劉禅を考えるへの応援コメント
私は言われる程劉備は優秀じゃなかったと思います。
個人的な武勇にはそこそこ優れ、人望もそれなりですが、
戦術家、戦略家としては一流とはとても言えないし、
最後の最後に部下が止めるのも聞かず、無謀な決戦をして大敗しています。
三国志演義という【小説】の中で持ち上げられ過ぎていますね。
劉禅はその為に暗君にされたというのは、その通りの様に思います。
彼がこうなったのは、劉備と諸葛亮のせいなんですよね、本当は。
作者からの返信
ご感想ありがとうございますー。
劉禅って乱世の群雄より、統一王朝安定期の中継ぎ皇帝に向いてたと思うんですよねぇ。
仮に明王朝の中期とかだったら、普通に評価高かったと思いますw
編集済
劉禅を考えるへの応援コメント
劉禅は叩かれ過ぎなんですよね。これは可哀相ですし、彼より酷い人は一杯いるんですよね
ただ、個人的には擁護もしづらいです。
彼の下で、蔣琬、費禕、姜維とトップが入れ替わっていますけれど、魏に対して主戦、非戦、主戦タイプでその時々変わっているんですよね。
特別そうすべき要因はなさそうなので、トップに全部任せてしまおう的なところがあったのではないかと。
魏ならともかく、一番弱い蜀で君主が国是を示さない状態は辛いので、少なくとも国を導ける名君とは言えなさそうです。
そうなれなかったのは本人の資質以上に諸葛亮が全部やっていたせいでもあるのですけれど、そのせいで若年時にスーパー宰相に頼り切りでその死後指導力をまるで発揮しなかった明の万暦帝にかぶってきて、下手な暗君より始末に負えないイメージにもなります。
治世期間に余計な粛清やら流血沙汰はないので呉の孫皓よりはマシですし、降伏も特別批判はしないですけれど10点評価なら4点くらいかなぁと思っております。
作者からの返信
>10点評価なら4点くらい
うん、そのあたりが妥当な評だと思いますよ。
ただ世を眺めると、0点、なんならマイナス100万点みたいな罵られ方をしている事が多くて、カウンター的にこれを書いた次第ですw
劉禅を考えるへの応援コメント
劉禅を初めて知ったとき、なんて勇気のある人だろう、と感じ入ったことを思い出します。
親の背を見て、素晴らしい遺臣を見てなお、蜀を戦火にさらさず国を解体した彼は、理想の君主でないかもしれないですが、かっこいいのです。
作者からの返信
どうしても「血族の構成員としての個」が強い当時の価値観からすると「父祖の築いてきた物を壊す」というのは、まぁ叩かれて然るべきなわけですが、彼の場合、その辺の腹も決めてたんじゃないかなって思い巡らせると、余計にカッコよくてですね…。
そうなってくると逆に「名君などと呼ばれると迷惑です。私は見下げ果てた親不孝者でなくてはならないのです」とか草葉の陰で思ってそうでw
編集済
劉禅を考えるへの応援コメント
劉禅という人は、決して豊かな才能に恵まれてはいなかったのは確かですが、地元に根を張っておらず各派閥の思惑もてんでバラバラの、蜀漢政権の舵を曲がりなりにも取り続け、最後は出来る限り穏便に幕を引いた、と言えるわけですね。
まあ、彼に対しては色々思うところがないでもないのですが、救いようのない暗愚だとか、趙雲に助けられずにくたばっていればよかったのにとか、さすがにボロクソ言われ過ぎな気はします。
>五胡~南北朝の「暴君暗君スマッシュブラザース!」が基準になっちゃってるので
まあ、あの辺のと比べたら(笑)。
作者からの返信
まぁさすがに五胡~南北朝の君主たちは極端(笑)ですけども、とはいえ乱世の群雄から統一王朝までひっくるめて「中国史の通史全体」で君主を並べても、トップクラスには入らずとも、中堅以上にはなると思うんですよね劉禅。
やっぱり劉備の息子としての「型枠」がキツすぎた印象がありますなぁ…。
劉禅を考えるへの応援コメント
なるほど。
と思わせる説得力がありますね。
でも、少なくとも黄皓の専横を許した点は名君とは……。
劉禅は良くも悪くも二代目のお坊ちゃんだった気がしますね。
作者からの返信
その黄皓もまた扱いが難しいんですよねぇ。
主戦派筆頭の姜維に対する明確な政敵だから演義ではストレートな悪役佞臣ですし、正史の著者である陳寿が蜀臣だった時に黄皓は政敵側だった以上、正史での黄皓サイドの理屈が掘り切れてない部分がありますからねぇ。
場合によっては「双方の言い分を聞いた上で、劉禅はあえて強権を使わなかった」とも考えられるので、何とも言えんのです…w
あと追記ですが、自分の場合は五胡~南北朝の「暴君暗君スマッシュブラザース!」が基準になっちゃってるので、名君枠のハードルが下がってる節がありますw
劉禅を考えるへの応援コメント
こんにちは、あなたは1つのとても面白い観点を出して、劉禅は中国で多くの彼を風刺する成語、俗語があって、私は更に多く小説の演繹の原因のためだと感じます
歴史的な観点から見ると、劉禅にも取り柄がある。
まず、劉禅在位中、蜀漢が安定を保つことができたのは、彼の政治手腕と諫言の風のおかげだ。諸葛亮や他の大臣の提案を受け入れることができ、調和のとれた朝廷環境を形成した。諸葛亮が死去した後も、劉禅はこのような政治スタイルを維持し続け、賢臣、例えば蔣琬、費祎、董允、姜維を重用し、蜀漢は後諸葛亮時代にも魏への抵抗を維持することができた。
第二に、彼は権力の誘惑のために諸葛亮と権力を争うのではなく、安心して君主になることを選んだ。諸葛亮が亡くなった後、宦官の黄皓を寵信したが、それによって民心を失ったわけではなかった。これは権力に対する自制と賢臣に対する信頼を反映している。
総じて言えば、劉禅は独自の政治哲学と人格的特質を持つ君主である。彼はいくつかの面で後世の人に非難されているが、肯定的な面もある。
作者からの返信
ご感想ありがとうございますー。
「親の意思に子が背く」「親の築いた物を子が破壊する」って、儒教社会にあっては大罪ですし、特に演義における劉備は清廉な大英雄ですから、余計に印象が悪くなっちゃいますしねぇ。
結論としては「儒教社会」では許されないって事ですかね。
五代十国時代の馮道が、王朝や君主が変わろうとも気にせずに、民の生活安定を第一に働き続けた名宰相なのに「五朝八姓十一君を渡り歩くとか不忠者が過ぎる」と儒者(朱子学)からは悪人呼ばわりされてますし。
劉禅の低評価も、その辺に理由がある気がします。