月の器

ね子だるま

1 花鶏

第1話 月

 山田幸はその日、生まれてはじめて家出した。


 高校2年、最後の大会だった。

なんとか練習時間を捻出し、2年で念願の女バスのレギュラーに残れた。

母にも頼み込み、大会だけは最後まで出られるように予定を調整してくれた…………筈だった。

大会の途中、幸は顧問に呼び出された。

連れられた部屋には6歳の啓太が、弟がいた。

どうして、なんで、眼の前がチカチカした。

「おねえちゃん」

幸を見た啓太は具合が悪そうで、シャツの前には少し吐瀉物がついていた。

「お、おか……母は…………?」

顧問はバツが悪そうに告げた。

「仕事にどうしても行かなくてはならなくなって、家に連れて帰って欲しいと……その」

ああ、啓太がおねえちゃんの大会を見に行きたいとでも言ったのだろう。最近風邪気味だからだめだよと何度も言っていたのに。

母にも来るなと言っていたのに。

「済まない……山田。本当なら預かりたいんだがこの通りだし、救急を呼ぶにもお母さんは行ってしまってな……副顧問の河頭かとう先生が一緒に付き添うから……」

視界が涙で歪んだ。

山田幸の青春は、その日終わった。



 山田家は母子家庭だった。

 幸の父親は早く事故で他界し、6年後に啓太の父親と母は再婚したが、父親らしいことをすることもなくある日男は家のお金を持って消えた。その日、啓太が産まれた。

 慰謝料は男の実家が建て替えたと電話で話しているのを聞いたが、母は泣いていた。

 母は実母と仲が悪く、実家には頼れないといつも言っていた。幸が祖母に会ったのは一度だけ、母の背中越しの記憶しかない。

 幸は啓太が産まれた頃には小学校高学年だったし、母は毎日泣いていた。何が起こったのかは淡く理解していた。

 母は男が逃げてから更に仕事にのめりこんだ。辛く悲しい記憶を紛らわすにはそれくらいしか浮かばなかったのか、子の為か、幸は泣き腫らす母を毎日慰め、弟の世話に明け暮れた。

 昼はシッターさんに預け、母が迎えに行き帰宅した幸と世話をする。

 中学生の頃は帰宅部だった。教師も事情を話すと仕方ないなと言っていた。なにが、何故仕方なかったのか、今でも良くわからない。

 幸は学校に真面目に通ったし勉強も頑張っていた。

公立でなるべく良い高校に受かり、高卒で就職しようとそればかり考えていた。


 しかし、高校で幸はバスケに出会ってしまった。

中学の授業ではできなかったバスケは、本当に楽しかった。

 公園でお兄さん達が遊んでいるのは見たことはあったが、実際やってみて手首の微細なスナップで飛んでいくボールがリングを潜る感覚に幸は魅了された。

 高校だけだから、啓太も幼稚園で少し長く預かってもらえるしと説得すると母は仕方ないわねと笑っていた。

そんな母に恩義も感じていた。


 帰宅した母に幸は爆発した。

 今までバスケ以外でワガママを言ったことはなかった。成績は上の中を維持していたし、家事も小学生の半ばから殆ど幸がしていた。誕生日やクリスマスにおねだりをすることもない。おりこうさんな良い子でやってきた。

 高校でだって練習を早上がりして啓太を迎えに行った。身体が弱い啓太が熱を出せば練習を休み、技術書を読んだり学校の勉強をしながら世話をしていた。アルバイトは啓太のこともあり長期休暇に短期の物だけやっていた。

1年はレギュラーに残れず、3年は高校の方針で大会に出られない決まり。

幸には今年の大会しかなかった。

 結局、幸の抜けた穴は補欠の後輩が入り、大会は準優勝だったらしい。上の大会に行けるのは地区大会優勝の1校。終わりだった。

 ウィンターカップは毎年出場すらしない母校には地区大会準優勝おめでとうと垂れ幕が飾られるのだろう。



 幸は夜の公園で涙を拭う。

自分の人生がなんのためにあるか分からなくなっていた。

幸のような子供をヤングケアラーと言うのだろう。

 幸は泣きながら自嘲する。小さい啓太がよく幸をママと呼んできて、ぶってしまいそうになるのを必死に耐えてきた。その末の仕打ちがこれか。

 月を見上げる。満月の白金貨は影がくっきりできるほど辺りを照らしていた。

幸はこれからどうしようと立ち上がる。制服で荷物も持たず出てきてしまった。いや、携帯だけはスカートのポケットに入っている。

中学から親しい麻里なら一晩泊めてくれるかもしれない。

幸が母からの着信履歴を無視して時間を確認すると時間の表示がおかしかった。

■■:■■(■)

「どこかにぶつけたかな……?」

一歩前に進むと電波も消えた。慌てた幸は一歩後ろに下がり

「え」

そこで足元の感覚が消えた。

否、正確には一瞬足首を掴まれた気がして、そのまま全身の感覚が消えたのだ。

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