第238話 荒れ果てた無人の大地で
アネットと別れたぼくは、ただ一人、荒れ果てた無人の大地を歩いていった。
最初のうちは、順調に進んだ。念のため、隠密のスキルはオンにしておいたけど、魔物も人も、まったく現れなかった。可能な限り範囲を広げて探知をしてみても、どんな反応も返ってこない。本当に文字どおりの、無人の荒野だ。たぶん、この世界に住む死者たちは、本能的に、この先にあるものを避けているんだろう。
寂しいし、ちょっと気味が悪かったけど、邪魔をしてくるものがいないのはありがたい。ぼくは体に大きな負担をかけない最大限のスピードで、先を急いだ。
最初の変化は、ちょっとしたことだった。
前の方から、風が吹いてきたんだ。
その時になって初めて気がついたんだけど、この世界ではほとんど、風が吹かない。ここには太陽がないから、低気圧とか高気圧とかもできず、そのため、風も起きることはないんだろう。柏木や魔王が攻撃魔法を放った時に起きた暴風は例外だけど、あれはすぐに収まっていた。
最初は、そんなに気にはしなかった。向かい風だったけど、強さはそよ風程度で、走る邪魔になんてならなかったから。進んでいくうちに風の頻度が増し、だんだんと強くなっていったけど、それでもたいした障害ではなかった。けど、ある場所を境に、状況は一気に変化した。
そのきっかけは、目の前に現れた丘だった。
同じような高さの土の盛り上がりが、右に左に、見渡す限りずっと続いている。土はあまり固くはなくて、丘と言うよりも、なんて言うか産業廃棄物の処理場、といった感じだった。規模は、処理場とは段違いだけど。そういえばこれも、こちらの世界では珍しい地形だ。ここには海や川はもちろん、山や谷なんてものもなく、同じような荒れ地が続くばかりだったから。
ちょっと歩きにくい土を踏みしめて、ぼくは坂を登った。登り切った途端、とんでもない強い風に吹かれて、危うく後ろに倒れそうになった。倒れるどころじゃない、浮き上がって吹き飛ばされそうなほどの強い圧力、それが瞬間的に襲ってきて、全身を叩いたんだ。
なんとか踏みとどまり、思わず伏せていた顔を上げると、丘の向こうに広がっていたのは、巨大な窪地だった。
いや、これは窪地というより、クレーターと呼ぶのがふさわしいだろう。これが巨大な力の衝突によって作られたのは、明らかだったから。そして、その巨大な力は、今もなお、クレーターの中にあった。
その中央、クレーターの最も低くなっているところでは、一つの巨大な陰のようなものが、怪しくうごめいていた。
◇
はるか遠くに見える、巨大な陰のようなもの。それ自体は、力の本体そのものではない。その中にいる何かによって、周囲の土砂が飛び散り舞い上がったものだ。普通なら次第に鎮まり、薄まっていくだろう砂の霧は、引き続いての力の放出によってさらに濃くなり、拡大していく。それが積み重なって、あの大きな陰になったんだろう。中にいるのは、その大きさに見合うほどの膨大な魔力を持つ存在──フロルとラール、二人の大精霊に間違いない。
ということは、フロルたちは今もまだ、戦い続けているんだ。間に合った、と安堵すると同時に、急がなければという焦りが、ぼくの心に浮かんできた。こんな広大なクレーターができるほどの、膨大な魔力を伴っての戦闘。そんなものが、いつまでも続けられるとは思えない。フロル自身が言った「一週間」という期限も、信じられないほどの力を持つ彼女たちにも、限界があることを示している。ぼくは、やっぱり柔らかくて走りにくい砂の斜面を、駆け下りようとした。
ところがその矢先に、再び突風が襲ってきた。ぼくはそれを正面からまともに食らって、今度こそ、風圧に吹き飛ばされた。1m近くも浮き上がっただろうか。地面に落ちたのはたいした痛みではなかったけど、風を受けたことそれ自体のほうが、けっこうなダメージになっていた。まるで、体全体を巨大なこぶしで殴られたようだ。もはや風と言うより、衝撃波のような感じ。ぼくは起き上がると、いつやってくるかわからない衝撃に備え、低く身をかがめた。その姿勢を保ったまま、再び走り始めた。
この不自然な体勢を続けるのはちょっときつかったので、この格好で小走りに走り、しばらく進んだら、地面に身を投げ出して休憩する。そうやって進むことにした。まるで、第二次大戦を描いた映画に出てくる、銃撃の中を進軍していく歩兵のように。それでも、突発的にやって来る風を、完全に避けることはできない。走っている最中に風が襲ってきて、後ろに弾き飛ばされることも、しばしばだった。そんなことを繰り返しながら、ぼくは少しずつ、前に進んだ。目に映る黒い陰の姿は、次第に大きくなっていった。
と、突然、足下の砂、おそらくは出来たてなんだろう柔らかな地面が、大きく崩れた。
踏み込もうとした左足が空回りし、体が大地に投げ出される。そこはちょうど、斜面が急になったところだった。ぼくの体は前転と側転を繰り返しながら、たくさんの砂や岩と一緒に、数十メートルも滑り落ちてしまった。
ようやく滑落が止まった。遅れて落ちてきた石に背中を打たれて、ぼくは痛っ、と声を上げた。土くれの中から体を起こし、改めて周りを見回す。前方の傾斜は終わって、平らな地面が、暗い影に向かって伸びていた。どうやらぼくは坂を下りきって、クレーターの底に到達したようだ。
ここまで来てみると、さっきまで密集して見えた陰の色が、かえって薄まっているように感じた。いや、そうじゃない。ぼくはもう、陰の中にいるんだ。その内側に入ってしまったから、外から見ているよりも、密度が下がって見えているんだろう。その証拠に、周囲にはもはや、ほとんど光がない。常に舞い上がっている土や砂のために、発光石のわずかな光など、完全に打ち消されていたんだ。「暗視」のスキルがあるからなんとか見えているけど、もしもこれがなかったら、まったくの暗闇だっただろう。
陰の中にいるということは、これまでもたびたび襲いかかってきた衝撃波が、より強力になっている、ということだった。
もはや走ることなど出来ず、ときおり打ち付けてくる衝撃に耐えながら歩みを続けたけれど、やがて立っていることもできなくなった。ぼくは地面に腹ばいになって、ごろごろした石の間を、這うように進んだ。
あたりの空気そのものも、さっきまでとは違ってきた。息をするごとに鼻の中が渇き、のどがひりついた。口は閉じたままなのに、中がざらついている。ぼくはひと息入れるごとに、水筒の水を口に含み、砂粒と共に吐き出さなければならなかった。
一度、どのくらい進んだかな、と思って後ろを振り返ってみたけど、黒い陰が広がっているだけで、距離のわかるものなど見えなかった。近くの景色にもほとんど変化はなく、かなり近づいたのか、それとも思ったほどに進んでいないのか、まったくわからない。それ以降、後ろを見るのはやめた。ぼくはもっぱら前を見つめて、じりじりと、ほふく前進を続けた。
そうして、どれだけの時間が経ったんだろう。ゆっくりと、それでも確実に進んでいくにつれて、ぼくの中に渦巻いていた様々な心配や不安が、次第に振り落とされていった。ぼくはある種の「無心」のような心持ちで、目の前に広がる暗がりを見つめていた。と、その陰の中から、光り輝くなにかが見えた。
次の瞬間、強大な魔力のかたまりが、目の前に迫ってきた。
前方の陰を大きく切り裂きながら、すさまじい速さで近づいてくる。ぼくは思わず顔を伏せ、両腕で頭部を守った。けど、それはどうやらぼくを狙ったものではなく、単なる流れ弾だったらしい。魔力のかたまりはぼくのはるか上を通過して、背後の闇へ去って行った。と思う間もなく、力の余波によって、体が地面に押しつけられた。
その圧力が解け、ぼくが顔を上げると、眼前の光景には一つの変化が起きていた。
裂けた陰の向こうに、対峙する二人の精霊の姿が、はっきりと見えた。
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