第86話 閑古鳥って、カッコウのこと

 大高はそれだけ言うと、背中を向けてドアの後ろに引っ込んだ。ぼくも彼に続いて、厨房へと入る。

 厨房の中には、スイーツの材料になる卵や小麦粉はかなりの量が置かれていたけれど、店員の姿がなかった。そこを通り過ぎ、奥の事務室へ入ると、新田と黒木、そしてアーシアがいた。

 新田と黒木は、だらしなくソファに腰をかけている。アーシアは事務机に向かっていたけど、先日来た時にはあれほど忙しそうに事務作業をこなしていた彼女が、今は何の書類も置かれていない机の上を、じっと見つめていた。

 ぼくの姿を見て、新田が「よお」と右手を上げた。左手には厚く包帯がまかれ、三角巾のような布で肩につられていた。


「久しぶり。まだ冒険者やってるのか?」

「なんとかね。それより、どうしたんだ、その手?」


 ぼくはそう尋ねたけど、新田は悔しそうな表情を浮かべただけで、何も答えなかった。


「私から、説明しましょう」


 大高が、新田の前のソファーに腰を下ろしながら言った。


「ユージ君がここを離れた後も、しばらくの間は、事業は順調でした。プリンは引き続き大好評でしたし、ホイップクリームの開発にも成功して、クリームを使ったケーキも売り出しました。これもまた大いに売れまして、生産が追いつかずに、店の前には長蛇の列ができたほどでしたな。

 そこで従業員を増やし、生産ラインも増強する一方、新しい店も二店舗同時にオープンさせて、販売網も拡充させました。まさに順風満帆、そのものでした。

 その直後、バレンティンがいなくなってしまったのです」

「バレンティン、って誰だっけ」


 ぼくが尋ねると、大高はちょっといらだたしげに、


「支配人として雇った男ですよ。ユージ君も、一度、会っているでしょう」

「ああ、思い出した。この商会を大きくするのが楽しい、と言っていた人だな。あの人が消えたって? どこに行ってしまったんだ」

「彼が消えてから一週間後、リトリックの大通りに新しい店がオープンしました。プリンとカステラ、生クリームを使ったケーキが売りの店です。ランドル商会の店ではありませんよ。私たちはまったくタッチしていません。その店の店長に納まっていたのが、姿を消していたバレンティンでした。

 裏切ったのですよ。彼はこの店で働きながら、企業秘密であるレシピを盗んで、新しい店を立ち上げたのです」

「でも、たった一週間で? 新しく店を出すって、そんなに簡単なもんじゃないだろう」

「クリーゼル商会よ」


 アーシアが、苦虫をかみつぶしたような表情で口をはさんだ。


「クリーゼル商会?」

「ランドル商会は、かつてはリトリック四大商会の一つに数えられていたという話は、君にもしましたかな。クリーゼル商会は、その四大商会の一つです。新しい店は、クリーゼル商会が経営する菓子店を改装して開店したものだったのです。

 バレンティンは、クリーゼル商会のスパイとして、我々の仲間に潜り込んだのでしょう。そうして得た情報を、逐次、クリーゼル商会に流していた。だからこそ、それほどの短期間で、店を立ち上げることができたのでしょうな。

 そんな人間を、我々はよりによって、支配人にしていたわけです。まんまと、してやられました」


 大高はいまいましげに吐息を漏らした。


「レシピを知られてしまえば、我々に有利な点はほとんどありません。こちらは、菓子作りはほとんど素人の集団ですが、向こうはもともとが菓子店です。経験豊富なパティシエがいるはずですし、レシピを改良してさらにおいしいスイーツを作るのも、簡単なことだったでしょう。大手商会の経営ですから、資金力もありますし、原料の安価な調達先もあるに違いありません。

 レシピを推測されるのは、仕方がないことです。しかし、知られるまでには時間が掛かるはず。それまでに資金を貯め、店舗を展開して、ブランドを確固たるものにしてしまう。そして、競争相手が同じようなスイーツを開発したら、そこで隠し球にしていた新スイーツを投入して、そのたびに差を広げる……そんな戦略を描いていたのですが、幻となってしまいました。

 なにしろ、裏切ったのが支配人ですからな。隠し球も何も、すべてのレシピと原料の情報を、持って行かれてしまったのです。

 その後も、我々の店よりも品揃えが良く、安くて味のいい店が、次々と出現しました。この店の店頭から客が消えたのは、あっという間の出来事でした」

「次々と、だって? じゃあ、街にたくさん並んでいるプリンの看板は」

「クリーゼル商会と、それから四大商会の残りの二つ、アドコック商会とカルデロ商会が出しているお店のものです」

「なんだって。そいつらにも、レシピを盗まれたのか?」

「ええ。おそらくそうだろう、という推測にすぎないのですが──」

「ああ、そうだよ! 俺のせいだ。俺がバカだったんだよ!」


 黒木が急に、大声を上げた。どうしてここで黒木が出てくるんだろうと思っていると、大高は彼にちらっと視線を向けて、


「バレンティンがいなくなるのと前後して、プリシラと言う従業員も行方をくらまたのです。ユージ君は会ったことがあるのかどうか知りませんが、黒木君と親しくしていた女性でした。親しく、というのは友達という意味ではなくて、いわゆる男女のつきあい、という意味です。

 ハニートラップ、というやつですかな? 黒木君には、レシピの管理係を任せておりましたから。彼に近づくことで、情報を入手しようとしたのでしょう。実際、黒木君は彼女に問われるままに、いくつものレシピを教えてしまったそうなのです。

 そんな女性が、バレンティンの騒ぎの中で姿を消したのですから、彼女もアドコックかカルデロ、どちらかのスパイだろうと考えております。おそらく、アドコックですな。カルデロは今のところ、プリンしか売り出しておりませんから。

 しかし、仮にそうだったとしても、私たちに黒木君を責める資格はないでしょうな。スパイを支配人に据えていた、私たちには」

「えーと、新田がケガをしているのも、もしかしたらその関係?」

「はい。こちらははっきりしています。ブランドンという男が、夜間、製菓材料の置いてある部屋に押し入ろうとしたのです。それに気づいた新田君と争いになって、彼は腕にケガを負いました。

 ブランドンは、新田君とコンビを組んで護衛をしておりましたが、新田君には、レシピは知らされておりませんでしたからな。しびれを切らして、力業で盗もうとしたのでしょう」

「格闘なら、絶対にやられなかったんだけどなあ……あいつ、剣を使いやがったんだよ。剣で切られて、このザマだ。やっぱ格闘術ってのは、実戦向きじゃないのかなあ……」


 新田が悔しそうに言う。前に来た時、新田と格闘の稽古をしていたのが、確かブランドンという名前だったはずだ。あの時は、仲の良さそうな二人組に見えたんだけどなあ。新田も、ケガを負わされたことだけではなく、友人と思っていた男に裏切られたのが、悔しいんだろう。


「そうか……でもさ。そうなったら、スイーツ店の一つとして生き残るため、がんばるしかないんじゃない?」


 ぼくは、元気づけるつもりでこう言った。だけど、大高はゆるゆると首を振って、


「ユージ君が考えているより、状況は悪いのですよ。この店をオープンする前よりも、悪くなっているくらいです。

 新しい店舗を開いたことは、前にもお話ししましたな。その新店舗も、ここと同じように開店休業状態になってしまっておるのですが、それらの店舗を開くために、かなりの資金を投入してしまったのです。

 当初、上がっていた利益は、ほとんど開店準備に回しましたから、手元にはほとんど現金がありません。何か新しい事業をおこそうにも、その元手がありませんし、賃金が払えないために、せっかく集めた従業員もいなくなってしまいました。八方塞がりです。ですが……」


 大高の声は次第に小さくなって、最後には独り言のように、ぶつぶつとつぶやいていた。ああ、それで誰も、厨房にいなかったのか。


 お金、か。僕の手元には、それなりにまとまったお金はある。だけどこれは、ぼくが文字どおりに命をかけて、勝ち取った賞金だ。おいそれと渡すことはできない。

 それに今の話だと、このお店は半分以上は潰れたようなもので、しかも本人が言っているように、将来の展望も見えていないらしい。たとえお金を貸したとしても、店が復活して、貸したお金を返してくれるようになるとは思えなかった。

 レシピがなくなってしまったら、ぼくにはこの菓子店を助けられるようなアイデアは、何もなかった。それでも、この四人の様子を目にすると、こう尋ねるほかなかった。


「じゃあ、これからどうするんだ?」

「……ですが、私には策がある。以前から考えていた、秘策があるのです」


 大高の独り言は続いていた。そして、その声が大きくなったかと思うと、彼はいきなり立ち上がって、ぼくの両手をがしっと握った。


「ユージ君、お願いがあります。我々を、イカルデアまで連れていってくれませんか?」



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