淡白のアリシア
宮野涼
6月15日 晴れ
教室の窓際、一番後ろの席、主人公席なんて呼ばれる場所で本を読みながら、今日も僕は一日を始める。朝一の教室は静かで、朝練の終わった運動部が来るまでは平穏である。そうして、嵐がやってくる。
彼女が教室に着き、おはようと大きく挨拶をすれば、誰もが手を振り挨拶を返す。そう、誰もが、当たり前のように。それがこの教室での彼女の地位を表している。
一連の流れの後、僕の隣の席に座り、誰にでも振舞う笑顔でこちらに顔を向ける。
「おはよう、代乃くん!」
あぁ、またこれだ。
彼女の顔に、荒々しい線で書かれた面倒の二文字が浮かび上がる。次いで、ダルい、ウザい、笑顔、ヒエラルキー、学校、無関心、偽善、均衡、平和、無害。
次第に顔は本音という名の黒に塗れた。
何度見ても慣れない光景への動揺を悟られぬよう、平然と、ただのクラスメイトへの挨拶を返す。
「おはよう、青葉さん」
「ねぇ、今日は何読んでるの?」
「最近出た俺の好きな作家の新作、興味あるなら貸そうか?」
「へ〜! でも私字読むの苦手だからいいや!」
本、そして興味が現れ、きっと本自体は好きなんだろうことが分かったけれど、だからといって僕から借りたいことにはならないみたいだ。
「そっか、じゃあまた今度」
当たり障りのない会話、けれど、彼女が嘘に塗れていることを、きっとクラスメイトは知らない。
担任が扉を開ければ、煩かった教室は静まり返り、そうして朝のホームルームが始まった。
僕は友達もいるし、成績も悪くない、いじめられているわけでもなく、ごく普通の中学生の自覚がある、この現象を除けば。
いつからか、人の顔に文字が浮かび上がるようになった。友達との他愛ない会話の最中、ある友達には楽観、ある友達には疲弊、ある友達には睡眠と、まるでラベルが貼られるように、顔に文字が書かれていた。顔のパーツはもちろんある、だから、今日はそういう悪ふざけの日なのだと思った。
グループの中心人物、それに同調する人物、小突いたり笑ったりする人物、それぞれに学校での役割があり、僕は中心人物以外はなんでもこなしていたから、今は小突いてやろうと思ったんだ。
雰囲気に乗れるよう、陽気な声を作り、なんで顔に文字書いてんだよ、正月はまだ早いだろって。
ほとんど正解だと思われた言葉は、まるで赤ペンでチェックを入れられるように、中心人物の疑問符付きの何言ってんのに一蹴された。普段なら半笑いだろう中心人物の顔はいたって真面目で、それが事の異常さを教えてくれた。
学校に着くと、クラスの全員が顔に何かを書いていた。彼らはまるでそれが日常の様に、それぞれと挨拶を交わしている。担任すらも、疲弊の二文字を書いて教室に入ってきた。
これが夢でないのなら、きっと僕は病気なんだと思った。
誰に言えるわけでもなく、今日も、日常になった非日常を過ごす。
この病気を嫌に思ったことは一度もなく、むしろ円滑な学校生活の必需品とさえ思う。だから、これは僕の能力なんだと思うことにした。中二病臭いことは確かだが、現に僕は中学二年生なのだから、何もおかしな話じゃない、年相応だ。
病気、もとい能力が現れてから気付いたことがある。人それぞれ、顔に出る文字の量が、書き方が、表現の仕方が、違うこと。
だからなんだという話だが、その表現の仕方が問題で、ついさっき、五限目の終わり頃、クラスメイトの女子の顔に歪んだ線で厭世の二文字が浮かんでいたのだ。その二文字は人生で初めて知った言葉で、いよいよもってこの能力が本当に能力だったのではと思ってしまう始末である。
もしスマホのパスワードなんかを聞けば顔に数字でも書いてくれるのだろうか、なんて試しもしないようなことを考える。
日常が終わる鐘が鳴り響き、今日も青葉さんからのバイバイに答え、教室を後にする。端に映った厭世の彼女は、未だ厭世の彼女を続けていた。
特に用もない学校にいる意味もなく、早々と帰路についた。道半ばスマホを取り出し、厭世と打ち込んだ。今日は厭世の二文字がずっと頭を離れず、鏡を見ればもしかしたら僕の顔には厭世と出ているかもしれないと思う程だ。
厭世、えんせいって読むのか。
「……………………あぁ、そういうことだったのか」
上靴や髪がいつも汚れているのはズボラな訳じゃない、教科書が古臭いのはお下がりだからじゃない、衣替えがあっても冬服なのは寒がりだからじゃない。
思考を一巡し、変に強張った身体を落ち着かせる。
僕は何もやっていないのだから緊張する必要はないと分かっているはずなのに、やけに手が慌ただしい。
少し、驚いただけだ。
僕は、なるべくクラスでは浮かないように、それなりに会話をしたり、休み時間に遊んだり、一人称は俺にしたり、配慮しているつもりだ。学校では役割があり、僕はなるべく控えめに、中心人物を目立たせる役割だ。
その中に、いじめられる役割も、あったのか。
同情、悲観、僕の顔には何が映っているだろうか。
きっとそれは、安堵の二文字だ。
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