第3話 希望と期待


 マリアンヌは女中たちが忙しなく働く音で目覚めた。


 窓からさす日はすでに高い。


 あわてて起きようとする。しかし、みなれた馬小屋の天井ではなく、絵画が描かれた天井だ。


 それに気づいて、はっとする。


(そうだわ、ここは辺境伯家のお屋敷……)


 まぶたを瞬かせながら、マリアンヌは昨日のことを思い出した——。



「まずは、ようこそ。マリアンヌ」


 つまずいたところを助けられたあと、夕食を共にということで、マリアンヌはオスカーと食卓を囲んでいる。


「ありがとうございます。オスカー様。その、さきほどは……」


 恥ずかしさでオスカーの顔をまともに見られないマリアンヌは、熱っぽい顔をふせながら、どうにか先ほどの失態を謝罪しようと口を開いた。


「気にすることはない。それより足は痛まないか?」


「は、はいっ」


「よかった。それで——君を招いた理由を話したいと思う、聞いてくれ」


 いきなりの本題だ。子爵家とはいえど、ろくな付き合いもない家へと、愛妾としてまねく。


 なるべくなら穏便な理由であって欲しいと願いながら、マリアンヌは息を飲みこみ頷いた。


「いまから十三年前。この眼帯をつけるもっと前のことだ」


 オスカーは右目をなぞるように触れ、遠くを見つめて語り始めた。


「その時、わたしは戦場で死にかけていた。十五歳の初陣から手柄を重ね、己こそが強者だと勘違いしていた報いだ」


 優しげな調子ではあるが、当時の感情がにじむようにオスカーの声色は少し冷たさを帯びた。


「調子に乗っていたわたしは、敵の策にはまり敗走。部下たちは散り散り、逃げこんだ森で敵に囲まれた」


 死。という言葉がマリアンヌの脳裏に浮かぶ。


「敵は百名近い連隊だ。せめて敵を道連れに自爆しようと、わたしは魔力を練り始めた」


 オスカーはいったいどうやって生還したのか。


 マリアンヌは手を握りしめ、続きを待った。


「だがその時、敵の横合いを突いて小隊が現れた。ウェンリー子爵夫妻が率いる部隊だ」


「お父様とお母様が……」


 予想しなかった父母の名だ。


 思わず立ち上がりそうになるのをマリアンヌはこらえる。


「獅子を駆る魔女といえば敵は震え上がったものだよ」


 前ウェンリー子爵は獣化魔法を使い、獅子となり戦場を駆け巡る。


 多少の傷は、夫の背に乗る妻が強力な回復魔法を使いすぐに治してしまう。妻自身も槍の名手で、向かうところ敵なしの夫婦。


 オスカーから語られる父母の活躍にマリアンヌは誇らしい気持ちになった。


「それから一年程はウェンリー子爵と共に戦地を巡る日々だ。わたしはそこで一つの誓いを立てた」


「誓いですか?」


「そう、命を助けられた恩を返す誓いだ」


 遠くを見つめていたオスカーの瞳がマリアンヌへ向けられる。


「ウェンリー子爵夫妻はその誓いを受けて、こう言った。『では、戦が終われば』と。しかし当時は戦が終わるとは思えるような状況ではなかったから、それは不要だと諭されたに等しい」


 幼い時の記憶しかもうないが、いかにも父母が言いそうな言葉だとおもい、マリアンヌはうなずいた。


「夫妻はその二年後、戦場にて命を落とされた」


 負け戦で味方を逃すための捨て石になったと、マリアンヌは聞かされていた。


 だがその時逃した味方たちは、のちに大きな戦果を挙げ、夫妻の犠牲は国全体の勝利に繋がったとも。


 直系の後継がいなければ、子爵家程度、普通はそのまま取り潰しだ。


 けれどもウェンリーの家名を残すべきという声は多数にのぼり、子爵家は存続。


 もっとも、それが遠縁のベイルが跡を継ぐ土壌となったのは、マリアンヌにとっては皮肉ではあるが。


「戦後、せめて恩人の娘に何かを返すべきだと思い、調査を……ここで改めて謝罪しよう。遅くなって済まない」


「——どうか頭をお上げ下さいっ」


 椅子から立ち上がり、深く腰を折るオスカーに、マリアンヌはあわてて声を出した。


「すまなかった。戦後処理や呪いのことで動けなかったというのは言い訳にしかならない。もっと早く気づくべきだった。わたしの怠慢だ。それに愛妾など……心から望まぬことであったろう。しかし他に救う方法も思いつかなかった。もちろん形だけだから安心してくれ。君が独り立ちできるよう手伝いをさせてほしいのだ」


「わたしは……」


 次々と明らかになる事実。それになんと返せばいいのか分からず、マリアンヌは言葉に詰まってしまう。


「まずはゆっくりとするといい」


 その様子をみたオスカーはその日、それ以上のことは話さぬまま食事を終え、マリアンヌを自室へと戻したのだった。



(普段はこんな時間まで寝るはずはないのだけれど……疲れていたのね)


 驚くほど柔らかく、体を捉えて離そうとしないベッドから何とか起き上がり、革靴へと足を通す。


 床に敷かれた絨毯の意匠があまりにも精緻で目を奪われていると、ドアがコンコンッとノックされ、女中たちが部屋になだれ込んできた。


 先頭を切って入室してきたのは、昨日挨拶のあった女中頭のソフィアだ。


 整った顔立ちと黒茶の髪色。柔らかい物腰。


 話しやすい彼女の雰囲気は、知らない土地で緊張するマリアンヌにとって好ましく、たった一日足らずで、すでに心を開きつつある相手だ。


「おはようございます、奥方さま。朝のご準備をお手伝いさせて頂きます」


 ソフィアはマリアンヌに深くお辞儀をすると、控えていた女中達に目配せを送る。


「奥方さま? あ、あ、はっ、はい、よろしく、あっ、えっ! えっと」


 いわれた意味がいまいち理解できないまま、マリアンヌはあっという間に女中達に囲まれてしまう。


「お顔のお浄めを」「お召し物を」「御髪を」「お化粧を」「香水はどちらがお好みでしょうか」


「えーと……」


「おすすめさせて頂くのは黄陽花アンバーの香りでございます」


「そ、それでお願いします」


 聞いたこともない花の名だ。いわれるがままうなずくしかない。


 辺境伯家の女中たちは、あっという間にマリアンヌを仕上げていく。


「奥方さま、ご確認をお願い致します」


 姿鏡の前にうながされ、自分の姿をマリアンヌはみた。


「えっ……?」


 一瞬、それが自分の姿だと認識できなかった。


 シニヨンに整えられた髪、薄くひかれた口紅に整えられた肌。


 肩が出たマーメイドラインのドレスも似合っている。


 気恥ずかしいが、まるでどこかの国のお姫さまのようで、マリアンヌは顔が熱くなった。


「昨日から女中一同、それはそれは楽しみにしておりましたッ! 思った通りでございます。奥方様のお世話は我々の使命、いえ、今後の生きがいでございますっ」


 ソフィアが興奮した様子でマリアンヌを鏡ごしに見つめた。


「そ……そうですか」


(また、奥方と……いったいどういうことかしら)


「奥方さま。使用人へかける言葉は……いえ失礼いたしました。そちらはゆっくりと。まずはご朝食をお運びします」


「ありがとうございます。ところで、オスカー様は……」


「お館様は領内の視察に向かわれました」


「……そうですか」


 マリアンヌは今の姿をオスカーにみて貰いたくなったが、彼はいない。


 そのことを残念に思うこの感情が何なのか、マリアンヌはまだ良くわからないでいた。


 女中たちは、マリアンヌの憂う様子に、声が出そうになるのを必死に耐えている。


 あのオスカーに好意を抱く。


 奇跡だ。女中たちは誰ひとりとして、オスカーの顔をみることができない。


 目を見なければ、どうにか話すぐらいは可能だが、それでも身体は恐怖でふるえる。言葉であらわせない根源的な恐怖だ。


 婚約者とされた女性たちも、全員三日と耐えられず逃げ出した。


 愛妾としてまねいた経緯はもちろん知っている。しかしこれは、それですませられないことだと彼女たちはとらえている。


 辺境伯家の隆盛、ひいては女中たちの故郷、その安定に繋がる答え。


 それを確信に変えるため、ソフィアはゆっくりとした口調でマリアンヌに問いかけた。


「奥方さまはお館さまが恐ろしくないのですね」


「……そのことですが、どういうことでしょうか?」


「お館様が呪われたお話しはご存知なのですね?」


 ソフィアはテーブルへマリアンヌを案内し、椅子をひきながら着席をうながす。


「ええ。先の戦で敵国の魔術師を討ち取られたさいに呪われ、以来、見るものに恐怖を抱かせると」


「事実でございます。長く共に過ごす我々でも、お館様の放たれる恐怖に対応しきれておりません」


「わたしにはよくわかりませんが……あんなにも凛々しくて、お優しい方が怖いとは」


 マリアンヌが顔を赤らめながらこぼした言葉に、ソフィアたちは雷に打たれたような衝撃を感じた。


 ざわつく室内に朝食が運ばれてくる。


 ソフィアを残して女中達は退室をはじめた。


「……頂きますね」


 いまいち状況が理解できないが、待たせては悪いと、マリアンヌはテーブルに用意された朝食を食べ始めた。


 ソフィアの目は爛々と輝きマリアンヌを見つめている。


 期待感に満ちたまなざしの意味は、マリアンヌにはまだ理解できなかった。

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