第7話 母、襲来



 母さんはいつも通り赤茶の長い髪は後ろで縛って、白いキャップ、デニムのジーンズと白のシャツを身に着けていた。シャツには名前のしらない紫の花が大きく一輪だけ描かれている。

 そのシンプルな装いの母さんはというと、手に財布を持っていたが、その他の荷物は持っていなかった。いつも使ってるバッグはどうしたのだろうか?


「んー……」


 なぜ母さんがここにいるのか、そしてその身軽な装いは何事か――そんなことで頭を悩ませている息子の横で、母親はというと熱海の正面に立ち、ジッとその顔を観察していた。

 いったい何をしてんだよ。熱海、緊張して縮こまってるじゃん。


「あなた、お名前は? 優介とどういう関係の子?」


「あたしはただのクラスメイトで……彼、骨折してますし、帰る方向が一緒だったから、途中まで一緒に帰ろうと――あっ、名前は熱海道夏といいます」


 熱海が答えると、母さんは「途中まで一緒……?」と一度首を傾げてから、まじまじと熱海の顔を観察し始める。

 そして、


「ねぇ道夏ちゃん、もしかして千秋ちあきさんっていうお姉さんいないかしら?」


 そんな質問をした。


「は、はい! えっと、あの――」


「私のことは優美でいいわよ」


「わかりました――千秋はあたしの姉ですが、優美さんは姉を知っているんですか?」


 おやおやおや。なんかうちの母さん、熱海の姉と知り合いっぽいぞ。じっと顔を見つめていたのは、千秋さんとやらと熱海が似ていたからか。

 しかし、どういうつながりだろうか? 年は離れているはずだが。


「やっぱり、あなた千秋さんの妹なのね。私はあなたのお姉さんが働いている雑貨屋さんの、店長をしているのよ。よろしくね」


「て、店長さんですか!? あ、そ、その、姉をよろしくお願いします」


 勢いよく頭を下げる熱海に、母さんは楽しそうに笑いながら「もちろん」と答えていた。


「あー……それで知ってるのか」


「そうそう、千秋さんは仕事バリバリできるわよ。今年の春から入社したばかりだからまだ慣れないことも多いだろうけど、すごく意欲的だし、人当たりも凄くいいからね」


 なるほどねぇ。世間は狭いというが、こんな繋がりがあったとは。

 姉の上司と知ってしまったからか、熱海は余計に緊張した様子でカチコチになっている。別にお前がヘマしようが姉の仕事に影響はないだろうに。


「って、ゆっくりしてる場合じゃなかった! 優介、夕ご飯はいつも通り冷蔵庫に入れてるから。洗い物と洗濯物は無理にしなくていいからね」


「了解。そもそも母さんはなんでここにいるの?」


「本社に提出する書類持ってくるの忘れたの! じゃあ家に帰るまで気を付けて! 優介はきちんと女の子のボディーガードしなさいよ!」


「へいへい」


 この腕でボディーガードが務まるか甚だ疑問だが、口答えをするよりは頷いておくに限る。信号が青になって走っていく母親を見送ってから、俺はカチコチになっている熱海に目を向けた。


「うちの母親が変な勘違いして悪かったな」


 俺が声を掛けて横断歩道を歩き始めると、熱海はハッとした様子で目を見開き、パタパタと俺に小走りで追いつく。そしてこちらを見上げてから、話しかけてきた。


「あんたのお母さん、めちゃくちゃ若くない? うちのお母さんより十歳ぐらい若く見えるんだけど?」


「いちおう四十は過ぎてるんだけどな。というか、それ自分の親の前で言うんじゃないぞ」


 女性の前で年齢の話をするなら相応の覚悟を持って臨め――これは母親談である。


「馬鹿ね。それぐらいわかってるわよ。でも、めちゃくちゃ緊張しちゃった。あなたのお母さん、お姉ちゃんをクビにしたりしないよね? 大丈夫よね?」


「それはお姉さん次第じゃないか? 真面目に仕事してりゃ大丈夫だと思うけど」


 横断歩道を渡り、一度右に曲がる。

 そしてそこからもう一度左に曲がって、あとは俺の住むマンションまで一直線だ。


「そう、そうよね。お姉ちゃんが地元で就職してくれたから、あたしこっちに住めてるのよ。両親は仕事で東北に行っちゃったからさ」


「あー、それでクビとか気にしてたのか」


「そうそう」


 そんな風に、俺たちは学校でにらみ合っていたのが嘘のように、普通に会話していた。黒川さんの件が無ければ、案外仲良くなれていたのかもしれない――いや、そう判断するのは早すぎるか?


「あんたは兄妹いるの? なんか弟とかいそう」


「いんや、一人っ子だ。父親は亡くなってるから、母さんと二人暮らし」


 家族構成について聞かれる前に、先手を打って話しておくことにした。だいたい聞いてきたやつに『ごめん』って謝られることになるからな。


「そうなんだ、なんかごめん」


 謝られないようにするために俺が先に話したのだけど、熱海はそれでも謝罪の言葉を口にした。なんか俺が謝らせたみたいで申し訳ない気持ちになるな……。

 というか、いまはそんなことよりも、


「マンション着いちゃったんだけど」


 エントランスの前で熱海に言うと、彼女はギョっとした様子でマンションから少し距離をとり、上を見上げる。そして、打ち上げられた魚のようにパクパクと口を動かした。


「う、嘘でしょ? あたしのマンションもここなんだけど……」


 HAHAHAHA、面白い冗談だ。


「何階ですか……?」


「七階よ」


 神よ、俺はあなたを呪うことに決めました。末代があるのかは知らないけどとことん呪ってやる。こんな偶然おれは求めてねぇ。


「……お前の部屋って、もしかしなくても702号室?」


「…………そうだけど。なんで知ってるのよ」


 熱海も薄々わかっているのだろう。だからか、彼女はビクビクした様子で問いかけてきた。


「隣で引っ越し作業していたら、嫌でもわかるからな」




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