同日、11時19分
与えられた研究室兼自室は、思っていたよりも広々としていた。事前に送っておいた私物が入った段ボールが、部屋の隅に置かれている。
「……どうしよう」
この荷物たちを出すべきか否か。
すぐにでも転属したい身としては、移動が楽なのでこのまま箱に入れていた方がいい。だが、それはあまりにも「すぐにでもここを出ていきます!」と言っているような気がする。
悩んだ末、必要なものだけ出し、あとはそのままにしておいた。何か聞かれたら、荷解きが間に合わなかったと言っておこう。
さて、残りの時間は何をするか。
ちらりと見た腕時計は、昼時を示していた。
「『家』の方に行ってみようかな」
食事の準備を手伝うもよし、副所長の言うように上の蔵書を読むもよし。このまま部屋にいてもすることがないので、まずは外に出ることにした。
渡された鍵をかける。ロックがかかった瞬間、自身の魔力の色がドアノブ全体を包み込むのが見えた。
「さすが、こういうところは国立研究所……」
なかなかに失礼な感想である。しかし、それ以外の惨状を見れば、思わず口から出てしまうのも仕方がないだろう。
まだ聞こえる甲高い笑い声に震えながらも、階段へと向かう。他の研究員は慣れているのか、何の反応もない。ここにいると自分もいずれああなってしまうのか。それだけは御免である。
「家」に着くと、流石に笑い声は聞こえなくなった。代わりに食事を作っているのであろうよい香りがしてくる。
「あ、えっと、ご飯はまだです……」
「いえ、あの、何かお手伝いできることはないかと思いまして」
食堂では、和馬が包丁を片手に何やら準備をしていた。食事をしに来たわけではないことを伝えると、困ったような顔(普段からそうだが)をする。
「あ、その、これは俺の研究でもあるので……だ、大丈夫です、ありがとうございます」
「料理が研究ですか?」
正直、まったく想像ができない。同じようなテーマの論文すら読んだことがない。首を傾げる天音に、和馬が料理する手は止めないまま説明した。
「簡単に言うと、栄養学のようなものです。食材が持つ栄養価をコントロールして、その人に合わせた食事を作ることができるようにしたくて。食事制限とか、ダイエットとかで食べたいものを食べられない人に、好きなものを作ってあげられるようにしたいんです。これには科学と魔導技術を組み合わせて……」
普段とは異なり、どもることなく流暢な説明が始まったと思うと、何かに気づいたように説明が止まる。
「す、すみませんっ、面白くもないことを長々と……」
「いえ、大変興味深かったです。ありがとうございます」
「ほ、本当ですかっ!? 気を遣ってませんか!?」
「遣ってないです! 落ち着いてください!」
本当にネガティブだなこの人。今までどうやって生きてきたんだろう、という素朴な疑問が生まれた。
「山口さんは、ここに来る以前は何をされていたんですか?」
「あ、が、学生です。調理師の専門学校に行っていて……就職前の健康診断で適性が出て、ここに配属されました」
「それは……研究所配属になるのは、苦痛だったのでは?」
就職前ということは、彼は夢を叶える直前にそれを諦めなくてはならなくなった、ということだ。魔導考古学研究員適性は、1度出てしまえば義務教育を除く学校や仕事は諦めなくてはならない。天音だってそうだ。大学受験を諦め、こうして研究所にやってきている。
「初めは、そうでしたね……でも、ここの人たちにたくさん教えてもらって。魔導にも興味が出てきて。こんな俺でも役に立てるんだって気づいたら、辞めたいなんて思わなくなりました」
「……今、もし。昔の夢を叶えられるとしたら、ここを辞めますか?」
意地の悪い質問だったと思う。けれども、聞かずにはいられなかった。
この研究所に、夢を諦めてまで残る意味があるのか、知りたかった。
「え? 辞めませんよ。俺、ここが好きなんです。この場所も、皆も。研究だって続けたいですし」
笑ってそういう和馬に、天音は何も言えなくなってしまった。彼の真っ直ぐな明るい笑みは、天音には眩しすぎた。
その日の昼食は、美味しいはずなのにまるで味がしなかった。
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