第109話 女の子の名前は




 ……冗談だろ?


「そうだよ。私の名は熱海――熱海道真とうまだ。好きなように呼んでくれて構わないよ」


 男性は表情穏やかに言ってくれているが、俺としてはそれどころではない。頭がおかしくなりそうだ。


 熱海、熱海だぞ? 偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。


 熱海なんて苗字、俺は彼女しか知らなかったし、『鈴木』や『佐藤』みたいに数が多いわけではないはずだ。


 しかも俺の知る『熱海』は――七年前に、誰かの手によって、命を救われている。


「……すみません、失礼ですが、娘さんのお名前を聞いても……?」


 俺がそう聞くと、彼は――熱海の名と似たような名前を持つ道真さんは、笑顔で答えてくれた。


「北海道の『道』に、季節の『夏』で、道夏だよ。玄仙高校というところに通っていてね、今は高校二年生だ。優介くんも同じぐらいかい?」


「…………は、はは、マジかよ」


 すんません道真さん。本当にそれどころじゃない。俺の年齢なんて答えている余裕はない。


 どうやら俺は、これ以上なく、どうしようもなく、取り返しのつかない過ちを犯してしまっていたらしい。



 

 俺が七年前に助けた女の子。

 そして、同じく七年前に熱海の命を救ったという王子様。


 彼女がどういう経緯で命を救われたのか、そしてどこで助けられたのか――俺はそれを知ることができなかった。それは、彼女が隠し、黒川に口留めをしたからだ。


 いや、それは言い訳かもしれないな……俺が『そんなはずはない』と、思い込んでしまっていたからだ。


 熱海は、命を救った恩人のことが好きだと言う。


 それに対し俺は、助けた女の子に嫌われていると思っていた。だからどうしても、そこを結び付けようという発想が生まれなかった。


 道真さんが捕まえてくれたタクシーに乗って、俺も以前行ったことのある喫茶店に向かいながら、考えていた。道真さんは、俺が何かを考えていると察してくれたらしく、黙ってくれている。


 おそらくだけど、彼は俺が『女の子に嫌われていたと勘違いしていたこと』について考えていると思っているのだろう。事態は、それよりももっと深刻だ。そしてもっと、複雑だ。


 最悪だ。本当に本当に、最悪だ。


 何しろ俺は、四月の終わり――熱海にすべてを話してしまったのた。


 場所、経緯、時期、そして俺の昔の容姿、情報の全てを、彼女に開示してしまったのだ。


 彼女はきっと、そこで俺がどこの誰なのかを理解したのだろう。

 そして、彼女は泣いた。俺が助けた女の子――つまり自分のことを『クソ女』とののしりながら、泣いていた。


 自分を救助した人を好きになり、その恩人のトラウマを作った原因だと知ってしまって、滂沱ぼうだの涙を流した。


 あぁ、色々つながっていく、つながってしまう。不可解だった熱海の反応は、すべて俺が王子様だと仮定すれば、納得のいくものだ。


 彼女はいったいどんな気持ちで、俺のそばにいたのだろう。

 自分を殺し、親友を応援し、俺の幸せを願いながら、どんな感情を抱えていたのだろう。


 いったいどれだけ、彼女は傷ついてきたのだろう。そして俺はどれだけ、彼女を傷つけてきたのだろう。


 ……わからない。その正確な辛さは、きっと体験した熱海だけが知ることなのだろう。


 自分が傷つけられるよりも、自ら大切な人を傷つけてしまった痛みのほうが辛い。それを俺はいま痛感している。


 もしかしたら熱海も、似たようなことを思ったのかもしれないな。

 だって俺はいま、『なぜ気づけなかったんだクソ野郎』と思っているから。



 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 街にひとつはありそうな全国チェーンの喫茶店に到着し、車を降りる。代金は当たり前のように道真さんが払ってくれた。断られるだろうなと思いつつ財布を取り出してみたけど、案の定『出させてくれ』と断られてしまった。


 店内に入り、席についてから二人とも飲み物だけを注文した。彼はブレンドコーヒー、俺はカフェラテ。


 昼食を注文するのは、道真さんの奥さんが来てからにしようということになった。


「色々考えていたようだけど、大丈夫かい?」


 注文を取り終えた店員さんが去っていくのを見送ったところで、道真さんが心配そうに声を掛けてきた。道真さんの声は、しっとりとして、それでいて重たくて、どこか下から俺を支えてくれるような雰囲気があった。


「……あんまり大丈夫じゃないですね」


 思わず弱音を吐いてしまった。こんなこと、いきなり言われても迷惑がかかるだろうと思ったけど、止められなかった。


 しかし、言葉に詰まっている道真さんを見て申し訳ない気持ちになってしまい、結局すぐに弁明することに。


「……実はですね、今はたまたま帰省していますが、俺も熱海――道夏さんと同じ玄仙高校なんですよ。そして高校二年、同じクラス、席は前後、ついでに言うなら、マンションは隣です。今日も出発前、彼女に会ってきました」


 この辺りは、いずれバレる――というか、熱海の話していた言葉を思い返せば、道真さんたちは明日には熱海の元へ向かうということだったし、その時にバレることだ。


 しかし、いったい俺はこの人にどこまで話すことになってしまうのだろう。それを考えながら喋るのは、なかなかに骨の折れる作業である。


 というか、ちょっと落ち着いてきたけど――熱海、俺の前でよく『王子様が好き』って言えたな。いや、そう言えば、俺が説明した後は『好きだけど文句ある!?』みたいな態度だったし……あれは照れ隠しだったってことか。


 道真さんは俺の言った言葉を聞いて、目を白黒させたのち、呆れたように言う。


「……は、はは、それはすごいな。偶然もここまで重なれば――」


 運命みたいだ――とは言わなかった。言いそうになったけど、止めたみたいな感じ。


 たぶん、心を痛めているっぽい俺のために、遠慮したのだろう。

 俺が熱海に告白して振られたと知ったら、もっとびっくりしそうだな。


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