第65話 雨粒か涙か




 どうやらプールでもがいていた黒川さんは、足がつってしまったようだった。

 俺の背につかまらせて、その状態でプールサイドまで彼女を運んで行った。慌てなければ足がつく高さなのだけど、パニックになってしまったのだろう。水の中で不自由になるというのは、やっぱり誰でも怖いだろうから仕方ない。


 意識がなくなるなんて大きな事態にはなっていないし、黒川さん本人はいつも通りの調子で「ビックリした~」と感想を漏らしたぐらいだ。あと付け加えるのならば、数十回ほど感謝の言葉をいただいた。


 やはり過去のことがあり、俺が女子を助けることに関して恐怖はあった。


 彼女は絶対に俺を嫌がって泣いたりしない――そう頭は理解していたのだけど、やはり怖かった。だから、彼女が俺の背にしがみついたときに、真っ先に俺の口から出た言葉は「ごめん」という謝罪。


 落ち着きを取り戻した彼女はそれを聞いて、「それは私のセリフだよ! いや、そうじゃなくてありがとうだよ~」と言っていたから、特になんとも思っていなさそうだが。


 俺は男子からヒューヒューとはやし立てられ、女子からは褒められた。

 教師は俺と黒川さんに土下座の勢いで謝り、そして俺を称賛した。

 熱海には「対応が速すぎるわよ」とあきれたような口調で褒められ、そして感謝された。


 味わったことのない多数の人からの称賛に、現実ではないような、誇らしいような、それでいて気恥ずかしいような思いをすることになったのだった。



 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



「あ、有馬くん! 腕が痛くなったりしてないよね? もし手が痛かったら、私が食べさせてあげるからっ!」


「足はもう平気だよ! 有馬くんのおかげ! 本当にありがと~」


「有馬くんは休んでていいよ! 私が二倍掃除するから!」


 なんというか、プールの授業のあとからすごく黒川さんが張り切っている。

 やや恥ずかしいセリフを言ったりもしていたが、黒川さんは顔を赤くしつつも、言葉を引っ込めたりすることはなかった。それだけ彼女の中で、感謝の気持ちが強いということなのだろう。蓮が助けた時も、手紙を書いていたぐらいだし。


 一番に見つけたのが俺だから、一番に助けにいっただけだ。それに俺は『俺を助けてくれた父親の命に価値を持たせる』という自分本位なところもあるので、感謝の言葉がなくても問題はない。また泣かれたりしたら、へこむけども。


「やっぱり有馬、ライフセイバーの夢、あきらめないほうがいいんじゃない?」


 学校からの帰り道、熱海と二人になって歩き出したところで、彼女は俺を見上げながらそんな風に話しかけてきた。そして、そのまま話を続ける。


「今日、みんな有馬のことを褒めていたでしょう? あれが、本当の、本来の、助けてもらった人への反応なのよ。昔に会ったあのクソ女がバカでアホでマヌケだっただけで、あれが普通なの、平常なの」


 相変わらず熱海はあの女の子に対するあたりが強いなぁと思いながら、「まあそうなんだろうけど」と自信のない返事をする。


「いまさら陽菜乃に『階段から助けたことを言って!』とか言うつもりはもちろんないけど、少しは自信につながったんじゃない? 有馬が助けても、泣いたりしない。涙が出るとしたら、それは安心とか嬉し涙とか、そういう種類のものよ。陽菜乃、全然有馬のことを嫌がったりしていなかったでしょう?」


 それは助けた相手が優しい黒川さんだったからじゃないのか――なんて卑屈な反論をしようとしてしまったけど、きっとこれは俺の心が捻じ曲がっているだけで、たぶん熱海の言う通りなのだろうと思い、俺は「そうだな」と返事をした。


 俺の言葉を最後に、会話はとまった。といっても、三十秒ぐらいだけだが。

 ちょうど赤になってしまった信号で立ち止まると、彼女はくもり空を見上げて「はぁ」とため息を吐いた。


「私はあの人に命を救われた。陽菜乃は、階段から落ちているところを助けた上に、溺れているところを助けられた。……運命度で言ったら、有馬と陽菜乃のほうが強いってことよね」


 熱海論によると助けられるたびに運命度は増していくらしい。


「その理論で言うと、危ない目に遭えば遭うほど運命の相手を見つけやすくなりそうだな――あぁいや、そりゃ熱海とその人が逢えたらいいなとは思っているけどさ、俺と黒川さんにまで適用されるかどうかは、また別の話で……」


 なんとなく、熱海のテンションが下がっているようだったので、慰めるような言い方をした。まだ空を見上げている熱海を見てみると、彼女は頬にしずくを伝わせていた。


「……雨が降ってきた」


 彼女は目元をこすったあと、両の手のひらを上に向けて雨のしずくを受け止めようとする。彼女の言う通り、空を見上げると俺の額にもしずくがぽつりと落ちてきた。


「信号青になったら走るか」


「そうね。こけたら危ないし、手を繋いであげるわよ?」


「アホか」


 俺が言い返すと、彼女はクスクスと笑う。先ほど見た彼女の頬を伝ったあのしずくは、涙ではなくやはり雨粒だったのだろう。

 真実は、聞かなければわからないのだけど、『いま泣いてた?』なんてことを確認する度胸を俺は持ち合わせていない。


「まあ有馬が転んだら、あたしが滑り込んであんたの下敷きになってあげるわ」


 少しずつ勢いをつけてきた雨粒のなか、走りながら熱海が言った。男前すぎるだろ。


「そんなことされても嬉しくないわ! それでお前がけがしたらどうするんだよ!」


「あたしはあんたが幸せになればそれでいいって言ったでしょ!」


 相変わらずの自己犠牲精神だ。

 俺のことなんかより、俺としては、熱海に自分の幸せを優先してほしいんだけどな。


 もし俺が『お前が幸せになってくれたら俺も幸せだ』なんて言ったとしたら――いや、これじゃ告白みたいだから、言えないか。




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