮の身長は確か一九〇センチ以上だった。なるほど。靴箱を見たにも関わらず何も気づかなかった自分が情け無い……そういうことか……
「家に、招いたんですね?そして、その痕跡は徹底的に消したのでしょうけれど、楠木の身長からでしか、分からない痕跡が残っていました。相模原さんが大きめな人で助かりました。」
「それだけで、楠木がきたということにはならないでしょう…?」
「では、質問に答えてください。どなたがいらっしゃったんですか?なぜ来訪者の靴を、靴棚にしまったんですか?それも、わざわざ亜美さんには届かない高さの棚に?」
島田亜美は、俯き、黙ったままだった。
「私は、それに明確な解をもっています。まず、この家にきたのが楠木蓮だと仮定します。楠木蓮と話していることを目撃されては困るから、家に招き入れた。昇太君は、その時、家にいなかったのでしょう。いつ帰ってきても、昇太君と適当に玄関で話をしている間に裏口から楠木を家の外に出すことはできる。けれど、家に入ってきて、まず靴を見られたら、昇太君も中学生ですから、謎の来訪者に気づくでしょう。だから、靴棚にしまったんですね。高い位置になったのは、昇太君に見えない高さに入れるように、亜美さんが楠木蓮に伝えたのではないですか?何か間違いがありましたら、訂正をお願いします。」
島田亜美は、俯いた姿勢のまま、静かに声を発した。
「仰ったことに、訂正はございません。ですが、前提が違います。私は、昨日、楠木が来ることは全く知らず、突然の来訪だったということです。突然、夜に楠木が私の家にきて、「おれが旦那を殺した。これでおれと亜美は永遠に一緒だ」と言い出したんです。もう警察の方とも話をしたので認めますが、私は宗吾さんに向けられた家庭内暴力への恐怖と、相手にしてもらえない寂しさから、不倫をしました。ですが、楠木蓮さんと最後に連絡をとったのは、六月末です。それ以降、本当に私と楠木さんの間には、関わりがなかったんです。それを突然、俺が殺してあげたなんて話し出すから、本当に驚きました。ですが、もし本当に目の前にいる人が殺人犯だとしたら、無下に扱ったら自分も何をされるか分からない。けれど、何処か冷静に、昇太にだけは見られてはならないという意識も働きました。そのような前提の上で、後は辻塚さんの仰る、通りです。」
実際、島田亜美の携帯から、楠木とつながるやり取りは、六月末の楠木からのデートの誘いで途絶えていた。島田亜美が今語ったことに、虚偽はないだろう。
しかし、そうなると、やはり島田亜美のアリバイは、偶然出来上がったものということになるが、それでいいのだろうか。
「一つ、違う質問をさせてください。七月二八日、島田宗吾さんが殺害された日、なぜ亜美さんは、宗吾さんの分の晩ご飯を作らずに家を出たのですか?」
「二九日の朝、家を出るときに、晩御飯はいらないと言われたんです。だからですけど、何か……?」
「いえ、分かりました。ありがとうございます。」
アリバイは偶然の産物。晩御飯の件は、特に問題ではなかった。杞憂ということか。
捜査は、取り越し苦労の積み重ねだ。これで、「島田宗吾殺人事件」の全容が見えてきたというものだ。
が、これでいいのか、どこか些かの不安も残る。
「ありがとうございました。また、別の刑事から事情聴取があるかと思われますが、ご協力よろしくお願いします。」
相模原と、辻塚留佳は、島田宅を後にし捜査結果を報告した。
「気になっていたのだが、なぜ楠木蓮が家に来たのが昨日だと分かった?」
「七月二十九日から今日に至るまでのいつなのかは、私には分かりません。そこはブラフでした。ですが、どこかの日付を確定して聞いた方が、もし当たった際に情報としてより明確なものが得られるため、敢えて限定して聞いたまでです。昨日と言ったのは、日にちが空いていれば、綺麗好きの留佳さんなら、靴棚の砂に気付くのではないかと思ったからくらいです。結果として昨日だと分かったので良かったですが。」
「なるほど、そういうことか。それにしても、第一印象とは、実に当てにならないものだな。てっきり島田亜美は、最高な奥さんかと思ったよ。まさか不倫していたとはな。」
「愛する行為は、相手を理解し、許容していくことが必須の要件になると私は考えています。エーリッヒフロムの「愛するということ」という本では、愛することの四要素として、「知 尊重 配慮 責任」を挙げていました。第一印象で愛があるように見えるからって、疑ってかかれというわけではありませんが、相手のこともよく知らずに、愛することはできません。島田亜美さんは、愛に飢えていたんです。ですが、太宰が「愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。」と記したように、島田宗吾は、愛の適切な表現方法を知らなかった。が故に、暴力の表現となってしまった。亜美さんは、そんな旦那さんを、理解し、尊重し、配慮する責任から逃れ、別の人からの愛の供給を求めたのでしょう。不倫は、根源的悪ではなく、諸表現の帰結です。互いに、愛するという行為を、契約したにも関わらず努めることができなかった。そこに根源的責任があります。まあ、そうは言ってもやはり不倫という行為をした、実行犯がやはり悪なのでしょう。実行犯が悪でなければ、人々の感情が和やかではいられませんからね。」
また難しいことを…と思いつつ、留佳が今言った、相模原は愛することの四要素を思い出していた。
俺は、留佳を愛せているのだろうか…少なくとも、留佳に何かあったら全責任を負う覚悟はできている。
「私は、両親にたくさん愛され、今は相模原さんがそばにいます。愛され続けている私は本当に幸せ者です。」
留佳の言葉が、老兵の胸には嬉しくも、少しチクッとした。
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