第15話 忘れていた物

「迎えに来てくれてありがとうございます。あの・・かおるさんもお仕事でお疲れではなかったですか?」


 サングラスで表情が見えない馨の横顔を見つめながら沙耶は尋ねた。


「家からここまで30分かからないからな、大した事じゃない」

「そうですか、それなら良かったです」


 一緒に暮らし始めて3か月近く経ったが、まだ二人の会話はぎこちなかった。同じ屋根の下で生活しているとはいえ、二人とも仕事で忙しく顔を合わせる時間は多いとは言えなかった。


 信号待ちで沙耶の方を向いた馨が言った。「せっかくだから海浜公園の辺りをぐるっと回ってみるか」


 夜のお台場は都心の明かりやライトアップされたレインボーブリッジがひときわ綺麗に見える。角度によっては東京タワーも見えた。


「うわぁ~綺麗ですね! 仕事では何度も来てますけどこうやってドライブするのは初めてです」

「ああ、俺も夜にここを走るのは初めてだが、綺麗だな。展望台から見下ろすともっといいだろうな」


「『はちたま』とかいいかもしれませんね。はじめて仕事で富士山TVに来た時にはちたまに行ったんですけど、嬉しくてキョロキョロしてたら景子に『田舎者みたいに見えるからやめて』って怒られました」


 当時の事を思い出して沙耶はふふっと笑ってしまった。その横で馨の口元も口角が上がっていたが沙耶は気づいていなかった。


「お腹は空いてないか?」

「はい、撮影中は私は暇なので色々つまんでましたから」

「じゃあ真っすぐ帰ろう」




________




 五瀬家ではみんな食事の時間はバラバラだった。それでも夕食は義久と結花と沙耶の3人で取ることも増えて来ていた。そして今日は珍しく馨も一緒だった。


「そういえばお前たちは結婚指輪をしとらんのだな」義久が沙耶の左手を見ながら馨に言った。


(しまった! うっかりしていた。こんなに時間が経っているのに全然気づかなかったとは・・)


「注文したものがなかなか出来上がらないんですよ。忙しくて催促するのも忘れてました」


 そもそも女性と付き合ったことすらない馨は本当にそういった事柄に疎かった。それは沙耶も同じで二人して気づかなかったのだ。


 夕食後、馨は沙耶を自室に呼んだ。


「すまない、指輪の事をすっかり忘れていた。サイズを教えてくれ、用意しておく」

「サイズですか・・すみません、指輪をした事が無くてサイズが分かりません」


 馨は多少の驚きを浮かべて沙耶を見た。


 高校は男子校だったから分からないが、大学の頃に耳に入って来た女子の会話といえば、彼氏がどうだ、化粧や洋服がどうだ、このピアスはどこで買ったなどというものばかりだった。それなのに目の前の女性は25年間、一度も指輪をしたことがない・・と?


「そうか・・明日は休みだったな? 時間を作るから明日一緒に買いに行こう」

「明日ですね、分かりました。どこかで待ち合わせますか?」


「そうだな、会社に来てくれるか? お昼ついでに出掛けよう。何か食べたいものはあるか?」

「えーと、お蕎麦が食べたいです!」


(フレンチとか寿司、と言われるかと思ったが・・ほんとに素朴な人だ)


 馨はクスッと笑って言った。「よし、上手い蕎麦屋を探しておこう」



 馨の部屋にベッドをふたつ置いたとはいえ、まだ同じ部屋で寝た事はなかった。今日も沙耶は自分の部屋へ戻り、早めに布団にもぐりこんだ。


「馨さんはいつも私の意向を聞いてくれるのね。とても紳士的で優しい・・」


 沙耶は周囲から女性的な扱いを受けてこなかったし、高野家の人間も決して沙耶に優しくはなかった。

 沙耶の為といいながら、色んな意見を沙耶に押し付けてきただけだった。


「明日はおしゃれしていかないとね。髪も少し伸びてきたけど‥このまま伸ばしてみよう。私、馨さんに綺麗だって思われたい」




______




 翌日、お昼少し前に馨の会社に着いた沙耶は初めて来た時と同じように受付に自分の来訪を連絡してもらおうと向かった。だがいざ、受付嬢を前に何と名乗ろうかと言葉に詰まってしまった。


「あ・・あの石井が来たと五瀬社長に伝えて頂きたいのですが」

「はい、石井様でいらっしゃいますね。少々お待ちください」


 受付嬢はこのままロビーでお待ちください、と沙耶に告げた。広いロビーの隅のベンチに沙耶は腰かけて待とうとしたが、すぐエレベーターから馨が降りてきた。


「待たせたな、さあ行こう。美味しい店を見つけてある」


 二人はにこやかに談笑しながらビルを出て行った。


A「・・今のは社長よね?」

B「社長ね、間違いなく」


A「女性と出て行ったわね」

B「ええ、出て行ったわ」


A「あの・・あの・・女を寄せ付けない社長が、女性と・・デート?」

B「いえ、きっと仕事の関係者よ」


A「だって、そんな事今まであった? それにふたりきりだったじゃない」

B「きっと行った先で待ち人と合流するに違いないわ」


A「・・ちょっと賭ける? あの人が誰なのか」

B「私は仕事関係だと思うわ」


A「じゃあ私は・・いえ、やめましょう。あの社長が女性とデートなんて想像できないわ。負けが見えてる賭けなんてやだわ。でもそれにしても・・」


「二人はいい雰囲気だったって?」


 受付嬢二人はうんうん、と頷いた。そして驚いて声の主を見上げると言った。「「池田さん!」」


「あの石井さんって方はどなたなんですか?!」

「どなたなんでしょうね? 僕しぃ~らない」


 池田は笑いながら受付嬢の質問攻撃をひらりとかわして自分もお昼を食べに向かった。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る