第164話 剣戟とパノラマ

 それは、木がきしんだような音だった。


 木に重みがかかって、歪んだような音。それが、ドアの向こうから響いてきたのだ。

 一ノ宮はすぐさま剣の柄に手をかけて、警戒の態勢をとった。そしてドアの向こうの気配をうかがうと、さっと身を躍らせて、実験室に踏み込んだ。しかし、この部屋には何者の姿もなかった。ここで再び、ギシリ、という音が響いた。続いて、ギシリ。また一つ、ギシリ。その音は、もう一つのドアの向こう──先ほど彼が降りてきた、階段の方から聞こえてきた。

 何者かが、この地下室に降りてきたらしい。

 それが敵であるという確証はなかった。もしかしたら、彼の後をついてきてしまった、村の青年の可能性もある。しかし、一ノ宮にはそうは思えなかった。なぜならこの時、一ノ宮は奇妙な感覚に襲われていたからだ。

 力が吸い取られるような虚脱感と、言いようのない不快感。この村に来てから感じていた二つの異様な感覚が、刻一刻、強まってくるのを感じた。そしてもう一つ感じたのが、匂いだった。わずかな、だが明らかに、この状況とは異質な匂い──まるで肉か何かが焦げているかのような匂いが、付近の空気に混ざり込んでいた。

 と、それまで一定の間隔で続いていた音が、ふいに止んだ。一ノ宮はさらに警戒を強めて、目の前のドアを凝視した。

 数秒の間、周囲には何の物音もしなかった。やがて、油の切れた金属の発する、ギギギギィ……という音を響かせながら、階段へと通じるドアが、ゆっくりと開いていった。

 ドアの向こうに立っていたのは、異形の怪物だった。


 その怪物は、上半身には革鎧を着用しており、一見すると冒険者に見えた。

 ただし、鎧の腹部には大きな穴が空いており、また両肘から先の部分は、焼け焦げたような痕を残して失われていた。下半身を覆う部品も焼失していて、腰部はぼろきれのような布で覆われているだけだ。鎧に覆われていない手や足の部分は素肌が見えていたが、全体の皮膚は焼けただれて、いたるところで肉がめくれ上がっていた。頭部の損傷はさらにひどく、焦げた皮膚の間から、奇妙に白く見える骨が覗いていた。その眼球は白く濁って、何もとらえてはいない。

 だがそれでも、全体の顔形は、なんとか判断することができた。

 身動きができず、声も出せず、一ノ宮はただ棒立ちでそのモノを眺めるしかなかった。そのモノの姿がわずかに明滅するのは、一ノ宮の手が震えて、魔道具の光が揺れているからだ。胃液が、喉元までせり上がってきていた。一ノ宮はなんとかそれを抑え、短くあえぎながら、こう漏らした。

「……ユージ?」

 その声に反応したかのように、怪物は一歩、前に進んだ。同時に、迷宮の中で聞いた白河の説明を、一ノ宮は思い出していた。人工迷宮で死んだ冒険者は、アンデッドに作り替えられることがある、という……。彼は確信した。村人が見たゾンビの正体は、ユージのなれの果てだったのだ。

 そのとたん、一ノ宮は片膝をついてしまった。

 怪物がただ一歩を進んだだけで脱力感が増幅し、立っていることができなくなってしまったのだ。一ノ宮は頭を振り、机に腕をかけて、何とか立ち上がった。そして、腰に下げた聖剣を引き抜いた。勇者の手に取られた聖剣は、剣身から白い光を放って、周囲を照らした。一ノ宮は心が高揚し、体が少し軽くなったのを感じた。

 聖剣から伝わってくる力に励まされて、一ノ宮は柄を握る手に力を込め、自分に言い聞かせるように、こう叫んだ。

「ユージ! おまえがもたらしてくれたこの聖剣が、俺に力をくれたぞ!」

 怪物は、再び歩を進めた。両手を前に突き出し、頭をのけぞらし気味にして、少し体をふらつかせている。とても、相手を攻撃できるような態勢には見えない。だが、それがそこに立っているだけで、聖剣の効果で回復した力が再び失われていくのを、一ノ宮は感じていた。

 「勇者の病」と言う言葉が、一ノ宮の脳裏をよぎった。

 異世界から召喚された勇者がしばしばかかるという、精神的な病。その症状の中には、気力体力を一切失い、部屋に閉じこもって自死してしまう、というものがあった。ぼくはこの病にかかったのか? 一ノ宮は自問した。その原因であるユージの姿を目にしたために、その症状が悪化したのだろうか。

 一ノ宮は、ユージを溶鉱炉に突き落としたことを後悔はしていないし、あの行為が間違っていたとも思っていなかった。だが、正しいことをしたと思っているからといって、心にダメージがないとは限らない。もしかしたら、精神の病にかかる人の多くは、「こんなことで、病気になどなったりはしない」と思っているのではないだろうか。そして一ノ宮は、精神の病が肉体に大きなダメージを与えうること、それが場合によっては命にも関わることは、耳にしていた。

 しかし、と一ノ宮は思った。それは、こんなにも強烈な症状を引き起こすものなのだろうか。これは本当に、勇者の病なのか?


 一ノ宮の目の前にいるのは、ユージの形そのままの、ゾンビだった。一ノ宮は、その姿を見る一瞬一瞬に、自分の力が吸い取られていくように感じていた。その感覚は、ますます強くなっていく。

 早く決着をつけなければならない、と一ノ宮は直感した。これが勇者の病であろうとなんだろうと、ここで決着をつけなければ。手に持つ聖剣の力があれば、ただ棒立ちになっているだけの相手など、簡単に倒せるはずだ。彼は、抜き身の剣を上段に構えた。

「悪かったとは思っている! だが、迷宮での出来事は、やむを得ない選択だったんだ! だから──」

 そして、力を込めて剣を振り下ろした。

「──これで成仏してくれ!」

 勇者の一撃に対して、怪物はなんの反応もすることができなかった。聖剣は怪物の左の肩から入って、その体を大きく斜めに切り裂いた。

「ぐっ!」

 だが、うめき声を上げて床に両膝をついたのは、一ノ宮の方だった。怪物の体が裂かれ、血にまみれた肉や半ば崩れたような内臓の断面が目に入った瞬間、これまでにないほどの脱力感が、彼を襲ったのだ。そのため、剣を最後まで振り抜くことができなかった。それでも大きく傷つけたはずなのだが、この怪物には痛覚など存在しないのか、二、三歩後ろに下がっただけで、倒れることさえしなかった。

 その姿を見ているうちに、一ノ宮はあることに気がついた。怪物の体の傷が、ゆっくりと癒着しているのだ。先ほどつけたばかりの剣の痕が、もうすでに四分の一ほども、元の姿に戻っていた。まるで、時間がゆっくりと、さかのぼっているかのように。

「ゾンビには、こんな再生能力もあるのか? それとも、こいつはゾンビじゃなくて、なにか別の、特殊な魔物なんだろうか」

 一ノ宮はこう言ったあとで、首を振った。

「どちらにしろ、することは同じだ。殺すしかない。殺しきってしまえば、再生能力も関係なくなるはずだ」

 一ノ宮は、再び自分に近づいてくる怪物をにらみつけながら、なんとか立ち上がった。そして、もう一度聖剣を振り上げて、大上段に構えた。

「こいつは、魔物だ。ぼくの目の前にいるのは、ユージなんかじゃない。ユージとはまったく別の魔物、アンデッドなんだ

 魔物は、勇者であるぼくが倒す!」

 そして一ノ宮は力を振り絞って、今の自分に可能な、最大限の剣戟けんげきを放った。


 その瞬間、一ノ宮はおのれの計算違いを悟った。


 剣が怪物の体を切り裂いていくにつれ、彼の感じる虚脱感が、ますます高まっていったのだ。剣が一センチ、いや一ミリ進むたびに、一ノ宮は果ての見えない苦しさと闘うこととなった。剣を動かすのに、ひどく時間がかかっているような気がする。一瞬の出来事のはずなのに、まるでスローモーションの中にいるかのように感じた。

 そのゆっくりとした時間の流れの中、一ノ宮の脳裏に流れていたのは、これまで自分が歩んできた道だった。正義感というものに駆られ、振り回されていた子供のころ。上条や白河たちに囲まれ、ようやくのことで周囲と調和することができた中学、高校時代。そして突然召喚され、「勇者」と認められたこの一年間。この世界で、彼には新たな目標と共に、正義にふさわしい「力」が初めて与えられた。

 少し、舞い上がってしまったこともあったかもしれない。それでも、厳しい訓練と恵まれたジョブのおかげで、単なるお飾りの勇者から、真の勇者へと成長してきたはずだった。だが、本物の「戦争」への参加が、この完璧な調和に狂いを生じさせた。相手が魔族だというだけで、見も知らぬ人々を殺して回る日々。異世界人である彼の目からすると、魔族も髪の毛や瞳の色が少し違うだけの、「ヒト」に過ぎない。そんな彼らが、自分の振るう剣で倒れ、魔法で焼き尽くされる姿を、連日、目の当たりにしなければならなかった。

 それでも彼は、自らが信じる道を進んだ。クラスメートたちを守り、導き、共に日本へ帰るという目標は、絶対的な正義のはずだったから。


 一ノ宮は、はっと気づいた。

 これはもしかしたら、パノラマ現象というものなのか? 人が死ぬ寸前に、過去の体験がパノラマとなって再現されるという、あの現象……もしもそうだとすると、このぼくは──?。いや、違う。まだ終わりじゃない。ぼくにはまだ、この先があるはずだ……。

 一ノ宮は、剣を握る手に必死に力を込めた。聖剣を持った際の高揚感など、とうに消え失せていた。それでも、この剣を振り切り、怪物を両断することさえできれば、「勇者の病」も終わる。そうなれば、体力の回復など、後からいくらでもできるはずだ、そう信じて。


 だが。

 一ノ宮には、剣を最後まで振りきるだけの力は、もはや残っていなかった。


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