虹売り

quark

虹売り

 古今東西、男の職業に就いた者は彼以外に誰もいないだろう。


 彼は虹を売る職業「虹売り」をしていた。元々彼は魔法使いだった。別の世界に居たのである。それがどういうわけかこの世界に飛ばされてしまって、早五年が経った。異世界ではそこそこ名の知れた魔法使いだったが、こちらに来てからは虹を架ける魔法しか使えなくなっていた。それでも、虹には一定の需要があるようで、今日も彼には仕事の予定が入っていた。


 依頼人はいかにも仕事が出来そうな若々しい男性で、クリスマスの夕暮れに虹を架けてプロポーズの演出をして欲しいとのことだった。虹売りは今まで恋をした事も無いので、そういうものかと受け入れて請け負ったのだ。日曜日の平和で蒼い空に、不満気なぼやきが吸い込まれていった。


「まったく何でこんなことしてんだか」


彼は、錆びた自転車のペダルを漕ぎ続ける。彼がこの世界に来て一目惚れした乗り物だ。籠につけてある古びた紙には「夢売ります」の文字が書かれていた。


 どれぐらいの時間が経っただろう。彼の前には、街を一望できる丘と一組のカップルがいた。夕焼けが丁度街の向こうに沈んでゆく様子が確認でき、彼を仕事が出来そうだと評価した虹売りの判断が間違いでは無かったことを証明していた。辺りには、ロマンチックな雰囲気が流れ、女性がうっとりとした目付きで依頼人の精悍な顔を見つめる。


 虹売りは、虹の必要は無いと感じながらも、虹を架けた。二人は虹には目もくれず彼らの世界に没頭していた。依頼人がポケットから出した指輪を、女性が喜んで受け取った。仕事はきっちりやったし、虹売りは二人を見届けるとその場を立ち去った。


 暮らしてゆけるだけの給料は貰えているつもりだが、社会貢献している気のしない仕事に、この頃は自問自答の日々が続いていた。明日は隣の県で仕事が入っていた。若い女性からの依頼だ。病院で寝たきりの祖父も、窓に大好きだった虹が架かれば意識を回復するのではないかという、ファンタジーな物だった。


 向こうの世界では、宿を作る位造作も無いことだったが、こちらに来てからは、ホテルを手配しなければならない。大仕事をしたわけでも無いが、彼はどこか疲れた顔で、近くにあった安めのホテルを目指して自転車を走らせた。ベッドに寝転びながら、メールを確認すると、また依頼が入っていた。明々後日のものとはいえ、なかなかの距離があった。逡巡した後に承諾のメールを送って眠る。最近は、夢に出てくるのもこちらの世界のことが多かった。


 早々にホテルを出て、余命幾ばくも無い老人がいる病院へ向かう。年末に向けて浮き立つ世界の中で、その灰色の棟だけは現実を放ちながら屹立していた。入口のところで十代後半と思われる少女が立っていた。血のような深紅のマフラーが目立っていた。虹売りは彼女と挨拶をして病室に向かう。小さかったが個室だった。


 無機質な部屋の中を漂う死の雰囲気に彼は一瞬顔を顰めた。彼がまだ幼い頃、病気で祖母が死んだ時を思い出した。魔法で治療が出来たはずなのに、どうして断ったのだろう。今でもたまにそれを考えては、答えを出せないでいた。


「もう何日も寝たままなんです。喋りたいことはあまり無いけど、このままお別れするのは寂しくて」


少女の赤いマフラーは、部屋の中で異彩を放っていた。


「今日は長年飼っていた犬の命日で、祖父も行ってしまうのではないかと怖いんです」


彼女の眼には涙がうっすら膜を張っていた。一方、虹売りの方は少し驚いたような表情である。


 彼は一旦、彼女を病室から退出させることにした。彼女は一瞬訝しんだが、必要な動作だからと説明すると、納得したのか素直に部屋の外で待機した。いつものように彼は虹を架ける。病室の窓大きな虹が映った。その時だった。窓際に光の粒が集まって、やがて一つの形を為し、老人の枕の傍に座った。


 異世界から彼がやって来たとき、虹の魔法だけが残ったのは偶然ではない。彼が扱える魔法の中でも最も強力なものだったからだ。動物があの世へ旅立つとき、虹の橋を渡ると言われている。虹の魔法はそれを利用して、一時的に獣を蘇生させる能力を持つものだった。この世界でも、唯一命日にだけはその効力を発揮した。


 ぽおっと光るかつての愛犬が、老人の顔を舐め続ける。生前はこのようにして主人の目を覚ましていたのだろうか。やがて、老人の目が微かに開いたのを見ると、安心したように光は空気中へ霧散していった。虹売りは部屋を出ていき、少女に入るように促す。虹は既に消えていたが、老人が彼女の方を見つめたのを見て、そんなことは頭から抜け落ちたようだ。思わず泣いた彼女の頭を、老人が優しく撫でた。


 仕事を終えた虹売りは、明後日の依頼人のもとへ錆びた自転車を漕ぐ。かなり距離があるので体力が保つか怪しい。


「まったく何でこんなことしてんだか」


そう言った彼の表情は冬の空に負けない位晴れ晴れとしていた。

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