第5部 第1話
鈴木雄二にとってバックミラーに小さく映る後席の幼い少女の姿は非現実的に映り、実際の距離より遠くにあるようで、少女の隣にいる麻季の姿は鮮明に映っているのに、奈緒の姿はぼやけていた。
おまけに奈緒は、自分が無理矢理引き離された男の子を求め、幼い表情を歪めて泣いていたから、彼自身が渇望し期待していた怜菜の面影をそこに求めることはほとんど不可能だった。
それは奈緒が泣いているせいだけではないのかもしれない。彼自身が怜菜の顔を忘れているせいなのかもしれなかった。
あれだけ彼女のことをないがしろにしたのだから、これは彼自身に与えられた罰なのかもしれなかった。怜菜が亡くなる前に一度きちんと彼女に向き合い、自分の心ない行動を謝れたらよかった。
これで何度になるかもしれない後悔の苦い味を、彼は再びかみしめた。怜菜が死んでしまった今では、もうかなうことのない夢だ。
麻季が久しぶりに彼の前に現れたとき、彼はとまどった。
最後に麻季に会ったのは、怜菜の葬儀のときだった。そのときは、麻季の呆然とした表情を彼は無感動に眺めていた。正直に言えば彼は、怜菜の死と彼自身が知らない間に父親になっていたことに混乱していて、麻季のことどころではなかったのだ。
「気持ちはわかるけど、現実問題として君が一人で奈緒ちゃんを育てるのは不可能でしょう」
怜菜の兄である太田靖はそう言った。
もともと雄二は彼とは気が合わなかった。怜菜との結婚のあいさつに怜菜の実家に行ったときから、靖は彼に対して友好的とは言い難かった。溺愛する自分の妹の相手が雄二であることが気に食わなかったのだ。彼は自分の友人で、司法修習生時代の同期である弁護士を怜菜に紹介しようとしていたらしい。
ただ、怜菜の死後、自分の娘を引き取りたいと相談した雄二に対して靖が返した言葉にはリアリティがあった。こんな自分が一人で娘を育てるなんて、彼の勝手な妄想にすぎない。だから、彼は自分の娘を手元に引き取ることを諦めた。
その後、麻季が横フィルのスタジオで練習中の彼を訪ねて来て、自分が奈緒を引き取って育てたいと言われたとき、それもいいのかもしれないと思った。児童養護施設にいるよりは奈緒にとっていいのではないか。
ただ、奈緒人という、彼の娘と似た名前の男の子と一緒に奈緒が育つことに複雑な思いを抱いたが、そのころの彼はようやく怜菜の死から立ち直って、演奏家としてさらに脚光を浴びようとしていたときだったから、あまり深く考えずに麻季の意向に同意した。
それからの彼は順風満帆な演奏家生活の合間に、たまに怜菜を思い出し、そして怜菜と自分の間にできた娘は今どうしているのだろうと考えることもあった。
そして、性格に多少難がある麻季だけでなく、つまらない男だが常識的で穏やかな博人が、麻季と一緒に奈緒を育てているのなら安心だろうと思い直した。
それなのに。
「奈緒の親権を博人君と争っているの。一緒に戦って」
突然、雄二の前に現れた麻季は、なんの説明もなくためらうこともなく雄二にそう言い放った。
「どういうこと」
「博人君と離婚調停中なの。それはいいんだけど」
いいのか。雄二の勘違いでなければ、麻季は博人に強く執着するほど、強い愛情を抱いていたはずだ。
「奈緒は博人君には渡さない。怜菜には悪いけど、奈緒は博人君と奈緒人のそばには置いておけない。だから一緒に戦って」
「戦うって?」
「太田先生に相談したら、実の父親が奈緒の養育を望んだら有利になるって言ってたの」
「太田先生って?」
「わたしの弁護士。怜菜のお兄さん」
「靖さんのこと?」
「そうよ。先輩も真面目に考えて。自分の娘のことでしょ」
「何があったんだよ」
「博人君と離婚するの。彼はわたしが子どもたちを放置して浮気してたって思ってて、多分許してもらえないから」
「浮気したの?」
「ほら、先輩に紹介してもらった来栖さんていたでしょ?」
「ああ、あいつね」
「あの人に口説かれてたって知ってた?」
「いや」
「博人君、わたしが子どもたちを放って、来栖さんと浮気して遊び歩いてたって思ってるのよ」
「実際してたんじゃねえの?」
「してない。でもそれはどうでもいいのよ」
「どうでもいいのかよ」
「とにかく奈緒の親権を争いたいの。先輩も付き合って」
奈緒。自分の娘。
彼は一度しか奈緒と会ったことがない。あれは怜菜の通夜の日だった。離婚してもう怜菜の親族ではない彼を、靖は親族席に呼んでくれた。そのとき、靖と怜菜の母親が大事そうに抱いていた小さな女の子が彼を見て笑い、彼の方に手を差し出してきた。
胸がいっぱいに初めて感じる感情があふれた彼が、おずおずと奈緒に手を伸ばすと、怜菜の母親はさりげなく背を向け、奈緒を彼から引き離したのだった。
気持ちはわかった。元義理の母は、娘の死や孫娘の不幸の原因を浮気性の彼に求めているのだろう。実際そのとおりなのだ。
怜菜の母は奈緒を引き取って、自分の手元で育てたいと思っていたようだが、実際は無理だった。彼女自身も企業案件を専門とする多忙な弁護士だったのだ。
奈緒の兄の靖も、妻が娘を出産した直後にその妻を失っていたから、弁護士をしながら自分の娘の有希を育てるだけで精いっぱいだった。
結局、これだけ裕福な一族なのに、怜菜の遺児は児童養護施設に入所することになったのだ。
その後、奈緒は結城と麻季に引き取られた。横浜の練習スタジオにいた彼を訪ねてきた麻季に、一方的にすごい剣幕でまくし立てられ、彼は同意書に押印させられたあとで。
「一緒に戦うって具体的には何をすりゃいいんだ? 奈緒を引き取れたにしたって、俺、海外演奏もあるし娘を育てるなんて無理だよ。来栖と何もなかったって言えば、結城だって許してくれるんじゃねえの」
「それはもう無理。だから先輩、わたしと結婚して。そうして奈緒の親権を取って、わたしたちで奈緒を育てましょう」
「結婚? おれと君が?」
「そう。先輩、わたしのこと好きでしょ? ずっとわたしと結婚したかったみたいだし」
大学時代にものにできなかった君を、結城から奪って寝てみたかっただけだって、本音を暴露してもよかったが、今さらそれで、昔振り回された溜飲を下げてもしかたがない。
それよりも彼が心を動かされたのは、奈緒と一緒に暮らせるかもしれないという、考えてもいなかった期待が急に彼の胸の中で膨らんだからだ。
「親権ってそんなに簡単に取れるのか。今だってあの子は、別に問題なく結城の実家で育ってるんだろ」
「わかんない。でもやってみる価値はあるよ。というか、奈緒のためにもやらなきゃいけないの」
「結城の家で結城の息子と仲良く育った方がいいんじゃねえの」
内心では、奈緒と暮らせるかもという気持ちが胸中にあふれてきたけど、一応冷静になって彼は尋ねた。
「それはだめ。絶対だめ。奈緒人と奈緒が不幸になるから」
「なんでだよ」
「先輩は考えなくていいよ。わからないと思うから。わたしとは結婚したくないとしても、怜菜の忘れ形見とは一緒に暮らしたいでしょ」
「それはまあ」
そう答えざるを得なかった。
「じゃあ決まり。来週、太田さんのところに相談にいくからね」
「靖さんにか」
「もう正式に依頼してあるの。あなたは、血の繋がった自分の娘を引き取りたいって主張してね」
確かにそれは虚偽の主張ではない。だが、結城夫妻は奈緒と養子縁組をしている。自分の存在は、麻季が奈緒の親権を主張する上で有利に働くのだろうか。
それでも彼にとって、奈緒と一緒に暮らせるという期待は、彼の胸の中でもうどうしようもないほどに大きくふくらんでいた。
「わかった」
この新しくちぐはぐな家庭を築くにあたって、鈴木雄二の果たした役割はたいして多くはなかった。
この頃から進められていた麻季の離婚と奈緒の親権を巡る民事調停は、麻季本人と太田弁護士によって行われていて、彼自身の役割はこの先に来るであろう出番まで伏せられていた。
「不利になりそうになったら」
麻季は彼に言った。
「あなたと再婚する、あなたが実の娘を引き取りたがっているという主張をするの」
「最初からそう主張すれば手っ取り早いんじゃねえの」
「それじゃあ、向こうに準備する時間を与えちゃうじゃないの。博人君が再婚して養育環境が整ったとか言い始めるまで待つのよ」
「結城って再婚するの?」
「わからないけど、理恵先輩とかが寄ってきているんじゃないの」
「麻季はそれでも平気なのか」
雄二の胸中には、今では亡くなった怜菜と娘の奈緒しか棲んでいないから、彼は平静に麻季に聞けた。
「平気じゃないよ。なんで博人君をあんな女なんかに」
「なあ」
「なによ」
麻季は雄二が珍しく真顔になったのを見て、彼に向き合った。
「俺が言うのもおかしいけどさ。君はちゃんと養育放棄を結城に謝って、あいつと復縁した方がいいんじゃねえの」
「そうしたら先輩は奈緒と一緒に暮らせないよ」
「麻季は、おれのことなんか気にするような女じゃねえだろ」
「そうね」
麻季はもうこの会話には興味がないとでも言うように立ち上がった。
「前にも言ったけどもう無理なの。で? どうするの」
「やるよ」
彼はそうするしかないかのように諦めた様子で答えた。
「うまくいけば娘と暮らせるんだもんな」
「そう」
麻季はぱっと花のような微笑みを見せた。
「それでいいの」
その後、離婚調停は麻季と太田弁護士によって進められていたようだが、細かい点は彼には知らされなかった。麻季が彼に求めたのは、彼が借りていた新築の快適な独身用のマンションを退去し、郊外に子育てに最適な一戸建てを手に入れることだった。
「おれのこと金持ちだと思ってる?」
「違うの?」
麻季が無邪気な口調で言った。
雄二は思わず顔をしかめた。
「違うよ。だけど、まあローンは組めると思うけど」
「そうだよね。あれだけテレビに出てればそれくらいはできるでしょ」
「まあね」
「音楽と関係ないテレビだけど、ああいうバラエティの方がギャラがいいんだって、太田先生が言ってた」
「金目当てじゃないよ」
「演奏会を地道に続けるよりファンが増えるものね。あなた見た目はいいから」
麻季は無邪気そうに言った。その言葉に彼はむっとした。
「おれは演奏家だからな。演奏以外で増えるファンなんかいらないね」
「いいじゃない。コンサートに来てくれてCDも買ってもらえるんだから」
再び彼は反論しようとしたが、諦めた。
「いつ行く?」
「何が」
「住宅展示場がいいかな。それとも不動産屋さんかな。わたしもお金出すよ。パパが再婚するなら援助するって言ってるの」
彼はため息をついた。
「その前に入籍しといた方がいいじゃね」
「だめ。それは奈緒の親権が取れてから」
「まさか結婚式やるとかって言わねえよな」
「やんないよ、そんなもの」
奈緒の第二の、いや奈緒には記憶はないが、怜菜との短い二人暮らしを数に入れれば第三の家族が、こうして始まった。
交番から連れてきた奈緒は、奈緒人の姿を求めて泣き叫んだが、やがて疲れたのかおとなしくなった。
家に着くと、麻季に手を取られされるがままに車から降りて、買ったばかりの住宅に入った。
「今日はもう遅いからお風呂に入っておねんねしようね」
麻季が優しく奈緒に話しかけたが、表情を凍らせたまま奈緒は返事をしなかった。
雄二の胸中に自分の実の子に対する感情があふれた。彼はひざまづいて娘の背の高さから彼女の顔を見た。涙があふれた。
「ママとお風呂に行っておいで」
ようやく彼は言葉を振り絞って出した。一瞬、きょとんとした奈緒は、何を思ったのか彼の頭を数回なでた。
その成り立ちからひどく無理のある家庭だと雄二は思っていたのだが、予想に反してこの家族の生活はとても順調だった。
一番心配していたのは、奈緒人と別れさせられた奈緒の反発だったが、意外に早くここでの生活に奈緒は順応していった。まだ幼く与えられた条件の中で生活せざるを得ないということもあっただろうが、
「親権の調停に有利になると思ってあなたと結婚したんだけど」
麻季がある日感心したように言った。
「奈緒がこんなにあなたに懐くとはね。意外だった」
「実の父親だからそういうこともあるんじゃね」
内心は踊り出したいほど嬉しかったが、それを押さえて雄二は答えた。
「あなたも人が変わったよね。わたし、結婚したときに好きに浮気していいって言ったじゃない? でも全然そんな素振りもないし、仕事が終わったら真っ先に奈緒のところに駆けつけてるし」
実際、奈緒は麻季と雄二に懐いていた。あの雨の日に叫ぶように泣き叫んだのが嘘のように。
「なあ」
「なに?」
「おれのこと、本当の父親だって奈緒に言わなくていいのか」
麻季がそれまで見せていた柔らかい表情を硬くした。
「だめに決まってるでしょ。奈緒人と血が繋がっていないことが奈緒にばれちゃうじゃないの」
「最初はさ。麻季が奈緒を引きとたのって、怜菜への嫌がらせじゃないかって思ってたんだよね」
「へえ。意外といろいろ考えているのね」
麻季が感心したように雄二を見た。
「でもさ、どうも違うみたいだな。君は怜菜に贖罪しているように見える」
「どうでもいいでしょ。とにかくわたしたちは奈緒を幸福にするの。この子が結婚とかでこの家を出て行くまで」
「結婚ねえ。君はうるさく相手を詮索しそうだなあ」
「しないよ。あの子でなければ」
雄二はわざとらしくため息をついてみせた。
奈緒には今よりもっと幼いときの記憶があった。仲のいい兄の記憶や、やさしい父親の記憶が。そして父親の妹、つまり彼女の叔母さんのそれもあったが、叔母さんは記憶を残しただけでなく、プレゼントを残してくれていた。
キッズ携帯。スマホ型の軽いそれを、奈緒は脱衣所で服を脱がされたとき、麻季が目を離したすきに壁際のバスケットに積み重ねられたバスタオルのすきまに隠した。風呂上がりには着替えさせられ、新しい子ども部屋に連れて行かれたが、そのときも運良く隠しておいた携帯と、付属していた電源のケーブルを取り出して、ポケットに隠すことができた。
以後、彼女は密かにスマホを維持してきた。普段は机の中に隠し、一日一回は着信履歴を確認し、バッテリーが切れかければ充電した。もっとも誰からも着信もメッセージも来なかったが。
そればかりかメモリーには電話番号もメールアドレスも一件も登録されていないので、どこかに電話をかけることすらできなかった。
ただ、彼女が小学生になる頃には、その携帯が生きているということは、叔母さんが回線契約を維持してくれていることだと気がついた。そしてそれは、少なくとも叔母さんは彼女の存在を忘れていないということだ。別れさせられた以前の生活と、細々とではあるものの、この携帯でつながっているのだった。
当然のことだが、最初、奈緒は麻季を警戒し怖がっていた。奈緒人と二人で自宅に放置された記憶はまだ生々しく残っていた。だから最初にこの家に連れて来られたときは、感情を押し殺し言われるままに必要最低限に声を出すだけで時間を過ごしていた。
意外なことにこの家で暮らすようになると、奈緒は固く凍りついていた心が次第にやわらく解けていくのを感じた。それは最初は「パパ」と呼ぶように言われた男性のおかげだった。
奈緒は、彼が自分に向けている親しげな感情が嘘ではないと思った。とにかく彼は奈緒と仲良くし、彼女のために何かできることが嬉しいといった様子を隠さなかった。
本当の父親でもないのに、この人はなんでこんなに自分に親切にするのだろう。彼女は今まで知らなかった大人の人の好意に戸惑ったが、やがてそれに慣れ、この人と仲良くなった。わがまますら言えるほどに。
そしてそうなると、奈緒は自分にぶつけられている麻季の好意と愛情にもほだされてきた。ひどい母親だった麻季は、奈緒人が消えた今、奈緒にとってやさしく頼りがいのある母親に変貌した。当初混乱していた奈緒は、あの自宅に放棄されていた日々は、何かの間違いだったのではと考え出していた。
子どもにとって親は、それが本当の親でなくても、世界の全てだった。そして、奈緒にとって辛いことは一つだけしかなく、それを除けば新しい世界は心地よい世界だった。
過去はともかく今この家にいる彼女の実の母親は、以前とは違い心底から奈緒を慈しんでいた。最初はいろいろ疑っていた奈緒も、結局麻季の真意を疑うことができなくなった。それほど麻季は奈緒のことを大切にしていた。
新しい父親も、ひどく懐かしむような、奈緒の後ろに誰かを探しているような視線を向けてはいたのだが、幼い奈緒にはそこまで理解できず、本当の父親より自分に優しいなと思っていた。
新学期を待って奈緒は、もう通わなくなっていた前の公立幼稚園から富士峰女学院の系列幼稚園に転園した。その頃になると、めったに辛い過去を思い返すこともなくなり、奈緒はもうすっかり新しい家庭に馴染んでいたので、幼稚園に通い直すにはいいタイミングだと、麻季は考えたのだ。
入園の面接と入園初日は、奈緒は麻季の車で、見晴らしのいい丘の上にある、富士峰女学院のキャンパスの片隅にこぢんまりと立っている幼稚園に送られた。
二日目から自宅近くの集合場所から園の送迎バスに乗り込んだときは、幼いながらもなにか新しい世界に冒険に出るような新鮮な気持ちを覚えた。
車窓の外で手を振る麻季に手を振り返した奈緒は、バスのシートに沈み込むように座った。彼女はいろいろな意味で清々した気分だった。
確かに最近は、奈緒はあまり暗い気分になることはなくなっていた。薄情と思われるかもしれないけど、本当の父親や奈緒人のことを思い出すことも減ってきていた。
瀟洒な家の可愛らしい壁紙とインテリアの、日当たりのいい子ども部屋。本当のパパでないことを忘れさせてくれるほど、奈緒に優しい父親。厳しいときもあるが、普段は慈しむように優しいまなざしで奈緒を包んでいるママ。
たしかにこの家庭で奈緒はあまり不満もなく充足していたのだが、同時にそれは平穏すぎて退屈であることと裏腹でもあった。
だから、奈緒は毎日幼稚園に通い友だちや先生と過ごすようになったこの日々が楽しくてしかたなかったのだ。
一番最初に仲良くなったのは、有希だった。
奈緒の自宅を含め数カ所の住宅地を廻って生徒を乗せたバスは、海を臨む山手の丘に続く坂道を登っていく。百年前の洋館とそれを取り巻くケヤキが等間隔に植えられた街並を抜け、丘の中腹の公園の真ん中を貫く道路を抜けると、比較的狭い敷地の中に、高校、中学、小学校、幼稚園の校舎がひしめき合っている富士峰女学院山手キャンパスに到着する。
入園して数日経ったとき、スクールバスに乗って幼稚園の瀟洒な園舎の前に着いたときだった。奈緒は、さっきから隣の通路側の席に座っている子が、極端にうつむいている姿勢なのを不審に思っていた。
バスが幼稚園に着いたのに、その子は席を立とうとしなかった。これでは奈緒は降りられない。視線をバスの前方の先生に向けたが、先生は降車する子たちの世話に忙しくこちらを見てくれない。それで奈緒はその子の肩に手を置いて話しかけようとしたその瞬間、その子は吐き出した。
その子の吐瀉物は、その子の方にかがんでいた奈緒の制服にも降り注いだ。吐いた子は驚いて泣き出したので、バス前方にいた先生が騒ぎに気がつき、降車の順番を待っている子たちをかき分け二人の方にやってきた。
「有希ちゃん大丈夫?」
先生はそう言って有希を慰めたが、取り合えず吐いたものや汚れた服の後始末をしていたので、しくしく泣いている有希と対峙しているのは奈緒だけだった。とりあえず奈緒はおずおずと泣いている有希の背中を撫でた。
「何ていうお名前なの」
いきなり奈緒に話しかけられた有希は驚いて、気持ち悪いことすら忘れたようだった。
「ゆき」
「わたしは奈緒って言うの。ゆきちゃん、泣くのやめなよ」
「だって」
有希が小さな手で涙を払った。奈緒は汚れることには構わずに有希を抱いた。有希が泣き止んで奈緒の顔を見上げた。
「うん」
バスが幼稚園に着いたとき、先生は有希を着替えさせようとしたが、奈緒を見るとそのスモックも汚れていた。どういうわけか、奈緒を見た先生は微笑んで二人を連れてシャワールームに向かった。
それから二人は仲良くなった。
大田有希は靖の娘であり、つまり奈緒の本当の母親の姪にあたるわけだが、二人ともそんな事実は知らずに仲良くなった。もちろん、二人の親も奈緒と有希が友だち同士になったことは知らなかった。
普通なら、母親に対して学校行事への参加をに頻繁に求める富士峰では、友だち同士の母親もまた友だちになる。
ただ、有希の母親は既にこの世にいなかったし、多忙な父親も園に顔を出すことはなかったので、麻季が娘の仲のいい友人として有希のことを知った後も、彼女が奈緒のいとこだとは思いもしなかった。
奈緒の頭の片隅には、失われた奈緒人の姿が失われずしまい込まれていたが、この家庭に居心地のいい場所を見出した彼女は、自分が実際に存在している自分の世界を、誰にも秘密にしている奈緒人と過ごした思い出を密かに共存させることを覚えた。
奈緒人のことを忘れる気もなかったが、たとえ忘れようとしてもそうはならなかっただろう。唯おばさんの携帯が手元にある間は。
そうした一見平穏で幸せな生活を過ごしていたある日、奈緒はピアノと出会った。
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