第167話 聖女の奇跡
白河と怪物の戦いが始まってから数時間がたち、夜が最も深くなった頃。
怪物は彼女の前で、ひれ伏すように倒れていた。だらしなく四肢を伸ばして、ぴくりとも動かない。その姿を、聖女は仁王立ちになって見下ろしていた。
白河は、既に限界を迎えていた。
彼女の魔力、体力は、ドレイン魔法の効果によって、ほとんど減ってはいない。だが、精神の方が限界だった。いかに聖女といえども、数時間にもわたる魔法の連続詠唱は耐えがたいものだったのだ。
魔法の詠唱により、怪物の体力がゼロに近づいていったのは間違いなかった。だが、どれほどドレインをかけても、怪物は死に至らなかった。怪物から流れ込んでくる力がごくわずかになり、これで終わりか、と白河が思ったことは何度もあった。だが、そこで魔法を止めると、とたんに怪物は活動を再開してしまう。それと同時に大量の体力と魔力が、彼女の体から消えていった。
怪物が立ち上がり、一歩前に踏み出すと、脱力感はさらに強まった。そのため、白河はあわてて一歩下がり、再び魔法を唱えざるを得なかった。今では彼女は、用具室のドアのすぐ前にまで、追い詰められていた。
途中、魔物をすり抜けて、この場所から逃れようと考えたこともあった。だが、少し前に踏み出しただけで、力の減りがぐんと強くなってしまう。どうやら怪物のドレイン能力は、対象との距離が近づくと強くなるらしい。こんな状況で、怪物のすぐそばを通ったりしたら。いや、立ち上がろうとしたこの怪物に、もしも直接、触れられでもしたら……白河はあわてて元の位置まで戻り、それ以降、前に出ることができなくなっていた。
火系統や風系統の攻撃魔法も放ってみたが、怪物はまるでこたえた様子を見せなかった。魔法耐性のようなスキルを持っているのかもしれない。かといって、大規模な攻撃魔法を使うのもためらわれた。それでは、周囲の人々に大きな被害を与えてしまう。何よりも、この位置で魔法を放つと、魔法の射線上に柏木が入ってしまうのだ。
柏木は自室で倒れていたが、生死のほどはわからなかった。怪物のドレインで、気を失っていただけかもしれない。そう信じたかった。だが、例え生きていたとしても、無防備な状態で大きな攻撃魔法を浴びれば、間違いなく命に関わるだろう。上条を失ったばかりの白河にとって、それは絶対に避けたいことだった。
とはいえ、こうした判断で動いていたのは、最初のうちだけだったのかもしれない。焦燥と惰性の中、今では半ば自動的に、白河はドレインの魔法をかけ続けていた。
魔法の無理な発動による、精神的な疲労と眠気。半ばもうろうとした意識の中で、白河は改めて、今起きている現象について思いを巡らせていた
これが「勇者の病」であるとは、既に白河は考えていなかった。間違いなく、ユージの姿をした魔物の能力だろう。ただ、だとしても不思議なのは、この怪物が今も死んでいないことだった。怪物がドレインの能力を持っていたとしても、白河の魔法がその吸収力を上回っているのは間違いない。魔物が床に倒れて動くことができず、自分はまだ立っていることが、その証拠だ。
なのになぜ、この怪物は死なないのか。彼女の魔法は、何度もこの魔物の体力を、根こそぎに奪いとっていたはずだ。なのに、なぜ?
この時、白河の脳裏にひらめいたものがあった。彼女自身が先ほど思ったばかりの、あの言葉だ。
「死なない、ですって?」
白河は思わず、口に出していた。
「死なない──つまりは、蘇生。もしかしたらこの化物は、蘇生スキルを持っているの?」
十分に考えられることだ、と白河は思った。「蘇生」は、ユージが持っていたスキルだ。そしてアンデッドは、生きている時のスキルをそのまま保持している場合がある。もしかしたらこの魔物は、体力がゼロになるたびに、生き返っていたのだろうか。
だが、ユージが蘇生できるのは、ただ一度きりではなかったのか? いや、そうとは限らない。スキルは伸びるものだし、「死」と「復活」により近いアンデッドになることによって、スキルが変質した可能性もあるだろう。
もしもこの考えが正しいとしたら……そのような怪物を、どうやって倒せばいいというのだろう?
だが、この思いつきの先に、白河はもう一つのひらめきを得ていた。
「そうか、逆だったんだ。殺そうとしても死なないのなら、その逆をすればいい。魔物を殺すのではなく、ユージ君として生き返らせることができたら……」
人間であった頃のユージは、もちろん、ドレインの能力などは持っていなかった。王国からは使えないマレビトとみなされ、ついには追放されてしまった、損な役回りの元同級生。久しぶりに会った彼は、あの頃とは見違えるほどの実力を身につけていたが、それでも間違いなく、ただの人間だった。
目の前の魔物は、人間としてのユージが死に、何らかの理由で魔物になったのは間違いなさそうだ。その彼を生き返らせることができれば──ユージは魔物ではなくなり、この異常なドレインも収まるかもしれない。そして白河には、そのための手段があった。
──蘇生魔法。
初代の聖女だけが行使することができたという、伝説の光魔法だ。伝説と言っても、その詠唱の内容自体は伝えられており、白河も召喚直後の座学で教えられていた。ただ、初代聖女以降、誰がそれを唱えても、発動することができなかったのだ。
白河自身、エルベルト魔導卿から半ば強制的に詠唱をさせられたことがあったが、何度やっても、テーブルの上に置かれた動物の死体が蘇ることはなかった。魔力が減ったような感覚もなかったから、魔法の発動自体ができていなかったのだろう。だが、あれから白河も、聖女としての経験を積んできている。もしかしたら、今なら可能かもしれない。
もちろん、懸念材料はあった。蘇生魔法は、死亡直後の死体でないと効果を現さないとされている。今のユージが、これにあてはまるのだろうか? また、ユージは死体ではなく、魔物となった状態だ。「ホーリーレイ」が効果がなかったところを見ると、ただのアンデッドではないのだろうが、限りなくそれに近い存在のように思える。対アンデッドでも、蘇生魔法は有効なのか?
そしてなんと言っても心配なのは、初代聖女以降、この魔法に成功したものがいないという点だ。魔法研究者の間では、伝えられた詠唱が誤伝ではないかという可能性さえ取り沙汰されているらしい。あの、王国から渡された「聖剣」のように。そんな呪文を唱えたところで、はたして意味などあるのか?
それでも、白河にはこれ以外の手段を思いつくことができなかった。
白河は、自身のかけたドレインの効果が、十分に行き渡るのを待った。やがて、敵の体力魔力が最低となり、彼女のそれが最高潮に達する瞬間が到達した。白河は最後の力を振り絞って、聖女の奇跡とも呼ばれる、あの魔法を詠唱した。
「《リザレクション》」
彼女の前に、まばゆいばかりの光の球が現れた。視界全体が、真っ白な色で塗りつぶされる。周囲から一切の色が失われ、目の前にはただ、ユージと白河の輪郭からなる、モノクロームの景色があるだけだった。光の球はゆっくりと移動して、かつてユージであったものの中に吸い込まれていった。
そして、光が消えた。
気がつくと、白河の中に残っていた魔力が、ごっそりと奪い取られていた。それまでの過度な充実を取り返そうとするかのような、急激な転落。同時に、白河は自らの体力までも、どんどんと削られているのを感じていた。魔物のドレインが再開したのか? 魔法の制御に失敗して、そのダメージが自分にはね返ってきたのか? それともこれは、伝説の魔法を行使することに対する、当然の代償なのだろうか。
いや。そもそもの話、あの魔法は、はたして成功したのだろうか……?
だが、白河にはもう、それを判断するだけの力は残っていなかった。
白河はふらっとよろめき、両膝をついた。そして静かに、廊下の上に寝そべった。
まぶたを閉じた刹那、懐かしい光景が彼女の脳裏に浮かんだ。この世界に召喚される直前の、高校の教室だ。そこには、一ノ宮と、上条と、柏木の姿があった。勇者パーティーの一員などではない、ただの生徒である彼らが、教室の中で談笑している。話題は、今度の文化祭の出し物のようだ。クレープを売ったらどうだろう。私は喫茶店がいいな。いっそのこと、メイド喫茶にでもしたらどうだ? そんなばかな話をして、笑い合っている。その輪の中に加わろうと、白河は三人に近づいていった……。
それが彼女の、最後の意識となった。
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