第5話
それから二週間くらい経った土曜日の午後、僕は奈緒のピアノ教室の前で彼女を待っていた。
それはクリスマス明けの二十六日のことだった。クリスマスには陰鬱な曇り空だった天気は、今になってちらほらと降る雪に変わっていた。
臆病な僕は、付き合いだしたばかりの奈緒に対して、イブを一緒に過ごそうと持ちかけることはできなかった。でも誘わなくて正解だったようだ。
富士峰では、イブの日とその翌朝は校内の礼拝堂で礼拝と集会があるのと彼女は僕に言った。
イブの日のデートに勇気を出して奈緒を誘っていたら、結局僕は彼女に断られることになっていたはずだ。
でもその話を聞いた渋沢と志村さんは笑い出した。
「何だよ。そんなのおまえに誘ってもらいたかったに決まってるだろ」
「だって学校の行事があるからって」
「そこで、じゃあ何時になったら会える? って聞けよアホ」
「そう聞いたらどうなってたんだよ。勝手なこと言うな」
僕は二人の嘲笑するような視線に耐え切れなくなって言った。
「まあまあ、落ち着きないさいよ」
志村さんが会話に割って入った。
「落ち着いているって」
「でもあたしも明の言うとおりだと思うな」
「どういうこと?」
「奈緒人君が彼女を誘っていれば、学校行事はサボるとかさ。そこまでしなくても、夕方には時間がありますとか絶対言ってたよ、奈緒ちゃんは。むしろ期待してたんじゃない? 可愛そうに」
志村さんにまでそう言われてしまうと、この手の話題には疎い僕にはもう反論できなかった。
「じゃあ二十六日とかに、俺たちと一緒に遊びに行くか?」
渋沢が僕と志村さんを見た。
「それでも何もしないよりましかもね」
渋沢と志村さんが目を合わせて笑った。
そういうわけで、僕はクリスマスの日の夜、勇気を振り絞って奈緒に電話した。ピアノ教室が終った後に、渋沢と志村さんと四人で遊びに行かないかと。
あいつらが言うように、奈緒が僕にクリスマスに誘われなくてがっかりしたのかどうかはわからないけど、そのときの僕の誘いに奈緒は電話からでもわかるくらい弾んだ声で了解してくれた。
「はい。大丈夫です。絶対に行きます」
「じゃあ明日の土曜日、君の教室が終わる頃にまたあそこで待ってるね」
「お迎えに来るのが面倒だったら、どこかで待ち合わせてもいいですけど」
奈緒が僕に気を遣ったのかそう言った。
「わざわざ来ていただくもの申し訳ないですし」
渋沢や志村さんに言われなくても、さすがにこのくらいの問題には僕だって正しく回答することはできた。
「奈緒ちゃんさえよかったら迎えに行くよ。その方が、渋沢たちに会うまで君と二人で一緒にいられるし」
「・・・・・・うん」
やはりあいつらの言っていることにも一理あるのだろうか。奈緒の声がやわらく響くのを聞きながら僕は思った。
「すごく嬉しいです。奈緒人さん」
誘えばここまで直接的に愛情表現をしてくれる奈緒に対して、僕は臆病すぎるのかもしれない。
「じゃあ待ってます」
「うん」
「・・・・・・あの」
「どうしたの」
「明日は教室の前で待っていてくださいね。前みたいに離れたところで待っていたらだめですよ」
僕は面食らった。
「どうして? というか堂々と教室の前で待つのは何か恥かしい」
「恥かしがらないでください」
奈緒が真面目な口調になって言った。
「わたしたち、お付き合いしているんですよね?」
「う、うん」
「じゃあ教室の目の前で堂々と待っていてください。わたしも教室のお友だちに、わたしの彼氏だよって紹介できますから」
「うん・・・・・・」
「それに・・・・・・いつも一緒に帰ろうって誘われる先輩がいるんですけど、奈緒人さんが教室の前で待っていてくれればその人にもちゃんと断れますし」
「わかった」
僕は戸惑ったけど奈緒がここまできっぱりと言葉にしてくれているのだ。恥かしいとか言っている場合ではなかった。
「そうするよ」
そういうわけで、僕はちょうどピアノ教室が終る時間に教室の前に立っていた。その建物の正面で待つのは目立ちすぎだと思ったけど、奈緒との約束は守らなければいけない。
落ち着かない気持ちが、次第につのって行った。胃が痛い感じもする。
そうやって待っていると、ほかにもそこで誰かを待っている人がいることに気がついた。
金髪とピアス。強面そうな顔。
彼は明らかにこの閑静な住宅街の中では不自然な存在だった。彼のことを僕は以前に見かけたことがあった。
間違いない。こいつは僕の妹の前の彼氏のイケヤマとかいうやつに違いない。
でも、どうして彼がここにいるのだ。もしかして、僕と一緒でここに通っている女の子を迎えに来たのだろうか。
いくら女に対して手が早そうな外見だからといって、明日香と別れたばかりで、こんなに早く次の彼女ができているということも信じがたいし、偏見かもしれないけど、ここに通っているような真面目な女の子と彼が付き合うというのも考えづらい。
その時イケヤマが不意に振り向いたので、僕たちの視線が合った。イケヤマに強い目で睨まれ僕は一瞬ひるんだ。イケヤマとは前に一度出くわしたことがあるし、僕が明日香の兄であることを知っているのかもしれなかった。
妹も前に僕の視線にそいつが傷付いたみたいなことを言っていたし。でもイケヤマの睨みつけるような視線が絡んだのは一瞬だけだった。
すぐに彼は視線を逸らし、早足でピアノ教室から遠ざかって行った。僕はイケヤマの背中を眺めながら、いったいこいつはここで何をしたかったのだろうかと考えていた。
角を曲がって姿が消えたイケヤマの背中から目を離すと、ちょうど教室のドアが開いて奈緒が少しだけ急いでいる様子で外に出てきた。
一番先に出てくるとは思わなかったけど、さっき恥かしいからと言った僕を気にして、他の子より早くで出てきてくれたのかもしれない。
約束どおり今日は隅の方に隠れていないで、ドアの正面に立っている僕の方に向かって、奈緒は小さく手を振って小走りに近寄ってきた。そのまま奈緒は僕の腕に抱きついた。こんなどうしようもない劣等感の塊の僕の上に、天使が降ってきたみたいだ。そういう今までも何度となく考えていた感想が、再び僕の胸を締め付けた。
僕は柄にもなく抱きついてくる奈緒に向って微笑んだ。
僕が奈緒に声をかけようとしたとき、それまで奈緒の背後に隠れていた小柄な女の子が目に入った。僕と目が合ったその女の子はにっこりと笑った。
「こんにちは」
「有希ちゃん、何でいるの?」
奈緒も少し戸惑ったようにユキという子に言った。
「何でって、帰り道だもん。それよか紹介して」
「まあ・・・・・・いいけど。前にも話したと思うけど、あたしの彼氏の奈緒人さん。奈緒人さん、この子は富士峰の同級生で有希ちゃんっていうの」
「はじめまして奈緒人さん」
有希ちゃんは好奇心で溢れているという様子で、それでも礼儀正しく僕にあいさつしてくれた。
「あ、どうも」
もともと女の子と話すことが苦手な僕にはこれでも上出来な方だった。とにかく今まで奈緒とここまで普通に会話できていることの方が奇跡に近いのだ。
僕と奈緒の出会いが、彼女の言うように運命的な出来事だったせいなのかもしれないけど。
「奈緒人さん。有希ちゃんは親友なんです。学校もピアノのレッスンも一緒なんですよ」
「そうそう。それなのに最近土曜日のレッスン後は一緒に帰ってくれないし、何でだろうと思ってたら彼氏が出来てたとは」
「ごめん。でも前にも話したでしょ」
「奈緒人さん、奈緒ちゃんは奥手だけどいい子なんでよろしくお願いしますね」
有希が笑って僕に言った。
「何言ってるの」
「そうだ、奈緒人さん。親友の彼氏なんだしLINE交換してもらってもいいですか」
え? 僕は一瞬ためらった。
奈緒の親友には冷たくするわけにはいかないし、かといって会ったばかりの有希とLINEを交換することに対して、奈緒がどう考えるのか僕にはよくわからなかった。
僕は一瞬、有希に返事ができず奈緒の顔色を覗った。奈緒は心なしか少しだけ不機嫌そうな気がする。そんなにあからさまな様子ではなかったし、僕の思い過ごしかもしれないど。
それでも彼女の親友にLINE交換を申し込まれたくらいで、気を廻してそれを断る勇気は僕にはなかった。
奈緒が有希に何か言ってくれればいいのだけど、奈緒は相変わらず微妙に不機嫌そうな雰囲気を漂わせたままのすまし顔だ。
「うん、いいよ」
僕はそれ以上考えるのを諦めて、有希に返事をした。
「やった」
有希が可愛らしく言った。別に彼女に興味を持ったわけではないけど、やはりこの子も奈緒と同じくらい可愛らしい子だった。
有希にさよならを言って駅の方に歩き出した僕たちだったけど、いつのまにか奈緒の手は抱き付いていた僕の腕から離れ、僕たちは手を握り合うこともなく、微妙な距離を保ったまま歩いていた。
少し遅れ気味に僕の後からついてくる奈緒を思いやって、僕は後ろを振り向いて声をかけた。
「ごめん。歩くの速かったかな」
奈緒はそれには答えずに僕から目を逸らした。
何だと言うのだろう。仕方なく僕はまた歩き出して少しして、奈緒の方を振り返った。
奈緒は俯いたままでその場に立ちすくんでいた。
・・・・・・いったい何なんだろう。
もちろん僕にだって思いつく理由として、有希とのLINE交換が思い浮んだけど、あれは僕のせいでも何でもないだろう。
有希を紹介したのは奈緒だったし、有希がLINEの交換を言い出したときだって、別に奈緒はそれを制止したわけでもない。
正直に言えば、奈緒しか目に入っていない僕が有希とLINEを交換したのだって、奈緒の友だちだということで気をつかったからだ。
それなのに多分奈緒はそのことに拗ねている。僕は少し理不尽な彼女の態度に対する怒りが沸いてくるのを感じた。
僕は、生まれて初めてこんなに女の子を好きになったことはないといってもいいほど、奈緒に惹かれている。彼女のためなら、多少の理不尽はなかったことにしてもいいくらいに。
でも罪悪感を感じていないことに対して謝罪してはいけない。
奈緒がついてくるかどうかわからないけど、僕は再び駅の方に歩き始めた。
僕は今まで明日香に謝ったことがない。両親の再婚と母さんの愛情が半分だけ僕に向けられたことによって、妹が傷付いたことは間違いない。
そのせいで僕は明日香に散々嫌がらせをされた。多分その張本人の妹だって期待していないくらいに傷付きストレスを感じた。
でも僕はそのことで本気で明日香を責めたことはなかった。それは妹の痛みを、幼かった妹にはどうしようもなかった出来事で、彼女が傷付いた痛みを理解できたからだった。
同時に辛い思いをさせた明日香に対して、謝ろうと思ったこともなかった。確かに明日香は、父さんと母さんの再婚の結果、母さんの愛情と関心を僕に奪われたと感じ、そのせいで傷付いているかもしれない。
でも、去年両親に真相を知らされてから考えていたことだったけど、そのことに関して僕は明日香に対して罪悪感を感じる理由はないのだ。
そのこととこれとを一緒にする気はないけど、いくら奈緒がさっきのできごとで怒ろうと拗ねようと、そしそのせいで僕のことを嫌いになろうと、自分の今までの考え方を曲げる気はなかった。
僕は足を早めた。これで終るなら終わるだけのことだ。僕は確かに奈緒に惹かれていたし、彼女と付き合えて嬉しかったけど、自分のポリシーを曲げてまで彼女の機嫌を取る気はなかった。
僕はもう後ろを振り向かず、寒々とした曇り空の下を歩いて行った。やはり見慣れない街のはずだけど迷う気は全くしなかった。もう駅がその姿を見せていた。
考えてみれば奈緒には、渋沢と志村さんと一緒に遊ぼうと誘っただけで、待ち合わせ場所も待ち合わせ時間も話していない。このまま奈緒がついてこないままで、改札を通ってしまえば今日はもう奈緒とは会えないのだ。
渋沢と志村さんが僕を責める言葉が聞こえてくるようだった。渋沢なら僕のポリシーなんてどうでもいい、一言奈緒に謝るだけじゃないかと僕を責めるだろう。そして志村さんは、取り残された奈緒ちゃんが可哀そうとか言うに違いない。
僕は息を呑んだ。これが初めてできた僕の彼女との別れになるかもしれない。
今からでも遅くない。振り返って奈緒のところまで行ってごめんといえば、僕には二度とできないかもしれない可愛い彼女と仲直りできるかもしれない。
でも僕はそうしなかった。僕が改札口から駅の中に入ろうとしたその時、背後に軽い駆け足の音が響いて、それが何かを確かめるよリ前に僕は後ろから思い切り抱きつかれた。
「ごめんなさい」
泣き声交じりの奈緒の声が僕の顔の間近で響いた。
「奈緒人さん本当にごめんなさい」
僕は抱きつかれた瞬間に力を込めてしまった全身を弛緩させた。
「・・・・・・どうしたの」
僕の背中に抱きついた奈緒が泣きじゃくっている。
「ごめんなさい。怒らないで・・・・・・お願いだからあたしのこと嫌いにならないで」
「どうしたの」
さすがに僕も驚いて繰り返して奈緒に聞いた。
「嫌な態度しちゃってごめんなさい。あたしが悪いのに」
僕はこの時ほっとした。それまで僕を縛っていた頑な思いが解きほぐされていくようだった。
僕はどうして自分のほうから奈緒に手を差し伸べてあげられなかったのだろう。僕の方こそこんなにも奈緒に執着しているのに。
僕は振り向いて奈緒を正面から見た。
「・・・・・・怒ってないよ。僕の方こそ辛く当たってごめん」
明日香に対する僕の態度と比べると、ダブルスタンダードもいいところだった。でも気がついてみると、僕もピアノ教室から駅までの短い距離を歩く間に相当緊張し悩んでいたのだ。
僕は改めてそのことに気がつかされた。
奈緒は正面に向き直った僕にしっかりと抱きついた。
「有希ちゃんは親友だし、わたしの方から奈緒人さんに紹介したのに」
やっぱり地雷はそこだったようだ。
「有希ちゃんとLINE交換している奈緒人さんを見てたら嫉妬しちゃって。そしたら何か素直に振る舞えなくなって。こんなこと初めだったからどうしていいかわからなくて」
「もういいよ。わかったから」
奈緒は涙目で僕の方を見上げた。
「僕こそごめん。有希さんとLINE交換していいのかわからなかったけど、奈緒ちゃんの友だちだし断ったら悪いと思ってさ」
「・・・・・・本当にごめんなさい」
「いや。僕こそ無神経でごめん。あとさっきは先に行っちゃてごめんね」
「そんな・・・・・・奈緒人さんは悪くない。わたしが悪いの」
週末のせいか、その時間には駅前には人がたくさんいた。そんな中で抱きあっていた僕と奈緒の姿は相当目立っていたに違いない。
僕は奈緒の肩に両手を置いた。
周囲の人混みが視界からフェードアウトし、意識から消えた。
奈緒がまだ涙がうっすらと残っていた目を閉じた。
渋沢と志村さんとの待ち合わせ場所は、隣駅の駅前のカラオケだった。いろいろと揉めたせいで、余裕があったはずの待ち合わせ時間にぎりぎりなタイミングになってしまった。
仲直りしてからの奈緒は電車の中でいつもより僕に密着しているようだった。
「本当にわたしのこと嫌いになってない?」
僕に抱きついたまま席に座った奈緒が小さな声で言った。
「なってない」
僕はそう言って奈緒の肩を抱く手に力を込めた。いつもの僕と違って、周囲の人たちの好奇心に溢れた視線は気にならなかった。
そのとき、僕が唯一気にしていたのは、どうしたら僕がもう気にしていないということを奈緒に信じてもらえるかだけだった。
「・・・・・うん」
奈緒が僕の胸に顔をうずめるようにしながら小さくうなずいた。彼女も周りの視線を気にする余裕はないようだった。
でもこれで奈緒と仲直りできたのだ。
「もう泣かないで」
「うん」
やっと奈緒は顔を上げて泣き笑いのような表情を見せた。
数駅先の繁華街にあるカラオケに着く頃には、奈緒は元気を取り戻していた。
「ここで遊ぼうって言われてるんだけどカラオケとか平気?」
何せ富士峰の高校生なのだから僕は念のために聞いた。
「大丈夫です。お友だちと何度か入ったこともありますし」
「よかった。じゃあ行こう」
「はい」
渋沢と志村さんはもうカラオケのフロントで僕たちを待っていた。
「よう奈緒人」
「奈緒人君こっちだよ」
「やあ」
「こんにちは」
「奈緒ちゃんも今日は~」
「じゃあ行こうぜ。俺が受け付けしてくるよ。とりあえず二時間でいいな」
渋沢はチェックインするために受付のカウンターの方に向かって言った。
クリスマスの後の昼間のせいか、すぐに待たずに個室に案内された僕たちは、十人以上は座れそうなボックスを見て戸惑った。
「どう座ろうか」
やたら広い室内を見ながら志村さんが言った。
「これは広すぎるよね」
「まあ狭いよりいいじゃん。適当に座ろうぜ」
「奈緒ちゃん一緒に座ろう」
志村さんは奈緒の手を引いてモニターの正面のソファの方に彼女を連れて行った。奈緒は手を引かれながら、何か言いたげにちらりと僕の方を見た。
「じゃあ俺たちはこっちに座ろうぜ」
渋沢が言った。僕の方を見ていた奈緒の視線が脳裏に浮かんだ。僕はもう迷わず奈緒の隣に腰掛けた。奈緒は微笑んで僕の手を握ってくれたけど、もちろんそれは渋沢や志村さんにも気がつかれていただろう。
「何だよ。こっち側に座るの俺だけかよ」
渋沢がぶつぶつ言った。
「何でお前ら三人だけ並んで座ってるんだよ」
「じゃあ、あんたもこっち座れば」
志村さんが自分の隣の席を叩いて見せた。
「ここおいでよ」
「何でこんなに広いのに片側にくっついて座らなきゃいけないんだよ」
渋沢は文句を言いながらも志村さんの隣に納まった。確かに広い部屋の片隅で身を寄せ合っている姿は傍から見て滑稽だったろう。
でも僕は多分奈緒の期待に応えたのだ。僕は隣に座っている奈緒を見た。奈緒もすぐに僕の視線に気が付いたのかこちらを見上げて笑ってくれた。
これなら今日は奈緒と色々話せそうだった。ところがしばらくするとそれは甘い考えだったことがわかった。曲が入っているときは話などまともにできなかったし、曲の合間は渋沢と志村さんが好奇心に溢れた様子で、ひっきりなしに奈緒に話しかけていたからだ。
最初は戸惑っていた奈緒も、志村さんや渋沢に親しげに話しかけられているうちに、次第に二人に心を許していったようだった。
学校のこと、ピアノのこと、趣味のこと。そして僕との馴れ初めや、いったい僕のどこが気に入ったかという質問が二人から奈緒に向けられ、最初はたどたどしく答えていた奈緒も、最後の方では笑顔で志村さんと渋沢に返事をするまでになっていた。
彼女が僕の友だちと仲良くなるのは嬉しかったけど、僕抜きで盛り上がっている三人を見ていると少しだけ気分が重くなってきた。
「そういや昼飯食ってなかったじゃん。ここで何か食おうぜ」
渋沢が言った。
「そうだね。ここなら安いしね」
「ピザとチキンバスケット頼んでくれよ」
「あんた一人で食べるんじゃないっつうの」
志村さんはそう言ってメニューを広げた。「奈緒ちゃん、二人で選んじゃおう」
「はい」
奈緒は楽しそうに志村さんに答えた。二人はしばらくメニューを見てからにぎやかに注文している。
「おい奈緒人。おまえさっきから何も歌ってねえじゃん。奈緒ちゃんだって歌ってるのによ」
「僕はいいよ、歌苦手だし」
「何だよ、うまいとか下手とかどうでもいいじゃんかよ」
僕が言い返そうとしたとき、客が少ないせいか早くも注文した食べ物や飲み物を持った店員が部屋に入ってきた。
「何か話してばっかで全然歌えなかったね」
結局二回時間を延長したために、外に出たときはもう薄暗くなっていた。あちこちのビルの店舗から洩れる灯りが路面をぼんやりとにじませている。
話してばかりと言うけど、僕は全然奈緒と話をしていない。それでも奈緒は志村さんたちと盛り上がっていた様子だった。
「おまえが奈緒ちゃんにペラペラ話かけていたせいだろうが」
渋沢が笑って言った。
「何よ。あんただって奈緒ちゃんに興味深々にいろいろ質問してたくせに」
「そりゃまそうだけどさ。奈緒ちゃん」
「はい?」
「奈緒ちゃん歌上手だね。あと君は本当にいい子だな」
「え」
「奈緒人をよろしく。こいつ口下手だし根暗だし真面目なくらいしか取り得がないけどさ」
ちょっとだけ改まった口調で渋沢が言った。
「あんたそれ言いすぎ」
志村さんが真面目な口調になって、渋沢に注意したけど渋沢は気にせず言葉を続けた。
「でもいいやつなんでよろしくね」
奈緒は少し驚いたようだったけど、顔を赤くして渋沢に答えた。
「ええ。よくわかってます。心配しないでくださいね」
「うん。じゃあまたな。奈緒人、おまえ奈緒ちゃんを送って行くんだろ」
「あ、あたしは大丈夫です」
「送っていくよ」
僕は奈緒の顔から目を逸らして言った。
電車を降りて奈緒の家の方に向かっている間中、僕は黙って奈緒の先に立って歩いていた。
これではさっき奈緒をピアノ教室に迎えに行ったときと同じだ。そしてさっきは奈緒の理不尽な怒りに頭がいっぱいだったのだけど、今の僕のこの感情に対して奈緒に責任がないことはわかっていた。ただ形容しがたい寂しさが僕の中にあるだけだった。
これは理不尽な怒りだ。
奈緒には何も責任はない。奈緒は僕に誘われて渋沢たちと会い、社交的に彼らと話しただけだ。これでは怒りと言うよりも相手にされなかった子どもが拗ねているのと同じだ。
僕の脳裏に今まで思い出すこともなかった記憶が蘇った。
母親がいない夜。
自分も半泣きになりながら、僕は誰もいない家で怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締めた。
この記憶の中にいるのは今の母親と明日香ではない。僕には両親の離婚前の記憶はないはずだった。何でこんなにリアルにこんな情景が浮かぶのだろう。
それに僕には義理の妹の明日香がいるだけだ。実の妹がいるなんて聞いたこともない。
突然脳裏に押しかけてきた圧倒的にリアルな悪夢を頭を振って追い払った時、奈緒が僕の背後から不安そうな声で僕に声をかけた。
「あの。奈緒人さん、何か怒ってますか」
おどおどとした奈緒の震え声を聞いた途端、突然僕の心が氷解した。
僕は振り返って奈緒に手を差し伸べた。この子がいとおしくてしかたがない。一瞬、幻想の中で怯えて僕に抱きついていた幻の妹の姿が奈緒と重なった。
奈緒は差し伸べられた僕の手をそっと握った。「ごめん。奈緒ちゃんがあいつらとずっと楽しそうに話していたし、僕は君とあまり話せなかったんで少しだけ嫉妬しちゃったかも。僕が悪いんだよ」
そのとき奈緒は少しだけ怒ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな複雑な表情を見せた。
「あたし、奈緒人さんのお友だちと仲良くしてもらって嬉しくて」
「うん、わかってる。僕が勝手に君に嫉妬したんだ。本当にごめん」
「でも、さっきあたしも有希ちゃんと奈緒人さんに嫉妬しちゃったし、おあいこなのかもしれないですね」
「いや。今のは僕が悪いんだよ」
奈緒は僕を見つめた。
「わたし、渋沢さんと志村さんとお話できて嬉しかったですけど、やっぱり奈緒人さんと二人きりでいたいです」
「そうだね。今後は二人でカラオケ行こうか」
「はい。今度は奈緒人さんの歌も聞かせてくださいね」
奈緒はようやく安心したように僕の腕に抱きついて笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます