守るべきもの

畔 黒白

守るべきもの

 走る。ぼろきれのように黒ずみ荒みきった上履きが床と擦れてきゅっきゅと音を立てる。今の僕には滲む涙を拭う暇などない。


 なんでこんな目に合わなきゃならないんだ。


 長い廊下を抜け、ようやく辿り着いた角を曲がる。濡れたタイルを踏み走り、寂れた小便器達を横切って一番奥の個室へと逃げ込む。

 鍵を閉め扉にもたれ掛かると強ばっていた体はだらりと力が抜け、そのまま僕はずるずるとしゃがみ込んだ。

 間もなくしていくつもの足音が近づいてきた。

「おい、出てこいよ」

 どん、という音と共に扉越しに背中へ振動が走る。蹴られた振動による震えなのか、はたまた怖気からくる震えなのかは分からないが、落ち着かない身体を抑え込むように自分の肩を抱き締める。

 気がつくと僕の頭から水が滴り落ちていた。それは直ぐにベールのように顔面を包み込み、涙を洗い流す。どうやらホースで水をかけられているらしい。上手く呼吸が出来なかった僕は思わず溺れたように声をあげてしまった。

 悪意が漏れ出したような嘲笑がいくつも重なり合って男子トイレに響く。

「なあ出てこいよ〜。そうだ、俺そこに爆弾仕掛けてたんだ。ほらほら早く出てこないと爆破しちゃうよ〜?」

 早くどこかに行ってくれ。

 僕は息を押し殺してただ耐えるしかなかった。


 ああ、早く家に帰りたい。

 母さんと小春に、会いたい。


「つまんねえな〜。もうコイツの家燃やしちゃおうぜ」

するとまたどん、という音と共に背中へ振動が走り、濡れた髪の先々からぽつぽつと順番に滴り落ちていた水滴達は一斉に床へと落ちた。

「お前も今寒いだろ? 燃やしたら暖かくなるんじゃねえの?」

 そう言うと大きな舌打ちと共に足音は遠のいていく。

 震えたため息を吐き出す。しばらくして僕はゆっくりと扉を開いた。



 本日未明、○○県○○市で「家が燃えている」と近隣の男性から119番がありました。警察によると、住宅は全焼し、室内にいた女性とその娘とみられる女児が搬送先の病院で死亡しました。また息子とみられる少年も搬送され、意識不明の重体。警察は身元の確認を進めると共に出火原因を調べています。



━━━━━━━━━━━━━━━





「本当にありがとうございました」

 成瀬京子は手を合わせると頭を下げた。

「いえいえ、仕事ですので」

 作業員の男は業務的に淡々と答えると帽子を深く被り直し荷物の整理を始める。

 娘の芽衣が、「ママ〜、すいどうなおった?」と京子の服の裾を引っ張る。

「うん。このお兄さんが直してくれたよ」

「よかった〜!」

 顔をほころばせる芽依を見て京子は腕をまくり「これでパパの好きなハンバーグ一緒に作れるね! 待っててよ〜パパ!」と、夫の稔の方へ振り返った。


「パパ?」

「ん? ……ああ……」

 稔は眉根を寄せていた顔を解き相槌を打つと、またすぐに神妙な面持ちに戻った。

 荷物をまとめ終わった男は再び京子達に向き直る。

「水道の方はもう使用して頂いて構いませんが、補修材が固まりきってませんのでむやみに水道管を触らないようご注意お願いします。一パーセントほどの確率でまだ修復が必要な可能性がありますので、その時は私がまた駆けつけます」

「分かりました。ご丁寧にありがとうございます」

「それでは失礼します」

 男は一礼すると成瀬家を後にした。



「おい待てよ!」

 ミニバンのトランクに荷物を積み込んでいた男は突然の言葉に振り返る。

 そこには殺気立った顔で男を睨む稔が立っていた。

「何でしょう」

「しらばっくれるな! どうして家に来た。お前のせいで……お前のせいで……」

「なんだ、気づいていたのか」

 そう言うと男は爽やかな笑顔で帽子を取った。

「久しぶり、稔」


 いきり立つ稔を男は宥めると、二人は近くの公園のベンチに腰を下ろした。

「すまなかったよ」

 男の言葉に稔は再び頭に青筋を立てる。

「すまなかった? 俺以外全員死んだんだ! 母さんも妹も!」

「殺すつもりはなかったんだ。本当に、すまなかった……」

 男は心苦しそうな表情を更に曇らせ俯く。

「見ろよこれ。今も残ってるんだぜ」

 稔はそう言うとシャツを捲り上げ、上半身を男に見せつけた。

 男は顔を上げ、稔の脇腹から胸にかけて蔦のようにびっしりと走った火傷跡を見ると、また俯きぽつりぽつりと話し始めた。

「少年院を出た後、僕は君に会うべきかずっと迷っていた。けれど二十五になった時、家族が立て続けに死んで、君に会うと決めたんだ」

 男は俯いたまま少しはにかんだ。

「といっても僕の家族は母親と犬一匹だけだったんだけどね。兄妹同然だった犬が寿命で死んだ後、間もなくして母親も癌で死んだ」

「それはご愁傷さま」

 稔は少し馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「とはいっても君に会う手段が無かった。何処で何をしているのか全く分からなかった。そうして守るべきものも失った僕は、いつか君に会える日を待ちただ生きていた」

「そして今日、君の名前で修理の電話が来たんだ。何としてでも行くしかなかった。本当は僕の担当じゃなかったんだけれど、無理を言って代わってもらった」

「でもいざ会うと、話すどころか顔すら向けられなかった。本当に僕は情けない男だ……」

 男は作業着のスボンの上から太ももを握りしめる。

「もういいよ。けど俺はお前を許しはしない。だから二度と俺の前に姿を見せないでくれ。さっきも見たろ、俺には守るべきものがあるんだ」

 そう言うと稔は冷めたようにさっと立ち上がり、家族の待つ家へと歩き出した。

「最後に一つだけ聞いてもいいかな?」

 稔の背中に男はこう問い掛けた。



?」


 

 静かに燃える夕陽が二人を照らす。

「今更何だよ」

 稔は男に背中を向けたまま答えると、十歩ほど歩いたところでようやく振り向き口を開いた。


「……なんとなく……だよ。子供のした事だろ。どうだっていいよそんな事」


「子供のした事……か。じゃあ、僕が君の家に火を付けたことも子供のした事?」

 男は少しずつ早口へと変わっていく。


「それは……いじめなんかとは話が違うだろ。人を殺してるんだぞ」

 稔は拳を握りしめ男をきっと睨みつける。


「君だってあの日、僕の家を燃やすって言ってたじゃないか」


「あ……あんなの冗談に決まってるじゃねえか。本当に燃やす訳ないだろ」

 稔は少しどきまぎしながらも答えた。


「僕が君の家に火を付けたあの時、どれだけ僕が追い込まれていたか、どれだけ家族を巻き込みたくなかったか、あの後君は気づいてくれたんじゃないかなって少し思ってた。もしかしたら今日、ごめんって一言でも言ってくれるんじゃないかって、一パーセントぐらいの可能性を信じてた」

 そう言うと男は作業服のポケットに手を入れ何かを探り始めた。

 次の瞬間、茜色に染まった静かな街を切り裂くような轟音が二人の間を通り抜けた。電線にとまっていた鳥たちは一斉に飛び立ち夕影沈む空へと消えていく。

 呆気にとられる稔を尻目に男は手をぽんと打ち鳴らす。

「あっそうだ、修理するついでに水道管に爆弾仕掛けてたんだった」

 にやりと笑う男の手にはスイッチのようなものが握られていた。

「煙草を出そうと思ってたんだけど、間違えて押しちゃったよ」

 稔の黒目の焦点は一向に合う気配がない。

「は? ……冗談だろ? なあ、おい……」

 稔の言葉に男は首を傾げる。

「冗談な訳ないじゃん。僕が何をしたか覚えてるでしょ? それにさっきも言ったように今の僕にはもう守るべきものなんてないんだ」

 男は両手を広げ微笑んだ。

「きっと奥さんと娘さんは今頃君のためにキッチンの前でハンバーグをこねてたんじゃないかなー。即死だろうね。あの頃の僕が受けたような苦しみはなかったんじゃない?」

 男はじりじりと稔に近づき畳み掛けていく。

「これは君のせいなんだよ。一言謝ってくれれば、解除してあげたのに」

 稔は膝から崩れ落ちた。

「なんで……なんでこんな事するんだよ……」

 男はうなだれる稔の前にしゃがみ込むと、満面の笑みで口を開いた。

「なんとなく」

 そして反対側のポケットからもうひとつのスイッチを取り出すと、稔に覆い被さるようにして抱きついた。


「母さん、小春。今逢いに行くからね」

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守るべきもの 畔 黒白 @Abekenn

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