Ωの境界篇

第1話 降霊会

 しょう――


 と、鈴が鳴る。


 ある深更しんこうの頃である。ひとりの神職が、神楽鈴を打ち鳴らしながら、軒の一段たかい本殿にむけて、祝詞を奉じていた。拝殿には、神域と俗世を隔てるように、一脚の長机がおかれ、そこに餅や柿、背振せふり氷魚ひうお、鯛の楚割すわやり橙黄橘紅とうこうきっこうを盛った、窪杯くぼつき高杯たかつきが供物として、ところせましときょうしてあり、その又うしろに、神職のほかにひとり、青白い顔をした黒詰めの制服姿をした少年が、首をたれて、布を張った折りたたみの椅子にすわっている。


 かれらの頭上には、じりじりとエナメルを灼くような白熱灯が、数本だけ、心細げに灯り、それも喘鳴ぜいめいをあげるように、ときおり明滅を繰り返す有り様だった。


 この神事における、依頼人であろう男子学生は、睫毛のながい目蓋を、じっと閉ざして、一昨日から、止むともなしに降り続ける霖雨の、その微かな雨脚を、祈るように聴いていた。


 しょう――


 と、ふたたび神職が、段段につけられた鈴玉をゆらす。蕭然とした鈴の音色は、夜闇の上であつく垂れこめる雨雲を震わせて、しだいに穏やかな霖雨りんうを篠突くような驟雨しゅううにかえていく。


 まるで銀砂のような雨のとばりで、今夜の儀式を、衆人から遠ざけるかのように。


 しかしながら、それは一方で、夜陰にまぎれて、息を潜めている穏やかならざる気配を、濃密に暴き立てる効験もあるのだろう。雑然とした世俗への意識が雨によって、眼底を払うように消え去っていくと、その仄暗い隙間を埋めるかのように、怪異の跫音が、ひたり、ひたりと、冷え冷えとした拝殿の土間に、その濡れた足跡をつけるように、近づいてくるようだった。


 事実、本殿にふかぶかと頭をさげた、この若き神職の本意も、そこにあった。


 奇しくも、境内の端にある、錆びた鉄柱の上に円くおかれた、古めかしい時計の長短が、砂を噛むような錆びついた音とともに、午前1時をさした。草木も眠る丑三つ時。人の塵埃が、夜のしじまに溶け出して、ありうるべからざるものたちの息づかいが、ひたひた、ぴちゃぴちゃと、呼び覚まされる刻限になる。


 すると、ぴぴぴぴぴ、と、間の抜けた電子音がなった。


 若き神職は、刻限をしらせる、手首のApple Watchをとめると、木沓をならして、少年に振り返った。お互いの双眸がまじわると、ふっと、依頼主の少年の脳裡に、この神職がいぜん呟いた言葉が、フラッシュバックした。


 (――いいかい? ボクの見立てを言うまでもなく、君は大変なものに憑かれている。だけれども、君はどうやら、すこしばかり、思い違いをしているんだと、ボクは推察するね)


 このひとも、多くの除霊師と同じことを繰り返した。何度となく聴いた、異口同音の戯れ言。だが、不思議とこの人に賭けてみたいと思わせる印象が、石鹸の匂いにも似た、一種清新な雰囲気として、絶えずその身から放散させているように思えたのだ。


(――こういうのは、ボクの知り合いである人に頼むべきかもしれないけれど、ちょっと連絡のつきにくい人であるから、それは追々するとして、君がすべきことはひとつなんだ)


「覚悟はいいかい?」


 はっと我に返ると、裾丈をきりつめた、平安時代の官僚のような黒い斎服をきた、若き除霊師――本人曰わく【R.E.D】という探偵結社の支社の末端員らしいが――その捜査員が、最後の確認をとる。


 おれは首を縦にふった。


「よし」

 

 不思議とその声は、屋根を間断なく打ち鳴らす雄々しい雨脚のなかでも、凜然と透った。

 

 「では、降霊会を始めよう」

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