第2話 逆神 2/3《管理票RED0021:H81900XX-ST》

 幼い頃、運命を変える女性が空から降りてくる映画を観たことがある。あまりにも荒唐無稽だと思いながら、それでいて同じように出逢えるのではないかと期待もした。そしてぼくは確かに運命の人と会った。


 彼女は空からゆっくりと降下してくるようなことはなかったが、ぼくの家の縁側で、世界のすべてが白黒になってしまったような瞳で、庭の青紫に咲いた杜若をながめていた。


 彼女は父さんの患者だった。


 近くの神社で神主をしながら、市内のクリニックで精神科医を勤めている父さんは、彼女が帰宅後、それとなく尋ねたぼくに、心の病だと教えてくれた。


 彼女は父さんの友人のこどもで、どうやら近くに移り住んだという。たしかに二軒どなりに大きな家が出来た。三階建ての豪邸で、一階は大きな庭にお城のような階段がのびて、二階の玄関につながっていた。はたしてどんな大金持ちが移り住んでくるのだろうと思っていたが、それが彼女だったのだ。


 父さんは『友人』といったけれど、そこに親しみの情は感じられなかった。


 母さんは「おしつけられた」とぼやいていた。


 それから彼女は週に一度、日曜日に我が家に通うことになった。診察室は和室や父さんの書斎もあったが、大概は濡れ縁に腰掛けていた。ぼくは誰よりも彼女の来訪を楽しみにしていた。それとなく診察中の彼女の前に通りかかって何食わぬ顔で近くに寝転ぶと漫画を読んでみたり、普段しやしないのに庭の杜若に水をやってみたりした。


 ねえさんはそんなぼくを灰色の眼で、ときおりちらりと見るぐらいで、まったく興味を抱いていなかったが、こちらもしきりに彼女の視界に映ろうとするものだから、ねえさんはぼくの奇行の意図をはかりかねて、ついには彼女のほうから話し掛けてくれた。


 その日は父さんが急用で家から一旦離れ、少しばかり暇ができた。機会のように正確な時間にやってきた彼女に、母は虎やの最中と香ばしい煎茶をだして、少しばかり待つ間、夕涼みをさせていた。彼女はいつも学校指定の制服をきていた。白い半袖差シャツに紺のセーラー。そして僕もいつもどおり、彼女の視界に入ることに精を出していた。


「食べたいの?」


 ねえさんの第一声は死にゆく水鳥の末期の声のようにか細かった。


 ぼくは首を縦に振るわけにもいかず、それでいて横にふって会話を断ち切るわけにもいかず、感情をよまれたくなくて、迷った挙げ句に顔をぐるぐると廻した。奇行はここ極まれり。まったく奇怪といったらない。


 だけど、それがよかったと思っている。


 ねえさんが、くすり、と笑ってくれたのだ。


「なにそれ、どっち」


 その日から、ぼくが彼女のカウンセラーになった。



 彼女が義父のことについて、ぽつりぽつりと漏らし始めたのは、それから一ヶ月あまり経ったあとのことだった。


「しょうくんはお父さんと仲が良い?」


 ぼくは最初、この言葉の意図をまったく衒いなく受け取った。彼女の想像どおりの返答をしたぼくに、彼女は弟に接するように頭に手をおいて、やさしく撫でた。


「いいね」


「ねえさんは?」

 

「よくないよ」


 ねえさんは明日の天気を尋ねるような、なにげない口ぶりで答えた。彼女は冗談を口にする人ではなかったから、ぼくはひどく面食らって、なにかしてはいけないことをしてしまったかのような後悔が、じくじくと服の裾から這い上がってくるようだった。


「嫌いなの?」


 ぼくの問いに、彼女は「うん」と答えた。


「嫌いだよ。心の底から」


 ぼくはその理由を尋ねてよいものか、判断がつかなかった。


 だけれど、その理由というべきものを、ぼくはまったく意図しない形で聞き知ってしまう。


 それは奇しくもねえさんの嫌悪を知った夜だった。


 その日は妙に寝苦しく、じっとりと汗をかく熱帯夜だった。子ども部屋にクーラーはなく、扇風機だけが、温風を四方に吹き散らしていた。掛け布団を蹴飛ばして、敷き布団の裏に脚をさしこんで冷めた板間で身体をひやし、それも体温でぬくめられると、もうなんともしがたく、目も冴えて、しょうがなくクーラーの効いた客間で寝ることにした。


 子ども部屋から客間まで真っ直ぐ伸びた暗い廊下に、ぽうと客間から光が差し込んでいた。


「あの子は大丈夫なの?」


 不意に声がしてギョッとした。それは母さんの声だった。なにやら心配した風でおだやかならぬ様子だった。


「うーん」


 煮え切らない父さんの声は、大丈夫と楽観視するにはあまりにも心許ない。


「助けられないの?」


「十中八九、彼女は認めない」


「でも!」


 母は声を荒げていた。


「虐待されてるのよ。あの子」


 がつんと殴られた気がした。誰のことを指しているのか、分からないはずもなかった。動悸が速くなり、嘔吐を催しそうになった。


 驚いたからではない。彼女が虐待の被害にあっていたのを知って、愕然とするならこんな立ち眩みめいたショックは生じない。


 知っていたのだ。ぼくは。


 彼女が始めて声をかけてくれたあの夕暮れ時、西日に燃えるその白い手が、ぬうっと伸びて、手ずから最中を差し出して、ぼくに渡そうとしたとき、その裾の奥から見えた、二の腕に出来た青あざを。


 ぼくはその日以来、顔もしらない彼女の義父を憎むようになった。


 いつか報いを受けさせてやる。そう決意した。

 

 彼を殺す、二週間あまり前のことだった。


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