第146話 やむを得ない犠牲
柏木が詠唱を始めた、その直後。
それまで静かだったハーピーたちの島が、急に騒がしくなった。キーキーと鳴き声が響き、何匹ものハーピーが宙に舞い上がった。白河はかすかに眉根を寄せた。
「気づかれた? まずいですね。魔法が間に合わないかも」
その間も柏木の詠唱は続き、ハーピーたちの騒ぎは大きくなっていく。だけど不思議なことに、こちらに攻撃してこようとする魔物は一匹もいなかった。そうして十匹以上のハーピーが空に浮かんだ頃、柏木の魔法が完成した。
「《エクスプロージョン》!」
ハーピーの島の上に、大きな火の玉が現れた。それは見る間に膨張しながら、ハーピーの群れの中心へ落ちていく。そして、目のくらむような閃光と共に爆発して、灼熱の炎が浮島を飲み込んだ。
「伏せろ!」
一ノ宮が叫ぶ。岩の陰に隠れたぼくらの頭上を、熱をもった爆風が通り過ぎていった。
ぼくたちはその姿勢のまま、たっぷり数秒間は、動かなかったはずだ。こんなに大規模な火魔法を見たのは、ぼくは初めてだった。いや、規模としては、フロルの「テンペスト」のほうがすごかっただろう。だけど、エクスプローションは炎という脅威が目に見えるだけに、迫力が違った。
熱の波が通り過ぎた後、いち早く動き出したのは一ノ宮だった。彼はさっと立ち上がると、剣を抜いて叫んだ。
「みんな、上を警戒してくれ! 生き残りが襲ってくるかもしれない!」
そうだった。一瞬、忘れていたけど、かなりの数のハーピーは空に逃れていたはずだ。ぼくは急いで身を起こしながら、探知スキルが返してくる反応を確認した。
だけど、その結果は意外なものだった。
「おい、一ノ宮」
「なんだい? ユージも、早く探知スキルを──」
「もうやってる。だけど、警戒の必要はないかもしれない」
「え?」
いぶかしげな顔をする一ノ宮に、ぼくは目の前の浮島を指さして見せた。島の上空には、今も三匹のハーピーが飛び交っている。が、こちらに向かってくる様子はなかった。魔法の炎で焼かれ、一部が熱で赤くなっている島の上空を、旋回しているだけだ。
と、そのうちの一匹が、島に向かって降りていった。島の中心、赤熱している部分を目指しているように見える。しかし、その途中で降下の姿勢がくずれて、ハーピーはそのまま地面に激突してしまった。
「墜落した? 今のハーピー、どうなったんだ?」
「死んでしまったみたいだね。さっきから、同じことを繰り返しているんだ。ちょっと前までは五匹いたんだけど、もう二匹だけになってしまった。柏木さんの魔法が発動する前に、十匹以上のハーピーが空に逃げていたと思うから、もしかしたら十回以上、今のをやっているのかもしれない」
「彼らは、いったい何をしているんだ。自殺でもしているのか?」
「わからない。けど、あの赤くなっているところは、あのあたりに巣があったんだよね。攻撃魔法で狙った場所なんだから」
「たぶん、そうだろう。……ちょっと待て。ということは、君が言いたいのは──」
「あいつらは、巣から逃げられなかったハーピーを助けに行ったんじゃないかな? たぶんだけど、彼らの子供を。それが卵なのか、雛なのかは知らないけど。
あ、また一匹、降りていった」
そしてまた一度、同じことが繰り返された。さっきの出来事の再生映像を見せられているかのように、ハーピーが地面へ降下していき、そして途中で姿勢を崩して、墜落してしまった。
おそらく、あのあたりは酸欠状態になっているか、あるいは毒性のガスでも漂っているのだろう。もちろん、卵にしろ雛にしろ、生き残っているものはいないはずだ。探知スキルの反応は、空を滑空している最後の一匹のそれしか、残っていないんだから。
やがて、その最後のハーピーも、浮島に向かって消えていった。ぼくたちはその様子を、無言で眺めていた。
「これも、たぶんの話なんだけどさ」
「……たぶん、なんですか?」
ぼくの言葉に、返事を返したのは白河だった。
「あのハーピー、最初から、ぼくらのことに気づいてたんじゃないかな。柏木さんの魔法に対する反応が早すぎたし、ぼくらよりも、あいつらの方が視力はいいはずだよ。高い空の上から、小さな獲物を見つけるんだから。気づいていながら、何もしなかった。最初から、ぼくらを襲う気なんてなかったんだ」
「でも、ハーピーは凶暴な魔物なはずですよ」
「この迷宮のハーピーは、そうじゃないのかもしれない。ほら、昨日のホーンラビットは、逃げずに向かってきただろ。外のラビットなら、逃げていたはずだ。あれと同じように、外のハーピーと迷宮のハーピーは、性格が違うのかもしれない」
「ぼくたちの目的のためには、しかたのないことだ」
今の言葉にかぶせるように、一ノ宮が言った。
「ぼくたちの前に立ち塞がるのであれば、たとえそれが無害な魔物であっても、倒さなければならない。それは、やむを得ない犠牲なんだ。そんなことは、ずっと前から決めていたことだよ」
ぼくたちはそれからも攻略を進めていき、四層もいよいよ最終盤にさしかかった。
残る吊り橋は、一つだけ。この先の浮島には、転移陣の小屋も見えている。今こうして立っている橋を渡りきれば、ようやくこのエリアも終了だ。そうなったら、一歩踏み出すたびに不安定に揺れるこの橋も、「景色がよかった」とか「スリル一杯のアトラクションみたいだった」くらいの、きれいな思い出になってくれるかもしれない。もう二度と、ここに来ることなんてないだろうから。
だけど、今のぼくたちは、それどころではなかった。必死にロープにしがみつき、ただただ足を進めていた。
なぜならこの橋は、これまでとは長さが段違いの──おそらく、五百メートルは余裕でありそうなくらい、長い吊り橋だったからだ。
橋が長ければ、当然、その揺れかたも大きくなる。時にはロープにつかまっていても、振り落とされてしまいそうになった。最初の橋を渡って以降、わりと平気そうに見えていた柏木も、さすがに顔色が青くなって、改めて白河にブレイブの魔法をかけてもらっていた。
「今さらだけど、この橋、だいじょうぶなんだろうな!」
上条の叫びに、一ノ宮も叫び返した。
「ここまで来て、そんなことを言っていてもしかたがないだろう! おそらく、切れて落ちたりはしないよ。そうでなければ、今までこうして残っているはずがない。
それよりも、問題は魔物だ。ユージ、探知に反応はないのか?」
「今のところは、ない。だけど、周りを見るのも忘れないでくれよ。これだけ見通しがよければ、探知スキルより目の方が、遠くまで見えるんだから」
ぼくは答えた。すでに、橋の真ん中当たりまで進んでいて、上下左右見渡す限り、島などの障害物は見当たらない。見えるのはうっすら白くかかる雲と、細長くて頼りない吊り橋、そしてその先に浮いている、ゴールの浮島だけだった。
「わかってる。みんなも、周囲には気をつけてくれ。それから、矛盾するようだけれど、できるだけ速く進むようにしよう。難しいとは思うけど、それが一番、安全な方法なんだ」
しばらくの間、ぼくたちは黙々と、橋を進んでいった。一歩、また一歩。やがて、沈黙に飽きてしまったのか、上条が口を開いた。
「そういえば、日本にいた頃、こんな橋を歩いたことがあったな」
「日本で、ですか?」と白河が問い返す。
「ああ。家族旅行で行ったんだけどさ。日本一長い吊り橋、だったっけ、そこを歩いたんだ。歩いて何があるわけじゃないんだけど、楽しいことは楽しかったな。でっかい遊具を歩いているみたいで。でも、あの橋を渡るだけで、家族で何千円か払ってたと思うから、タダであれ以上のスリルを楽しめてると思えば、この揺れも悪くはないのかもな」
「その橋のスリルは、管理された、安全なスリルだもん。入場料は、その管理のための料金でしょうね」
「そうかあ。ここで事故が起きて誰か落っこちても、誰も責任取ってくれないもんなあ。この国に損害賠償を請求しても、何にもならないだろうし。一人に金貨一枚くらいなら払うから、無事に渡らせてくれねえかな」
この迷宮を管理しているのが、誰なのかは知らない。が、上条のこの訴えは、どうやら届かなかったらしかった。その直後、柏木が左の空を指さして、こんなことを言ったからだ。
「ねえ、一ノ宮君。あれ、何かな」
「え?」
一ノ宮は、柏木の示す方向を見つめた。彼の顔が、見る間に厳しいものになった。
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