真夜中のカフェオレ

Hiroe.

第1話

 その夜、カフェオレはゆっくりと冷めていくばかりでした。部屋の主は、夕方帰ってくるなりマグカップに一杯のカフェオレをつくり、そのくせ一口飲むとシャワーを浴びにいき、そのままベッドに潜りこんでしまったのですから。

 真夜中になってすっかり冷たくなってしまったカフェオレは、デスクの上で大きなため息をつきました。明日の朝一番に、部屋の主は自分を捨てるでしょう。もしかしたらもう一口だけ飲んでくれるかしれません。けれどやはり彼は一晩経ってしまったカフェオレに眉をひそめて、マグカップを逆さまにするのでしょう。自分の内にあるコーヒーもミルクも砂糖も、明日の彼には必要のないものとなるのです。


 部屋の主は、陽気で軽快で活発で、そのうえ思慮深い人でした。溢れる若さを少し通り過ぎて、威厳というものを身につける最中にある立派な人です。けれど時々独りぼっちの部屋で声をたてずに泣くことがあるのだと、電源の切られていないパソコンが教えてくれました。

「仕方がないさ。外で何が起こっているのかなんて、僕たちには知りようもないんだから」

パソコンはカフェオレのように明日捨てられるということはないでしょうが、その中身は日々変わります。大切なことだけを残しておけたらいいのに、色んなことを覚えては忘れていくうちに、何が大切なのか分からなくなってしまったらしいのです。

「少しは僕の電源を切って、ゆっくりと君を飲みながら、穏やかに一日を過ごせばいいのにね」

「どうにも僕は苦すぎるみたいだ。ほんの少ししか砂糖は入っていないからね」

「そういうのが好きっていう人もいるけれど」

パソコンは少し考えて、それから静かに言いました。

「君はちょっと、タイミングが悪かっただけだよ。時には君みたいなカフェオレも必要さ」

「ありがとう」

カフェオレは少し笑いました。ベッドからは、どこか息苦しそうに規則的な呼吸が聞こえてきます。


 時計の音が正確に時間を刻んでいきました。窓の外からは、ときおりバイクの騒音や犬の遠吠えや酔っ払いの歌声なんかが届いてきます。ふと、カフェオレは子守唄を歌いたくなりました。なぜだかそれを知っているような気がしたのです。けれどカフェオレには出来ませんでした。昨日のカフェオレはちゃんと部屋いっぱいにコーヒーとミルクの香りを広げたはずなのに、子守唄だって歌えたはずなのに、今日のカフェオレにはそれが出来ないのです。夕方カフェオレをかき混ぜた主のため息が、そこに閉じ込められているのでした。ベッドで眠るやさしい人に必要なものを、自分は持っていないのです。ならばせめて幸せな夢を見てくれればいいと、カフェオレは思いました。自分には、かつて彼の母親がつくってくれたカフェオレのような、やさしい温もりはありません。


 確かにパソコンのいう通り、外の世界で何が起こっているかなど、カフェオレには想像もつかないことでした。たくさんの仕事と友だちは、主の自慢ではないのでしょうか。そして自分は、そんな彼にひとときの休息を与えるものではないのでしょうか。そうつぶやくとマグカップが笑うので、揺られたカフェオレは慌てて波をおさえました。

「その通りだよ、今日のカフェオレ」

マグカップが言いました。

「君はちゃんと、その役目を果たしたさ」毎日淹れられるカフェオレは、毎日違う味をしています。甘かったり苦かったり、ときにはほとんどミルクのようであったり。それはまるで、外の世界のようでした。

「主が目を覚ましたら、おそらく君とはさよならだ。それだって、もう何度もくり返してきたことなんだよ」

カフェオレは寂しくなりましたが、最後にぽつりと言いました。

「明日の僕は、きっともう少しやさしい味がするだろうね」


 カーテンの隙間から陽の光が部屋に差し込むと、部屋の主は夢から覚めました。顔を洗ってデスクを見ると、昨日のカフェオレがそこにあります。少し考えてから一口だけ飲んで、彼は眉をひそめました。その顔をみて満足したカフェオレは、パソコンとマグカップに別れを告げて、静かに排水溝へと流れていきました。今朝の彼は、すぐに今朝のカフェオレを淹れてくれるはずです。


 甘かったり苦かったり、ときにはほとんどミルクのようであったり。どうしようもない寂しさや悲しさや、怒りややるせなさだってあるのでしょう。でもそれはマグカップ一杯分の、ほんの小さな出来事なのです。

 真夜中のカフェオレは、ゆっくりとその温度を失いながら、記憶を思い出へと染めていくのでした。

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真夜中のカフェオレ Hiroe. @utautubasa

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