From dusk till dawn

S.

am1:24-5:20

「今から出てきて」


一年ぶりに千鶴から連絡が来たのは、大学五回生で卒論を出し終えたばかりの冬だった。


「今からって……どこに?」

「祇園。ミラノにいる」


それだけ言ってぶつりと切れた通話。午前一時過ぎにかけてくるにはあまりに非常識だったけれど、私はため息ひとつで腰を上げた。

どうせ眠れないのだ。夜は少しくらいおかしなほうがいい。

不遜な電話に苛立ちひとつ起きなかったのは、あの子の妙な魅力を忘れられなかったからかもしれない。


「ねぇ、ここのハンバーグってやっぱり美味しいよね」


タクシーを飛ばして十五分、急いで駆け込んだ深夜喫茶で、千鶴は優雅に洋食セットを楽しんでいた。

重たい姫カットにした長い黒髪、血が透けて見えるような真っ白い肌、クラシカルなリボンタイのシャツに、レースの付いたロングスカート。

どれもこれも最後に会った二年前のままで、急にあの頃に戻ったようだった。


「この店の良さは味と営業時間の長さだからね」


店の端っこのソファー席。もぐもぐと口を動かす彼女の向かいに座りながら、呆れたように言葉を返す。

この店を教えたのは私だというのに。まるで千鶴のほうが昔からの常連のような雰囲気を出している。


繫華街の大通りに面しているというのに、ここはいつ来ても人気がない。

味良し、営業時間長し、内装良し。ただし、経営者は悪し。この街に長く生きている大人は決して近寄ろうとしない、裏カジノの元締めの店。

そんな場所にこの子を連れてこようと思ったのは、あの日の彼女が「ここではないどこか」に行きたがっていたからだ。


「それで、一年ぶりに何? ていうか、地元に帰ったんじゃなかったの」

「ああ、うん、そのつもりやってんけど。やめた」


ちょうど去年の今頃、千鶴は大学を辞めた。四回生の冬、あとは卒論を出せば卒業という時期に。

休学して夜の街をふらふらしていた私は、「退学してきた」だけが記されたメールを見て、ああダブり仲間がいなくなっちゃった、とだけ思ったんだっけ。私が休学届を出す頃には、千鶴はもう大学に来ていなかったから、揃って留年するもんだとばかり思っていた。


「やめたって、なんで」

「まぁ、ねぇ」


紅茶と一緒に言葉を濁した彼女は、一年前よりも輪郭がぼやけている気がした。


出会いはなんてことない、大学のオリエンテーション。同じ専攻で、「か」から始まる名字の千鶴と、「く」から始まる名字の私。

ひとつの教室に集められた新入生たちの中、前後に座っていただけの関係。

強いて言うなら、お互いファッションになにか通じるものを感じたのかもしれない。茶髪をゆるく巻いた女子が多いなか、私と彼女だけが奇抜な髪型をしていたから。


「で、なおさん何頼むん」


ごちそうさまでした、と両手を合わせたかと思えば、お尻に敷いていたメニューを渡してくる。アホなん、なんで尻に敷いとるん。そんなツッコミは無駄だと分かっていたから、ほのかに温かいそれを黙って受け取った。


お願いします、と片手を上げてスタッフを呼び、アイスカフェオレだけを頼む。その様子を見ていた千鶴が、「出た、キャバ嬢しぐさ」と唇の端を吊り上げた。


私たちは別段仲が良かったわけではないと思う。ただ入学式の日にたまたま話しかけて、連絡先を交換し、お互い地元が離れていて知り合いがいないからと、しばらく一緒に行動していただけ。

入学から半年も経つ頃には、彼女は別の女友達とグループ付き合いをしていたし、私は私でサークル仲間とばかりつるんでいた。


週に一度、火曜日の六講目。日本文学の講義を受けるときだけが、私と千鶴がふたりきりになる時間だった。


「なおさん、卒論出した?」

「出したよ。提出締め切りの一分前に」

「うーわ、ぎりぎり。よー間に合ったなぁ」


私のカフェオレと千鶴の紅茶(いったい何杯目なのだろう)が運ばれてくる。そういえば、入店してから何分も経つのに、おしぼりも水ももらっていなかった。オーナーがオーナーなせいか、ここの接客バイトはやる気がない。味がよくなければ、死んだって来ないのに。


食後の一服、と、千鶴がバッグの中から煙草を取り出した。アークロイヤルとマッチ。いつも通りの彼女のアクセサリー。そうだ、今日はまだ一度もそれを見ていなかった。テーブルの上にも置かれていなかったから、きっと彼女は今の今まで吸っていなかったのかもしれない。


そう、ついでに、いつも手元にある彼の本もない。


急にぴたりとピントが定まる。トントン、と細い指先がソフトパッケージを叩き、飛び出した一本を挟む。流れるようにシュッと音と匂いを立てて付いた火を見ながら、私はぼんやりとあの日のことを思い出していた。


『史学科に入ってから本当にやりたかったのは文学だったって気付くなんて、アホやんな。でも文学だって、私は嗜むだけでいいのかもしれない』


三回生の秋、毎年受け続けた講義の帰り道。すっかり暗くなった道を歩きながら、千鶴がぽつりと本音を漏らした。


『去年のうちに転科しておけばよかったのに。今からやと間に合わんのでしょ?』

『先生に相談したけど、無理って言われた』

『まあでも、史学科にいてもこうやって日文の勉強はできるわけやし』

『そもそも、読むだけで満足やって気付いてん』


毎年同じ名前で、中身が違う講義を受け続けた末に、彼女は気付いてしまったようだった。自分が本当に興味を持っていたものが何だったのか。それを享受したいだけで、追究する気がなかったことにも。


「読んでるだけでよかったんよ」


ふいに、回想の中の彼女と、現実の声が重なった。


「読んでいるだけでよかった。彼の世界に浸っているだけでよかった。ページをめくるたびに此処じゃない何処かに行ける感覚が心地よくて、私はそれだけでよかった」


あの日と同じように淡々と、あの日よりも弱々しく吐き出したその姿を見て、あの夜の顛末を振り返る。

猫足のヒールが乱暴に地面を蹴る様を見ていられなくて、彼女が好きな“彼”の作品に出てくるような、あの時代のカフェーのような内装のこの店に連れてきたのだった。


「この一年、何してたん」

「なにも。彼の作品は読んでいたけど」

「知ってる。そうじゃなくて」

「それしかもう、なかったんよ」


ゆらゆらゆらゆら。甘いバニラの重たい香りが、私たちの間に漂った。





「うちらさ、別にめちゃくちゃ仲良かったわけちゃうやんか」


午前5時。閉店の声掛けとともに店を追い出された私たちは、まだ暗い鴨川沿いを歩いていた。結局あのあと、喫茶店で何を話していたのかは覚えていない。ろくに会話もなく、ただずっと吐き出される煙を眺めていただけだったような気もする。


「久々に会って酷いこと言う」

「でもなんか、居心地よかったんよ。一緒にいるの」


それは私だって。共通の好きなモノがあるわけじゃない。文学の趣味だって少し違う。価値観も思想もまるで嚙み合わなかった。けれど、あの大きな箱庭の中に溶け込めないこと、それだけが私と彼女の共通点だった。


「生まれる時代、間違えたかな」

「ちーちゃんはそうかもね」

「なおさんは?」

「性別を間違えたかなぁ」

「キャバ嬢のくせに?」

「キャバ嬢のくせに」


夜明け前、くすくすと笑う千鶴の顔はやっぱり青白いままで。「また今度ね」を何となく言えないまま、大橋のたもとで手を振って別れた。


それが、私が最後に見た彼女の姿。


数時間後、千鶴は凍死体となって発見された。鴨川の下流、私とさよならをした地点から、何キロもいかない場所で。

警察が言うには、睡眠薬を大量に飲んで入水し、そのまま死んだそうだ。


重要参考人として取り調べを受けながら、ああこういうことだったのか、と、昨夜の出来事に妙に納得がいった。あの箱庭で、足元一センチ浮く感覚を共有していたのは、きっと私だけだった。


あの子に必要だったのは、箱庭からの脱出ではなかったのだろう。此処ではない何処かへ行ってしまった彼女の死に顔は、満足そうに熱を帯びていた。


アークロイヤルとミルクティー、傍らに彼の本。その残像が、今も網膜に焼き付いて離れない。


<了>

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