第16話 織島綾一は虐められて然るべき存在です
「そーれっ‼︎ 」
織島綾一が更衣室に足を踏み入れた直後、彼はずぶ濡れになった。
一秒ほどの間をおいて、綾一は自分が水をかけられたのだと気づいた。
この程度のことにはすっかり慣れてしまっている、それがどれほど恐ろしいことなのか、綾一は考えもしていない。
綾一がぽたぽたと水滴を垂らしながらその場で立ち尽くしていると、
「邪魔だ邪魔だ、退け消えろ死ね。鹿山百人様のお通りだぞ」
「っ…………!! 」
どこか虚ろな目をしたクラスメイト達に囲まれた、一人の少年がいた。
彼の名は鹿山百人。
知力・オーバーヘブンの操縦・容姿・性格・人望、そのどれを取っても学園内では右に出るものはいない。天に二物どころかあらゆるものを与えられた天才――と、皆は彼を呼ぶ。
そんな彼は、ずぶ濡れになった綾一の胸ぐらを乱暴に掴み上げると、ぐいっと彼の身体を自らの方へと引き寄せる。
「織島クンさぁ、一体いつになったらこの学園から出ていってくれるのかな。みんな迷惑してるんだよね、君の無能っぷりにはさ」
「っ…………」
「何だその目は。人を睨みつけちゃあいけませんてママに教わらなかったのか――なぁっ!!!!!! 」
「ぶぐらぁっ!? 」
綾一の目つきが気に食わなかったのか、百人は突き飛ばすかの様に綾一の胸ぐらを放すと、彼の顔面を思いっきり殴りつけた。
殴り飛ばされた綾一はロッカーに身体を撃ちつけ、そのまま崩れ落ちる。
「でもまあ、まだ君には利用価値があるんだ。俺を輝かせるための
「…………」
綾一は何も言わない。
その目は虚ろになっているが、百人を含め誰もそれに気づいていない。
それどころか、無言を貫く綾一に怒りをあらわにした他の男子生徒達が、綾一に噛みつき始めた。
「おい織島ッ! オメーさっきから百人のヤツがわざわざ話しかけてやってるってのに、偉そうに黙り込んでんじゃねーよ! 」
「そうだよ。本当は学園の誰もが、君の様な鼻つまみ者なんか関わりたくもないし視界に入れたくもないって思ってるんだ。君がこうして学園に居られるのも百人君の寛大な心があってこそだって、一体いつになったら分かってくれるんだ? ほんと物分かりが悪くてイライラするよ」
かつては仲の良かった友人たちが、見たこともないような敵意剥き出しの表情を向けてきている。
前まではショックに感じていたが、今ではもう慣れてしまった。
百人は床に座り込んだままの綾一の頭をわしづかみにすると、彼の耳元に焼き付かせるかのように囁く。
「次はオーバーヘブンを使った実習だ。その意味……分からないわけじゃあないよな? 」
「…………ああ」
たった一言。
同意の相槌を打つだけの動作が、今の綾一にはひどく億劫に感じられた。
「じゃあ俺達は先に行くよ。遅れんじゃねーぞ」
百人はそう吐き捨てるとさっさと着替えを終えてしまい、クラスメイト達を連れて更衣室を去って行く。
後には、綾一ただ1人だけが残される。
百人が開けっぱなしにしていった更衣室の扉から、廊下を歩く女子生徒の姿が見える。
が、彼女は更衣室で座り込んでいる綾一を一瞥すらせずに素通りしてゆく。まるで、これが当たり前だと言わんばかりに。
「………………着替えなきゃ、だな」
綾一はうわ言のようにそう呟くと、落書きまみれのロッカーに手を伸ばす。
彼自身も、この状況を当たり前のものだと受け入れてしまっている。
完全に麻痺しているのだ。
綾一はぐしゃぐしゃにかき混ぜられたロッカーの中から、タイツの様な見た目をしたオーバーヘブン実技用のユニホームを引っ張り出して、身につけてゆく。
端的に言おう。
この世界において、織島綾一は主人公ではない。
本来の“無限軌道機界オーバーヘブン”は、織島綾一を主人公とした創作物。
しかし、ここでは違う。
この世界では鹿山百人こそが主人公であり、彼のなす事こそが絶対的な善。綾一がいくら何をしようとも、彼が彼であるという理由だけで、絶対的な悪となる。
理屈なんてない。ここはそういう世界なのだから。
“無限軌道機界オーバーヘブン”の世界は、ひとりの
◇ ◇ ◇
綾一に対する集団虐めの一部始終を目撃してしまった者がいた。
南氷牙と水城栄華である。
廊下ですれ違った綾一の異様さがどうしても気になって後を追ったところ、彼女達は地獄絵図を目にしてしまっていた。
「…………なんだ、あれ」
感じたのは、猛烈な嫌悪感。
吐き気を催すほどの嫌悪というモノを、氷牙は生まれてこの方初めて感じていた。
栄華も普段の鉄面皮が剥がれ、目を丸くしている。
「なんだあれって…………どう見ても虐めでしょ」
「それは分かってるんだよ、だけど…………! 」
あれを虐めと言わずとして何というのだろうか。あんなあからさまな虐めなんか、大多数の人はマンガやドラマの中ぐらいでしか見たことがないだろう。
しかし、だ。
一体全体どうして綾一が虐められるようなことになっているのだろうか?
「創作物の世界に転生した転生者の典型例、それが原作主人公アンチ」
「‼︎ 」
「誰だってひとつやふたつ、気に食わないキャラクターや作品ってのがあるでしょ。言動が好きじゃない、チヤホヤされてて妬ましい、そう思うのは自然なこと。だからといって、嫌いな作品やキャラのいる世界に転生してまで虐め同然のアンチ行為をするってのはクズのする事なのだけども」
「マジで言ってんのかよそれ……じゃあ、アイツは……‼︎ 」
その時、氷牙の口が栄華の手で塞がれた。
「‼︎ 」
「静かに」
(うっ……なんだこれっ、栄華の手めっちゃいい匂いする……)
不意に鼻をくすぐる栄華の匂いに、不本意ながらドキッとしてしまう氷牙。
なんなら栄華の手のひらの柔い感触も伝わってきてるし、それを感じ取っている氷牙自身の柔さも混ざってきやがってるしで、ほんの僅かながら、氷牙は我を忘れてしまいそうになる。
氷牙の口を塞いだまま、栄華は近くの柱の影に身を隠す。氷牙も栄華に合わせて身を潜める。
二人の姿が柱の影に隠れるのと入れ替わりに、鹿山百人が男子更衣室から顔を出す。
「んー? なんかギャンギャン騒いでる奴がいると思ったんだけどなー? 気のせいかな」
「気のせいだよきっと」
「それよりだ。早く行かねーと先生の鉄拳飛ぶぞ」
「それもそうだな。じゃ、行こうぜ」
百人がクラスメイト達と一緒に更衣室から出ていったのを確認すると、栄華と氷牙は柱の影から身を出す。
そこに、
「あれ、転校生の2人だよね。そっち男子更衣室だよ? 女子更衣室はあっちあっち」
「っ! 」
百人達が消えていったのとは反対側から、女子生徒が声をかけてきた。
「何かおかしいことでもあった? 」
「おかしいも何も……」
氷牙は口ごもりながら、扉が半開きとなっている男子更衣室の方をチラリと見る。
扉の隙間からは、死人の様な形相をした織島綾一がよろよろと着替え始めている様子が確認できる。
着替えが外から見えていることに、彼は気づいていない。否、おそらく気にかけるだけの気力がないのだろう。
氷牙の言いたいことを察した女子生徒は、綾一の方を一瞥するなり、露骨に嫌悪感を含んだ声色になった。
「ああ、アイツのこと? 」
「………………なあ、織島綾一っていつもあんな感じなのか? 」
震える声で、氷牙が尋ねる。
少女は。
冷たく言い放った。
「当然でしょ、だって織島綾一は虐められて然るべき存在なんだよ。これ学園の常識だよ」
「……………………………………………………………………………………お前は何を言ってるんだ? 」
わけが。
わからなかった。
言葉は通じているはずなのに話が通じていない。
というよりも、氷牙の頭が「真っ当な人間であるならばこれに納得してはいけない」と判断している。
目を丸くして固まっている氷牙の前で、女子生徒は流れるように綾一への罵倒を吐き出してゆく。
「だってさぁ、グズでノロマで鈍感で馬鹿でアホな織島だよ? 大した力もないくせに一丁前に“俺が守るんだ!”とかほざいたあげく、いっつも百人くんに尻拭いをさせてるの。おまけに、愛想を尽かした幼馴染みやお友達に怒鳴り散らすし、彼女達を庇った百人くんに殴りかかろうとしたんだよ。許せないよね? 役立たずの暴力野郎なんか生きてちゃいけないよね? あんな奴は死んで無間地獄にでも堕ちてくれなきゃ駄目だよね? ほんとあんな奴、なんでこの学校にいるんだか。顔を見るだけで吐き気するしぶん殴って血塗れにしてやりたくなるんだけど、それも全部アイツが悪いんだもん。ね、キミもそう思うよね? 」
「………………………………」
氷牙は震えていた。
目の前の少女が得体の知れない化け物にしか見えなかった。
世間話をするかの様な軽さで、特定個人への罵倒がダダ流しにされている。おぞましすぎる狂気に、氷牙は思わず耳を塞いでしまった。
少女は氷牙が耳を塞いでいることに気づかず、延々と聞くに耐えない織島綾一に対する罵詈雑言を吐き続ける。
そうすること10分。
「あ、私授業あるから行くね。早く行かないと遅刻しちゃうよー? 」
腕時計を見て我に帰ったのか、少女は駆け足気味に去っていってしまった。先程までの言動が嘘だったかの様だ。
少女から解放された氷牙と栄華は、緊張が解けて倒れそうになるがなんとか踏みとどまる。多分だけど、酔っ払いオヤジに絡まれる人の気分がわかった様な気がする。
「……………………なんだったんだ、今の」
「あの子――リネット・ナイムは既に堕ちている。まさかここまで……」
栄華はそう言いながら考え込む。
というか、だ。
「お前、あの子を知ってるのか」
「彼女はこの世界で消息不明となっていたAMOREエージェントの一人よ。私とは同期だったのだけど、向こうは全然私に気づいてなかったみたいね」
まさかの人物だった。
ただの女子生徒かと思っていたが、まさか捜索対象のAMOREエージェントだったとは。
しかし、その事実を知った氷牙は更に恐怖した。
「はぁっ⁉︎ じゃあなんだ、AMOREのエージェントが虐めを容認してるってのかよ⁉︎ 」
「容認している、というより容認させられているのかもしれないわ。めぐるから聞いたリテュール・イリナの態度にリネットの今の言動、そしてこの学園に不自然なまでに蔓延っている、織島綾一への敵意。恐らく鹿山百人は――」
栄華がそこまで言いかけた時、氷牙の頭に最悪の想像がよぎった。
次の授業はオーバーヘブンでの実習だ。
更衣室での暴行。リネットの言動。学園中に蔓延る敵意。たったこれだけの判断材料でも、実習で織島綾一がどんな目に遭わされるのかなんて、いやでも想像できてしまう。
その想像は、氷牙を走らせるには充分過ぎた。
「ちょっと氷牙っ!? 」
悠希の制止をも振り切り、氷牙は走り出す。
あんな胸糞悪いモノをのさばらせてはいけない。あれは今すぐにでもやめさせなければならない。
「ふざけんなよっ……なんで、なんで
――クソ野郎ばっかりなんだ?
胸の中で際限なく膨らみ続ける嫌悪感に、氷牙はどうにかなりそうで仕方なかった。
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