空木に二人
虚数クマー
襲来
「お前達が死ぬ理由は、無知だ」
ごうごうと火の燃え盛る音と、自分自身のぜぇぜぇという荒い息。
夜の冷たい空気を忘れるような灼熱と苦痛のなかで、ケルハに突きつけられるその声だけが静かだった。
「我々を殺してでも生き延びんと、戦い抗う。あるいは、コソコソと弱者らしく逃げ延びる。そのどちらだろうとお前達は選べたはずだ。だが、早々に我々に降伏した」
黒々とした複眼がケルハのことを覗き込み、淡々と言葉を放り投げる。
眼の前の怪物は、四つに裂けた口と虫を思わせる細身の外骨格の体をしている。腕は一対多いかわりに手には揃って小指がなくて、備わった鋭い鉤爪が今にも自分を引き裂いてしまうのではと少年には思えてならなかった――だが怪物は、ひたすらに話し続けるだけだ。
「降伏……ああ、降伏。愚かだ。くだらん迷信で俺たちを殺せぬと思い込み、ひれ伏し許しを請うばかり。都合よく許してもらえると思ったのか?本当に?」
まるで先生か村長のように言い聞かせる口調の中に、村中を焼き続ける炎よりもなお激しい憎悪が隠れているのだとケルハは悟った。あれほどの虐殺を成しておいて生き残りに講義をする理由など、彼には他に考えつかない。
(……そもそも、ただ降伏しようと思ったわけじゃない)
命乞いをし、食料や僅かな財産を全て捧げて、目を引き時間を稼ぐうちに隠れた一人が領主に状況を伝えに向かう。そういう算段だったのだ。戦いの術も知恵も少ない村人たちの咄嗟の案の中ではもっとも現実的に思えた。
(……でも、簡単に見抜かれた。その癖にこんな説教を言っている。……虐めてるんだ、僕らを)
死んだヒパは一回り年上で、多くの子供の兄貴分だった。村のおおよその人間と同じくどこか陰気な青年ではあったが、その常の責任感と狩人の経験を買われて伝令を任された。きっとやり遂げて見せると、そう頷いて――再開した時の彼は、必死に走ったであろう形相のままに、首はあらぬ方向に折れ曲がっていた。見知った人間の変わり果てた姿も、それを成した存在も、ケルハにはただただ恐ろしかった。
その時から今まで絶望は上塗りされてばかりだが、ケルハは潰れることなく必死に思考を回し続けている。考えることに全力を尽くしていれば、少なくとも現実逃避にはなった。恐怖の結末にたどり着くことを、どうにか遠回しにできているように錯覚できる。もっともそれは、終わりの見えぬ拷問めいたこの状況を、ひたすら耐え続けねばならぬことと同義だったが。
(勇敢だったな、ヒパは。……領主さまのとこに行くにしろ、自分だけ逃げ延びるつもりだったにしろ。ここからひとりで抜け出すなんて、絶対に怖い)
ケルハはひなびた田舎に育った少年だ。齢はまだ15にすぎない。当然、直面した敵意や悪意といったものはせいぜい村の中で育まれる範囲であって、それらが時には決して軽いものではなかったとしても、少なくとも誰かを死なせるほどのものではなかった。
だが、そうではない悪意があるのも知っていた。
遠く離れた国境に、幾柱もの災厄の王達が配下を連れてなだれ込んできたのだと。四大国の同盟軍、それを率いる幾人もの勇者が、かの者たちの侵略を防がんと立ち向かったのだと、年かさの行商人からまこと恐ろしげに聞かされたのだ。
災厄の名を
「馬鹿馬鹿しい。我らは神でもなければ不死でもない。お前たちの古ぼけた農具だろうが、当たりどころが悪ければ十分に殺せる。人間どもがどうやって同胞を殺したか、じっくりと聞かせてやろうか」
「もっとも」
青い肌の、人とさほどかわらない姿の――それならばと助けを求めた女をさっき笑いながら蹴飛ばした――角の生えた
「モノを知らん村を狙って襲ったんだがな。国境から遠けりゃあ俺らのことも詳しくねえ、詳しくなけりゃビビってロクに抵抗できねえ!手頃な獲物だ。特にこのあたりは迷信に凝り固まったバカが多いって聞いてたしな」
「余計なことを言うな、ヴァーロロ」
「なんだよシャエバ、良いじゃねえかこのくれえ。どうせコイツも殺すだろ」
ヴァーロロと呼ばれた有角の
(死にたくない)
今すぐにも泣きわめきたかったけれど、感情のままに振る舞ったとき、果たして自分が生き残れるのかはわからない。あの勇敢なヒパも死んだ。両親も、斜向いのおじさんも、偶然村まで来ていた先生も、頼りになりそうな大人はあらかたしばらく前に殺されてしまった。家畜達も、貧相な畑やぼろの家さえ、全てに死がばらまかれた。
その中で生きている人間は、もはや死に損なったものたちだけだ。責め苛み弄ぶためだけに生かされている。ケルハもまた、そうした死に損ないの一人だった。現実逃避はぐるぐると渦巻いて、たったひとつの結論を出した。この状況から抜け出すための結論を。
(今頼りにできるのは、この僕だけだ。僕がどうにかしないと、僕が死ぬ)
死にたくない。繰り返し胸の内で呟く。
生きる理由はわからない。でも、それだけのためにあがく。あるいはこれも、恐怖から顔を背ける方便なのだろうか。そうだったとしても、自分で選んだ。
すぐ後ろで勢いを増す炎の群れが、赤い舌をちろりと伸ばした気がした。
「……ど、どうして……」
「ん?」
「どうして、いま、僕らを……殺すんですか。わざわざこんな、抵抗できなさそうな村まで来て。戦争は、戦争はもう終わって……わ、和睦?とか……」
「ほう。寒村の人間といえど、本当に何も知らんわけではないか」
会話で今更どうにかなると本当に信じたわけではないが、それだけが生き延びるわずかな可能性だった。なにしろ手も足も血か汗かよくわからないものでどろどろで、どこをどう怪我したのかわからないほどに痛んでいる。動かせないほどじゃないけれど、戦いにも逃げるにも使えそうにない。からからに乾いた口だけが、まともに駆動する残ったひとつだ。
「み、都のほうで、
和睦。和平。交流。
村の人間が戦わなかったのは、だからこそであった。迷信による恐怖こそが一番の理由ではあったけれど、本当に交渉や約定で戦が終わったのならば、万に一つ言葉と情が通ずるのかもしれない。その可能性に賭けたのだ。もっとも、結果は無惨なものだったけれど。
「そうだ。二年だ。和睦を結び、二年。我々の国のいくつかは、人間共と国交を結んだ。食料に文化、薬。魔法どころか、知恵に知識すら今や行き交う。旅行だってできるぞ、簡単にとはいかんかんがな。とにもかくにも、平和の時代だよ」
シャエバが面白い冗談でも見つけたように笑い始めると、ヴァーロロら他の
「ふざけるな」
「ッ、ぎ、あ゛っ………!!!???」
頬から鼻にかけて、一瞬冷たくなって、熱くなって、どろりと血が流れた。ケルハにわかったのはその程度だった。実際はシャエバの鉤爪が顔の表面を軽く斬っただけのことだったが、極限状態の彼をさらに追い詰めるには十分すぎる苦痛だった。何より痛みを自分にもたらした眼前のひとならざる者の、その憤怒が怖かった。
「和睦だと。国交だと。交流だと……!!馬鹿げている!!二年!たかが二年だ!
そう容易く癒えるものか!」
「う゛、う゛~……っ!!」
「無知な、田舎の、ガキめが!!殺し、殺された恨みが!!同胞の!友の死が!!」
「い゛っ、ぐ、げえっ」
「たかだか二年などで!!貴様ら……貴様ら人間とて同じだ!我々と!!同じのはずだ!!だから我らはここに居るというのに!!貴様は、貴様はただ!!」
「っ、っ……!!!」
「離れているというだけで……知らんというだけで!!!」
次にケルハにやってきた痛みは殴打だった。一息に引き裂いてしまわぬのはより苦しめて嬲り殺すためであったが、シャエバの憎しみからなる冷徹な理性は、熱を増した憎悪の狂気の前には無意味に思えた。六本の四肢はどんどんと振るう威力を増していって、その間にも他の
(痛い)
ただ、耐える。それだけがこんなにも苦しく、辛い。錯乱するケルハの頭の中は、矢継ぎ早に思いつくことを叫んでいた。熱い。しくじった。馬鹿だ。もっとなにか、違うことを。しゃべるのがうまかったら。でも、いまは僕だけ?寄ってたかって、僕だけが。なら、誰かは逃げられる。今度こそ領主様に伝えられれば、きっと。でも、たぶん、僕はそれまでに。痛い。怖い。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い。
(いやだ……いやだ……!)
爪が、足が、剣が、あるいは魔法が、狂った暴力と暴力と暴力が、死という形で少年を飲み込もうとしていた。ヒパの視線を感じた気がして、確かめる余裕もなく苦痛に再び揺さぶられる。意識を失う自由もなかった。だから、せめて抗うように手を伸ばした。ぶちぶちと腕が引きちぎれて、ごきりとどこかで嫌な音がして、しかしその先に、引き寄せられるように彼女を見つけた。彼女の目を。暗い瞳を。
(……だれだろう)
わからない。だけれど、必死だった。文字通り。
まるで引き寄せられるようにして、思考より先にもつれる舌は言葉を発した。
「ぁ……す、け……て……たす、けて……!」
「……あぁ、いいとも」
思わずと言ったふうに少女は呟き、その声で
昼間と見紛う燃える村のなかにいて、彼女の両の目は一切の光を返さぬようだった。汚泥を沈めに沈めた末のような、淀んだ色の深緑の瞳。髪の色もいくつか薄い色が混じる以外はよく似た緑で、前を開いた外套はさらに濁ったように黒い。大きくさらけ出した病的な白い肌が、それらとの対比で余計に目立つ。背はさほどでもないが足はすらりと長く、美しく整った造形の顔や胸元に木の根のようなものが這っていて、ひとならざる不吉さを艶やかに際立たせていた。
それらの特徴すべてを、今際に片足をかけたケルハが見て取れたわけではない。ただ直感的に、この少女もきっと
「正直なところさ、間に合わなかったと思って焦ったんだよね。良かった良かった、まだみんな死体じゃない。……いや、よくはないか。ごめんね?」
「誰だ、お前は」
「さぁてね。
誰何したヴァーロロの首が、ころりと落ちた。地面に長い角から落ちる前に、宙の頭を少女が掴む。もう片方の手には、細身に似合わぬ鉈のごとき大剣があった。
それはどこか、処刑具に似ていた。
「当ててみなよ。次は誰にする?君?それともそちらの君かな」
即座に槍で貫こうとした羽つきの
多くが次の動きを決めかねる中で、シャエバが、震える声を漏らし始めた。自らの鉤爪が捉えたケルハを離したことにも、まるで気がつかないようだった。
「……お前……お前。その腕前。緑の髪と瞳。植物の特徴、首狩りの剣……まさか。いや、まさか、まさか、貴様!!」
驚愕は、すぐに怒りに変わったようだった。その憎悪は、ともすれば人間に向けられたそれより大きいのではないかと、どこか他人事のようにケルハは思った。
「――――《狂奔の勇者》!!!」
正解だと言うように、勇者はにこりと微笑んだ。
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