第112話 暗殺者っぽい技
それから、こんなこともあった。
小部屋にこもって三日ほどが過ぎたころ。アネットも順調に回復して、自力で起きることも出来るようになっていた。よしよし、この調子ならあと数日で、この部屋を出られるかもしれないな……。
と思っていると、アネットから、「ちょっと相談があるんだけど」と話しかけられた。なんだか、何事かを決心したような、そんな目つきをしている。ぼくも姿勢を正して
「なんでしょう」
と答えたところ、彼女が放ったのは、こんな言葉だった。
「ねえ、くさくない?」
ぼくは思わずトイレの方を見た。この何日かでやったのは、トイレを作ったことくらいだからね。大きな迷宮の中にいるのに、最大の関心事がトイレというのは、ちょっとどうかと思うけど。
「いや、別にくさくは感じないけど。鼻がにおいになれちゃったのかな? もう少し、土をかけてこようか」
「そうじゃなくて、そのう……ボクのことなんだけど」
「え?」
「ボクって、くさくないかな? 迷宮に入ってから、もう一週間以上、体を拭いていないし」
アネットは自分の鼻を肩に近づけて、くんくんと臭いを嗅いだ。
この世界、お風呂というものはあまり普及していないんだけど、水やお湯で体を拭く人は多い。生活魔法で、わりと簡単に水を作ることができるからだろう。ぼくも日本人の一人として、この部屋にこもってからも、毎日体は拭いていた。その方が衛生的だし、気持ちもいいからね。
冒険者だとそのあたりは気にしない人も多いんだけど、アネットは生粋の冒険者ではないからか、自分の匂いがきになったようだ。いや待てよ。暗殺者ってことは、できるだけ気配を消さないとだめなのか。だから、臭いを消すための行動が、日課になっていたりするのかな? だとしたら、一週間分の体の汚れは、ちょっときついのかもしれないな。
そんなことを考えていたら、急に、周りに女性的な香りが漂ってきたような気がした。清楚でフローラルなそれではなく、どちらかというと野性的な、ジャコウの匂い的なものが。
アネットに言われてから気づいたので、これは気のせいかもしれない。けど、体を拭いていないんだから、匂いがついているのは、間違いないだろう。
それでも、女性への一つの気配りとして、ぼくはこう答えた。
「いえ、そんなことはありませんよ」
「なんか、心がこもってなくない? それに、ユージだけ、ずるくないかな。毎日、体をお湯で拭いててさ」
「あー、それはそうだけど、勧めるのもなんだか悪いかと思って」
それまで、アネットは満足に動くことができなかった。さすがに入浴は、ぼくが手伝うわけにもいかなかいだろう。少なくとも、それをこっちから言い出すことは。でも、自力で起きられるようになったなら、話が違ってくるかな。
「じゃあ、今からでも体を拭く? お湯くらいなら、すぐにでも作れるよ」
「うん。お願い」
アネットは、少しうれしそうな顔でうなずいた。
ぼくは手桶を取り出し、そこにウォーターの魔法で水を入れた。この手桶はもちろん、「拾ってきた」ものだ。そこに数回ファイアの火を入れれば、お湯のできあがり。もう慣れたものだ。
「へえ、器用だね。今、『ライト』も使ってるでしょ? 二つの魔法を同時に発動するんだ」
「うん、アネットもやってみたら? いい訓練になるよ」
お湯に指を入れ、温度を確認してから、手桶を渡した。アネットはそれを受け取ると、ぼくから離れて、壁際で腰を下ろした。ぼくに背中を向けて、服を脱ぎ始める。ぼくもあわてて、後ろを向いた。
かすかな衣擦れの音が終わると、びちゃびちゃと、水がはねる音が聞こえてきた。それを聞いたぼくは、ふいにリーネのことを思い出した。妹たちを探してぼくの下から離れていった、元奴隷の猫の獣人。彼女と一緒に旅をしていた頃は、宿屋に泊まった夜には、こうして互いに背中を向けて、お湯を使っていたっけ。
リーネは今、どこにいるんだろう。彼女についても、彼女の妹についても、まだ手がかりらしいものは何も見つかっていない。けど、いつかは何かを見つけて、彼女に会いに行きたいな。
その前に、この迷宮を脱出しなければいけないんだけどね。
水の音が止んだ。ぼくはアネットに、
「もういいかな?」
と声をかけた。
けど、後ろを振り返りつつ聞いたのは、まずかったかもしれない。アネットはまだ、服を着ている途中だった。彼女はこちらを向いていたので、ライトの魔法の光の下、彼女の控えめな胸のふくらみまで、はっきり見ることができた。
「きゃっ!」
アネットは小さな悲鳴を上げて、服で胸を隠した。少し涙ぐんだ目でぼくをキッとにらみつけたかと思ったら、ぼくと彼女の間に、いきなりカーテンが閉められた。
え、カーテン? いや、違った。良く見たら、アネットに渡した掛け布団だった。その布団が宙に浮いて、まるでカーテンのようにぼくの視界をふさいでいたんだ。
「ごめん! 水音が聞こえなくなったから、もう終わったかと思って」
「まだ着替えの途中だよ! 終わったら終わったって言うから!」
「悪かったよ。……今度から、土魔法で仕切りを作っておいたほうがいいかな」
謝った後で、ぼくは首をかしげた。この布団、どうなっているんだ? もっと良く見ようと布団に近づいていこうとして、もしかしたらまた怒られるかもしれない、と思いとどまった。その時突然、頭の中に声が鳴り響いた。
<気をつけるの! あの女、ユージを誘惑しようとしているの>
フロルからの念話だった。そういえばさっきから、ぼくの頭上付近に白い光が浮かんでいたっけ。アネットと、小さな水音が気になって、それどころじゃなかったけど。
<そんなことないだろ。アネットとぼくは、今は臨時で手を組んでいるけど、もともとは敵同士だ。そりゃあぼくとしては、仲良くなれたらいいなとは思ってるけどさ。向こうはそうは思っていないんじゃないかな>
ぼくも念話で返すと、白い光はいらだったように浮遊のスピードを上げて、
<ユージは知らないの。女っていうのはね、みんな男を誘って堕落させる、罪深い生き物なのよ>
小さな女の子の形をしたものがこんな台詞を吐いたので、ぼくは思わず吹きだしてしまった。
<わかったわかった。気をつけるよ>
<本当なのよ? もう、ユージは、女の子にだらしないんだから>
そう言うと、すねたように白い光は消えてしまった。いや、フロルに会ってからは、こうして一緒にいる女の子は、アネット一人だけなんだけどな。
少しすると、布団がベッドの上に戻っていき、元の服装に戻ったアネットが姿を現した。ぼくは改めて彼女に謝った後で、こう尋ねた。
「ねえ、この布団は、どうやって浮いていたの?」
「ああ、これ? 糸で吊ったんだよ。『操糸術』という、糸を操る術があるんだ」
アネットはそう言うと、右手を前に出して見せた。良く見ると、手首に細い糸が何重にも巻き付いている。その糸の先端が、生き物のように動き出して、宙に浮かび上がった。
ああ、そうか。ぼくが滝に落とされた時、腕に糸が絡みついていたのは、これが原因だったのか。そういえば、アネットを川から引き上げた時、糸巻きみたいなものを持っていたっけ。糸巻きは取り上げたけど、手首の糸は見逃していたな。
それにしても、なんて言うか暗殺者っぽい技だね。そうやって音もなく糸を操り、標的の首に回しておいてから、ぎゅうと絞って絞め殺す……なんて、昔の時代劇みたいなことも、やろうと思えばできそうだ。
あ、そうだ。いいこと思いついた。
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