第4話
「おはようございます。奈緒人さん」
奈緒はいつもの場所で僕を待っていてくれた。今日は彼女より早く来たつもりだったのだけど、結局奈緒に先を越されてしまった。
「おはよう、奈緒ちゃん。待たせてごめん」
「いえ。わたしが早く来すぎちゃったから。まだ約束の時間の前ですし」
奈緒が笑った。
やっぱり綺麗だな。僕は彼女の顔に見入った。
「どうしました?」
不思議そうに僕の方を見上げる奈緒の表情を見ると、胸が締め付けられるような感覚に捕らわれた。
いったいどんな奇跡が起こって、彼女は僕のことなんかを好きになったのだろう。
「何でもないよ。じゃあ行こうか」
「はい」
奈緒は自然に僕の手を取った。
「行きましょう。昨日と違ってゆっくりできる時間じゃないですよね」
「そうだね」
僕たちは電車の中で、初めて付き合い出した恋人同士がするであろうことを忠実に行った。
つまり、付き合い出した今でもお互いのことはほとんどわかっていなかったので、まずそのギャップを埋めることにしたのだ。
奈緒の腕はその間も僕の腕に絡み付いていた。
とりあえず奈緒についてわかったことは、彼女が富士峰女学院の高校二年生であること、一人っ子で両親と三人で暮らしていること、同じクラスに親友がいて、下校は彼女と一緒なこと、ピアノを習っていて将来は音大に進みたいと思っていること。
何より僕が驚いたのは、彼女の家の場所だった。これまでいつも自宅最寄り駅の前で待ち合わせをしていたし、最初の出会いもそこだったから、僕は今まで奈緒は僕と同じ駅を利用しているのだと思い込んでいたのだ。
でも、奈緒の自宅は僕の最寄り駅から三駅ほど学校と反対の方にある駅だった。
「え? じゃあなんでいつもあそこで待ち合わせしてたの?」
「何となく・・・・・・最初にあったのもあそこでしたし」
「じゃあさ。昨日とか相当早く家を出たでしょ?」
「はい。ママに不審がられて問い詰められました」
奈緒はいたずらっぽく笑った。
「最初に出会った日にもあそこにいたじゃん?」
「あれは課外活動の日で、親友とあそこで待ち合わせしたんです。彼女は奈緒人さんと同じ駅だから」
ちゃんと確認すればよかった。彼女はわざわざ、僕の駅で途中下車していたのだ。
「ごめん。無理させちゃって」
「無理じゃないです。わたしがそうしたかったからそうしただけですし」
「あのさ」
僕はいい考えを思いついた。
「明日からは電車の中で待ち合わせしない?」
「え?」
「ここを出る時間の電車を決めておいてさ。その一番後ろの車両の・・・・・・そうだな。真ん中のドアのところにいてくれれば僕もそこに乗るから」
「はい。奈緒人さんがそれでよければ」
彼女の家の場所を聞いてみてよかった。これで余計な負担を彼女にかけずに済む。
僕自身のこともあらかた彼女に説明し終っても、大学の最寄り駅まではまだ少し時間があった。
僕はさっきから聞きたくて仕方がないけど、聞けなかったことが気になってしようがなかった。
でもそんなことを聞くと、自分に自信のない女々しい男だと奈緒に思われてしまうかもしれない。
奈緒は楽しそうに自分の通っているピアノのレッスン教室の出来事を話していたけど、気になって悶々としていた僕はあまり身を入れて聞いてあげることができなかった。
そしてその様子は奈緒にもばれてしまったようだ。
「あの・・・・・・。奈緒人さん、どうかしましたか?」
奈緒は話を中断して僕の方を見た。
「いや」
駄目だ。やっぱり気になる。僕は思い切って彼女に聞いた。
「奈緒ちゃんってさ」
「はい」
話を途中で中断された彼女は、不思議そうな顔で僕の方を見た。
「あの、つまりすごい可愛いと思うんだけど、やっぱり今まで彼氏とかいたんだよね?」
奈緒は戸惑ったように僕を見たけど、すぐに笑い出した。
「あたし可愛くなんてないし。それにずっと女子校だから男の人とお付き合いするのってこれが初めてです」
「そうなんだ・・・・・・」
「ひょっとして奈緒人さん、あたしが男の人と付き合ったことあるか気にしてたんですか?」
「違うよ・・・・・・・いやそれはちょっとは気になってたかもしれないけど」
僕は混乱して自分でも何を言ってるのかわからなかった。
でも奈緒のその言葉だけはきちんと胸の奥に届き、僕はその言葉を何度も繰り返して頭の中で再生した。
「男の人とお付き合いするのってこれが初めてです」
「奈緒人さん。顔がにやにやしてますよ」
奈緒が笑った。
「そうかな」
僕はなんとなく誤魔化したけど、実際にそういう表情だったに違いない。
不意に奈緒がこれまでよりもう少し僕に密着するように、僕の腕に抱き付いている自分の手に力を入れた。
「でも気にしてくれてるなら嬉しい。奈緒人さんは今まで彼女とかいたんですか?」
「いないよ。僕も奈緒ちゃんが初めての彼女だよ」
それが奈緒にどんな印象を与えたのかはわからなかった。自分が初めての彼女で嬉しいと思ってくれるのか、もてない男だと思って失望されるのか。
でも何となくこの子には正直でいたいと思っている僕がそこにいた。そしてそれは決して嫌な感覚ではなかった。
「嬉しい」
奈緒が上目遣いに僕を見上げた。
「お互いに初めて好きになった相手で、しかも名前も似てるんですよ」
「うん」
「本当に運命の人っているのかも」
僕と奈緒は改めて見つめ合った。
「お、奈緒人じゃん」
僕たちはそのとき、大きな声で僕に話しかけてきた渋沢に邪魔された。
「あ、奈緒人君だ。って富士峰の制服の子だ」
これは志村さんだった。
「奈緒人君の彼女って人でしょ? もう一緒に登校してるんだ」
「おはよう」
僕はしぶしぶ二人にあいさつした。
僕は二人に奈緒を紹介した。
二人でいるところを邪魔されたわけだけど、奈緒は僕の友人たちに僕の彼女として紹介されることが嬉しかったのか、高校の最寄り駅で別れるまでずっと機嫌が良かった。
正直に言うと僕の方は、もっと奈緒と二人きりで話をしていたかったのだけど。
「じゃあ、奈緒人さん。また明日ね」
奈緒が控え目な声で言った。
「明日は電車の中で待ち合わせだから忘れないでくださいね」
「うん、大丈夫だよ」
「渋沢さん、志村さん。これで失礼します」
「またね~」
「気をつけてね」
僕は渋沢と志村さんのせいで何か消化不良のような気分になりながら奈緒に別れを告げ、邪魔をしてきた二人と連れ立って電車から降りた。「奈緒ちゃんってさ」
志村さんが大学の校門に向って連れ立って歩いているとき に言った。
「どっかで見たような気がするんだよね」
「前からいつもあの電車みたいだから登校中に見かけたんじゃない?」
「いや、そういうのじゃなくて。何だっけなあ。ここまで出かかってるんだけど」
彼女は首をかしげて考え込んだ。こうなると僕も志村さんがどこで奈緒を見かけたのか気になってきた。
「おまえの記憶力は怪しいからな」
渋沢がそこで茶々を入れた。
「奈緒人もあまりマジになって受け止めない方がいいぞ」
「本当だって・・・・・・でも、ああだめだ。思い出せない」
「しかし綺麗な子だったなあ。しかも富士峰の生徒だし、深窓の美少女って言うのは奈緒ちゃんみたいな子のことを言うのかな」
渋沢が感心したように言った。
「本当にそうね」
志村さんも同意した。
「本当にそうだよなあ」
思わず僕もそれに同意してしまった。自分の彼女なのだから、ひょっとしたらもっと謙遜しなきゃいけなかったかもしれないのだけど。
「おまえが言うな」
案の上渋沢に突っ込まれた。
「彼女の自慢かよ」
「そうじゃないよ。でも自分でも、何で彼女みないな子と付き合えることになったのか、いまいち理解できてなくて」
「そういうことか」
渋沢が笑った。
「まあ、あんまり考えすぎなくてもいいんじゃね? さっきの奈緒ちゃんを見ていても、おまえのことを好きなのは間違いないと思うな」
「そうかな」
「そうだよ。奈緒人君はもっと自分に自信を持った方がいい」
志村さんも言った。
渋沢と志村さんの言葉は嬉しかった。
やはり奈緒は本当に僕のことが好きになってくれたのだ。何でああいう子が僕なんかをという疑問は残るけど、今は奈緒が僕のことを本気で好きになったということだけで十分だと思うべきなのだろう。
「よかったね、奈緒人君。君ならきっとああいう、感じのいい女の子に好かれるんじゃないかと思ってた」
志村さんが少し真面目な顔で言った。
「何だよ。奈緒人にだけそういうこと言っちゃうわけ? 俺は?」
「・・・・・・あんたにはあたしがいるでしょ? 何か不満でも?」
「ないけどさ」
かつて志村さんに告白して振られた僕としては複雑な気持ちだった。
彼女が今の言葉を真面目に言っているのだとしたら、あの時僕が振られた理由は何なのだろう。そのことがちょっとだけ気になったけど、もうそれは今では過去の話だった。
それに志村さんは彼氏である渋沢には、僕から告られたことを黙っていてくれている。その彼女の気持ちを蒸し返す余地はなかった。
僕には今では奈緒がいる。そう考えただけでも心が軽くなった。
明日は奈緒と会ってから車両の位置を変えようか。そうすれば通学中に渋沢たちと出くわさないで済む。
決して渋沢たちと四人で過ごすが嫌だったわけではない。でも僕たちはまだ出合って恋人同士になったばかりだった。四人で楽しく過ごすより今は二人きりで話をしたい。
奈緒は気を遣ったのか本心からかわからないけど、渋沢たちと一緒にいることを楽しんでくれたようだった。でも彼女だって最初は二人きりがいいに違いない。僕たちはまだお互いのことを知り始めたばかりだったのだ。
授業が終り部活に行く渋沢と別れて下校しようとした時、志村さんが僕に話しかけてきた。
「奈緒人君もう帰るの?」
「うん。君は渋沢がサークルを終わるのを待つの?」
「まさか。何であたしがそこまでしなきゃいけないのよ」
「・・・・・・何でって言われても」
「奈緒人君、帰りも彼女と一緒なの?」
「帰りは別々だよ。前から親友と一緒に帰ってるんだって。あとピアノのレッスンとかあるみたいだし」
「ああ、やっぱりそうか」
「え?」
「一緒に帰らない? あ、言っとくけど、明はあんたとあたしが一緒に帰ったって嫉妬なんかしないからね」
「まあいいけど」
それで僕たちは並んで校門を出て駅の方に向かって坂を下って行った。
「あたしさ。思い出したのよ」
電車に乗るといきなり志村さんが言った。
「思い出したって何を?」
「ほら、今朝話したじゃん。奈緒ちゃんってどっかで見たことあるってさ」
それは僕にも気になっていた話題だった。思ったより早く志村さんは記憶を取り戻してくれたようだった。
「はい、これ」
彼女から渡されたのはどっかのWEBのページをプリントした数枚のA4の紙だった。
「何これ」
「さっきIT教室のパソコンからプリントしたんだよ。奈緒ちゃんってさ名前、鈴木奈緒でいいんでしょ?」
奈緒の苗字や名前の漢字まで志村さんは知らないはずだったのに。
「・・・・・・そうだけど」
「じゃあ、もう間違いないや」
彼女は僕の手からプリントを取り返してそのページを上にして僕に渡した。
「ここ見て」
『東京都ジュニアクラシック音楽コンクールピアノ部門高校生の部 受賞者発表』
『第一位 富士峰女学院高等部2年 鈴木奈緒』
『演目:カプースチン 8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金三万円の贈呈』
プリントに印刷されているのはそれだけだったけど、奈緒の名前の横に小さく顔写真が掲載されていた。荒い画像だったけど、その制服と何よりその顔は奈緒のものだった。
「これさ、あたし生で見てたんだよね」
志村さんが言った。
「従姉妹のお姉ちゃんがこの大学生部門に出場したんで応援しに行ったの」
「その時にさ、あたしピアノの演奏の善し悪しとかわからないんだけど、何か中学生の部に出てた子がやたら可愛かった記憶があってさ。それで奈緒ちゃんのこと覚えてたみたい」
思い出せてすっきりした。そう言って志村さんは笑った。
僕は駅から自宅に歩きながら、再び気持ちが落ち込んでいくのを感じた。
奈緒が僕のことを好きなことは今となっては疑いようがない。だから、なんで奈緒のような子が僕のことなんか好きになったのだろうと、うじうじと考えることは止めにしようと思っていた。
でもピアノコンクールで一位とかっていう話を聞くとまた別な不安が沸いてきた。
今現在、奈緒は付き合い出したばかりの僕のことが好きかもしれない。でもあれだけ容姿に恵まれていて、それだけではなくピアノの方も少なくとも地方コンクールで受賞するレベルとなると、この先も彼女が僕のことを好きでいてくれる保証は何もない。
ここまでくると世界が違うというほかはない。奈緒からピアノのレッスンの話とか音大志望のことは聞いてはいたけど、ここまで本格的に取り組んでいるとは考えてていなかった。
単なるお嬢様学校に通う生徒の嗜みくらいならともかく、入賞レベルだとすると中高は彼氏どころじゃないのが普通じゃないのか。
僕はこの世界のことはよく知らないけど、ここまで来るには相当厳しいレッスンに耐えてきたはずだった。
それにその世界にだっていい男なんていっぱいいるかもしれない。僕ではピアノの話には付き合えないけど、彼女と同じくこの世界を目指している男にとっても、奈緒の容姿は好ましく映るだろう。そういう奴らと比較された時に奈緒は僕を選んでくれるのだろうか。
どう考えても将来は不安だらけだった。
帰宅して自分の部屋に上がる前にリビングを覗くと、僕に気がついた妹がソファから立ち上がった。
「おかえりなさい」
妹は相変わらずいい妹路線を続けているようだった。
髪が黒いままなのは当然として、化粧もしていないし、異様に長かったまつげも普通になり爪も自然な桜色のままだ。
こいつが昔からこうだったらあるいは僕は明日香に惚れていたかもしれない。一瞬そんなどうしようもないことを考え出すほど、前と違ってこいつの顔は少し幼い感じで、その印象は可愛らしい少女のそれだった。
「ただいま」
「今日もお父さんたち帰り遅いって」
「そう」
「お風呂沸いてるよ」
僕は少し驚いた。
風呂の水を入れ替えてスイッチを入れるのはいつも僕だった。妹は僕の沸かした風呂に入るか、シャワーだけかいつもはそんな感じだったのだ。
「先に入っていいよ。ご飯用意できてるから」
え? こいつが夕食を用意するなんて初めてのことじゃないのか。
妹は僕の好みに合わせて服装を変えるとは言ったけど、生活習慣全般を見直すとは思わなかった。
「先に入っていいの?」
「何で聞き返すのよ。変なお兄ちゃん」
妹は笑って言った。
僕が風呂から上がってリビングに戻ると、妹は相変わらずソファに座って何かを読みふけっていた。
「おい・・・・・・勝手に読むなよ」
それは風呂に入る前に、うっかりカバンと一緒にリビングに放置してしまった奈緒のコンクールのプリントだった。
「ああ、ごめん。片付けようとしたらお兄ちゃんの彼女が載ってたからつい」
僕は一瞬苛々したけどこれは放置しておいた僕の方が悪い。
それに奈緒と付き合っていることは妹にはばれているのだし、今さらコンクールのことなんか知られても別に不都合はないだろう。
「コンクールで優勝とかお兄ちゃんの彼女ってすごいんだね」
妹が無邪気そうに言った。
「そんな子をいきなり彼女にできちゃうなんて、お兄ちゃんのことをなめすぎてたか」
妹は笑った。
嫉妬とか嫌がらせとかの感情抜きで、明日香が奈緒のことを話してくれるようになったことはありがたい。でも奈緒のことをすごいんだねと無邪気に言われると、改めて自分の奈緒の恋人としての位置の危うさを指摘されているようで、少し気分が落ち込んだ。
「ほら、これ返すよ。ご飯食べる?」
驚いた僕の様子に、帰宅して初めて妹は少し気を悪くしたようだった。
「さっきから何なの? 妹がお兄ちゃんにお風呂沸かしたり食事を用意するのがそんなに不思議なの?」
「うん。不思議だ。だっておまえこれまでそんなこと全然しなかったじゃん。むしろ僕の方が家事の手伝いはしてただろ」
僕は思わず本音を言ってしまった。
「ふふ。これからは違うから」
でも妹は怒り出しもせず微笑んだだけだった。 テーブルについて妹が用意してくれた簡単な夕食を二人きりで食べた。何か不思議な感覚だったけど。別にそれは不快な感じではなかった。
「そういえばさ」
機嫌は悪くなさそうだったけど、明日香がずっと沈黙していることに気まずくなった僕は、気になっていたことを尋ねた。
「何」
「おまえさ、僕の友だちと知り合いだったんだってな」
「お兄ちゃんの友だちって誰?」
「渋沢と志村さんっていうカップル。おまえの彼氏だったイケヤマとかというやつと、おまえと四人で遊んだことがあるっていってた」
「渋沢さんが? お兄ちゃんの知り合いとかって言ってなかったけど」
「知らなかったみたい。この前、偶然おまえの名前で気づいたみたいだな」
「ふ~ん」
妹は関心がなさそうだった。
「お兄ちゃんが二人から何を聞いたのか知らないけど、それ全部過去のあたしだから」
「はい?」
「あたしはもう彼氏とも別れたし、遊ぶのも止めたの・・・・・・それは今さらピアノを習うわけには行かないけど」
「おまえ、何言ってるの」
明日香は立ち上がって僕の隣に腰掛けた。
「いい加減に気づけよ。あたしはあんたのことが、お兄ちゃんのことが好きだってアピールしてるんじゃん」
僕が避けるより早く妹は僕に抱きついてキスした。
次の日は週末で学校は休みだった。このまま両親不在の自宅で妹と過ごすのは気まずいと思った僕は、まだ妹が起きる前に朝早くから外出することにした。
別に目的はなかったので、どこかで時間を潰せればよかった。そう思って駅前まで行ってはみたものの、十時前ではろくに店も開いていなかった。
とりあえず電車に乗ろうと僕は思った。休日の電車なら空いているし確実に座れるだろう。
図書館とか店とかが開くまで車内で座って居眠りでもしていよう。よく考えれば最近はあまり睡眠が取れていなくて寝不足気味だった。
僕はとりあえず学校と反対方向に向う電車に乗り込んだ。どうせならいつもと違う景色の方がいい。
昨日の妹のキスは今までの悪ふざけとは少し違った感じだった。
僕はすぐに妹を押し放して「もう寝るから」と言い放って自分の部屋に退散したのだけれど、僕に突き放されたときの妹の傷付いたような目が、昨晩からずっと脳裏を離れなかった。
でもやはりそれは正しい行動だった。今では僕には彼女がいるのだから。
それに、たとえ奈緒と付き合っていなくたって、妹と付き合うなんて考えられなかった。いくら血が繋がっていないとはいえ家族なのだ。妹と恋人同士になったなんて両親や渋沢たちに言えるわけがない。
そう考えると昨日の明日香のキスはとてもまずい。というか、明日香は違うかもしれないけど僕にとってはそれは初めてのキスだった。
もう考えることに疲れた僕は席について目をつぶった。すぐに眠気がおそって来てきた。電車の心地よい振動と車内の暖房に誘われて僕は眠りについた。
「・・・・・・さん」
心地よい声が耳をくすぐった。
「奈緒人さん」
え? 僕は目を覚ました。
さっきまで誰もいなかった隣に座っている女の子がいる。それは私服姿の奈緒だった。
その時ようやく意識が覚醒した僕は、密着して話しかけている奈緒の顔の近さに狼狽した。
「奈緒人さん、休みの日にどこに行くんですか」
奈緒はそんな僕を見てくすくすと笑った。
「確かに偶然だけどそんなに驚かなくてもいいじゃないですか」
突然現われた奈緒の姿に驚いて固まっている僕に、彼女は親しげな口調で言った。
「・・・・・・いつからいたの?」
「一つ前の駅から乗ったら奈緒人さんが目の前で寝てるんですもん。びっくりしちゃった」
奈緒は笑った。
「奈緒ちゃんはどこかに行くところ?」
ようやく頭がはっきりした僕は、相変わらず密着している奈緒に聞いた。
「ピアノのレッスンなんです」
奈緒は言った。
「こんなに早くから?」
僕は驚いた。僕にとっては土曜日の朝なんて十時ごろまで寝坊するのが普通だっただけに。
「毎週土曜日の午前中は、お昼までレッスンなんです」
「大変なんだね」
僕はそう言ったけど同時にコンクールの入賞のことを思い出して、それなら無理はないなと思った。
「好きでやっていることですから」
奈緒はあっさりと答えた。
「それよりも偶然ですよね。奈緒人さんはどこにお出かけなんですか。学校とは逆方向ですよね」
僕にぴったりと寄り添うように座っている奈緒と会話をしていると、さっきまで悩んでいた明日香とのことも、奈緒に対して感じていたコンプレックスも忘れられるようだった。
でも、妹と一緒に家にいたくないから目的もなく外出しているとは言えない。
「いや、特に何でって訳じゃないよ。本とか探したくてぶらぶらと」
「本屋なら奈緒人さんの最寄り駅に大きなお店があるのに」
「たまにはあまり降りたことのない駅に降りてみたくてさ」
苦しい言い訳だったけど、どういうわけかその言葉は奈緒の共感を呼んだようだった。
「ああ、何となくわかります。わたしもたまにそういう気分になるときがありますよ」
「そうなの」
「奈緒人さんと初めて会った時ね、あの駅で初めて降りたんですよ。駅前の景色とかも新鮮で、何かいいことが起こりそうでドキドキしてました・・・・・・そしたら本当にいいことが起こったんですけどね」
奈緒は少しだけ顔を赤くして笑った。
「でも週末は奈緒人さんと会えないと思ってたから今日は得しちゃったな」
それは僕も同じだった。妹のことで胃が痛くなって自宅から逃げ出した僕だったけ、ど期せずして奈緒に会えたことが嬉しかった。
「奈緒ちゃんのピアノのレッスンってどこでしているの」
「ここから、えーとここから四つ目くらいの駅を降りたとこです」
僕は車内に掲示してある路線図を眺めた。
「降りたことない駅だなあ。あのさ」
「はい」
「奈緒ちゃんさえ迷惑じゃなかったら、ピアノの教室まで一緒に行ってもいい?」
「本当ですか」
奈緒は目を輝かせた。
「嬉しい。偶然電車で会えただけでも嬉しかったのに」
「そんな大袈裟な」
そのときもっといい考えが思い浮んだ。もっとも奈緒に午後予定がなければだけど。一瞬だけためらったあと、僕は勇気を出して奈緒に言った。
「それとよかったらだけど。奈緒ちゃんのレッスンの終った後、一緒にどこかで食事とかしない?」
「え?」
調子に乗りすぎたか。びっくりしているような奈緒の表情を見て僕は後悔した。奈緒の好意的な言動に調子に乗って、また志村さんの時のようにやらかしてしまったか。
でもそれは杞憂だったようだ。
「でも・・・・・・いいんですか? レッスンが終るまで三時間くらいかかりますよ」
「うん。本屋とかカフェとかで時間つぶしてるから大丈夫」
「じゃあ、はい。奈緒人さんがいいんだったら」
「じゃあ決まりね」
僕はそのとき財布の中身のことを思い出した。一瞬どきっとしたけど、よく考えれば大丈夫だった。
今月はお小遣いを貰ったばかりで全然使っていないし、先月の残りも一緒に財布に入っている。食事どころか一緒に遊園地に行ったって平気なくらいだった。
「じゃあ、あたし後で家に電話して、お昼は要らないって言っておきます」
「家は大丈夫?」
「大丈夫・・・・・・と思います。大丈夫じゃなくても大丈夫にします」
「何それ」
僕は笑った。
「本当に今日はラッキーだったなあ。一本電車がずれてたら、乗る車両があと一両ずれてたら会えなかったんですものね」
奈緒は嬉しそうに言った。
僕と奈緒は並んでその駅から外に出た。奈緒にとっては毎週通っている町並みだったのだろうけど、僕はこの駅に降りたのは初めてだった。
駅から出ると冬の重苦しい曇り空が広がっていた。そのせいで初めて来た町並みはやや陰鬱に映ったけれど、よく眺めると静かで清潔な駅前だ。
駅前には、開店準備中の本屋と既に開店しているチェーンのカフェがあった。これで奈緒を待っている間時間を潰すことができる。
僕は奈緒に言われるとおり、駅から閑静な住宅地への続く道を歩いて行った。いつのまにか奈緒が僕の手を握っていた。
曇り空の下を奈緒と手を繋ぎ合って知らない街を歩く。何か奇妙なほど感傷的な想いが僕の胸を締め付けた。
初めて訪れた街だけど、奈緒と二人なせいか、どこか静かな住宅地が身近な場所のように感じられる。
前に奈緒は僕に運命を信じるかと聞いたことがあった。正直運命なんて信じたことはなかった。それでも今この住宅地を奈緒と二人で並んで歩いていると、その様子に既視感を覚えた。しかもその感覚はだんだんと強くなっていく。
「奈緒人さん?」
奈緒が奇妙な表情で僕に言った。
「うん」
「笑わないでもらえますか」
「もちろん」
「わたしね。この道は幼い頃から何百回って往復した道なんです」
「うん」
「幼い頃からずっとここの先生に教えてもらってたから」
「そうなんだ」
「でも今日は初めてちょっと変な感じがして」
「変って?」
「わたし、前にも奈緒人さんと一緒にこの道を歩いたことがあるんじゃないかなあ」
それは僕の感じた既視感と同じようなことなのだろうか。僕自身のその感覚は強くなりすぎていて、今では夕焼けに照らされたこの道を、奈緒と並んで歩いてるイメージが鮮明に頭に浮かんでいた。
「わたし、奈緒人さんと手を繋いでここを歩いたことあると思う」
奈緒が戸惑ったように、でも真面目な表情で言った。
「奈緒人さん、運命って信じますか」
そう奈緒に聞かれたのは二度目だった。最初のときは曖昧な笑いで誤魔化したのだけど。
僕は超常現象とかそういうことは一切受け付けない体質だ。世の中に生じることには、全て何らかの合理的な説明がつくはずだと信じている。
でも、前にもこの場所で奈緒と一緒にいたことがあるというこの圧倒的な感覚には、合理的な説明がつくのものなのだろうか。
「よくわかんないや」
僕は再びあやふやに答えた。
「そうですか。ひょっとしたらわたしと奈緒人さんって前世でも恋人同士か夫婦同士だったんじゃないかって思いました」
奈緒は真面目な顔で言った。
「奈緒人さんと一緒にここを歩いていた記憶って前世のものなんじゃないかなあ」
「どうだろうね」
僕にはよくわからなかった。でも奈緒が感じたというその記憶は、その時僕も確かに感じていたのだ。
「運命とか前世とかはよくわからないけど・・・・・・昔、奈緒ちゃんと一緒にこの道を歩いたことがあるんじゃないかとは僕も思ったよ。その時は夏だった感じだけど」
「それも夕方だった思います」
奈緒が言った。
「うん。僕も同じだ。まあ前世とかはわからないけど、僕と奈緒ちゃんって結ばれる運命なのかな」
僕は真顔で相当恥かしいことを言った。
「それです、わたしが言いたかったのも。きっと運命的な出会いをしたんですね、わたしたち」
奈緒が考え込んでいた表情を一変させて嬉しそうに言った。
こんな話を聞いたら渋沢や志村さん、それに妹だって腹の底から笑うだろうな。
僕はそのときそう思った。まるでバカップルそのものの会話じゃないか。
でも僕にはそのことはまるで気にならなかった。僕は奈緒の小さな手を握っている自分の手に少しだけ力を込めた。
奈緒の手もすぐにそれに応えてくれた。
閑静な住宅地の中にそのピアノ教室はあった。外見は普通のお洒落な家のようだった。
「本当にいいんですか? 待っていただいて」
奈緒が言った。
「うん。駅前に戻って時間を潰して十二時半くらいにここへ戻って待ってるから」
「じゃあお言葉に甘えちゃいますね。わたし男の人に迎えに来てもらうのって初めてです」
僕は笑った。
「僕だって女の子を迎えに来るなんて初めてだよ。待っている間に食事できるお店を探しとくね」
「あ、はい。何だか楽しみです。今日は練習にならないかも」
奈緒が赤くなって微笑んだ。
「それはまずいでしょ。都大会の高校生の部で優勝した奈緒ちゃんとしては」
「何で知ってるんですか?」
奈緒は驚いたように言った。
「まあちょっとね」
「何か・・・・・・ずるい」
奈緒がすねたように僕を見た。
「ずるいって」
「わたしは奈緒人さんのこと何も知らないのに。何でわたしのことだけ奈緒人さんが知ってるの?」
僕は思わず笑ってしまった。知っているのはこれだけで、しかもそれは志村さんの情報だった。あとでそれを奈緒に説明しよう。
「話は後でいいでしょ。ほら早く入らないと遅刻しちゃうよ」
「・・・・・・奈緒人さんの意地悪」
奈緒はそう言って恨めしそうな顔をしたけど、結局笑い出してしまったので、彼女の恨みは全然切実には伝わらなかった。
「後で全部話してもらいますからね」
奈緒はその家のドアを開けて中に姿を消した。ドアを閉める前に、奈緒は僕に向かってひらひらと手を振った。
奈緒が入っていった家のドアを僕はしばらく放心しながら眺めていた。
奈緒が言っていたような前世とかを信じていたわけではなかったけど、運命の恋人とか言われることは気分が良かったので僕は特にそのことに反論しなかった。
でも、確かなことは一つだけだ。僕が好きなのは、僕にとって一番大切な子はわずか数日前に付き合い出した奈緒だけだ。
そろそろ明日香のアプローチに鈍感な振りをしているのも限界かもしれなかった。もし本当に妹が僕のことを好きなのだとしたら。
結局妹を傷つけるなら、少しでも早いうちに自分の本心を明日香に告げたほうが、まだしもあいつの傷は浅いかもしれない。
そんなことを考えながら、僕は時間を潰すために駅前の方に向った。無事に駅前に着いたとき再び僕は違和感を感じた。
僕は昔から方向音痴だった。方位的な感覚が鈍く地図を見るのも苦手なので、初めて来た土地でこんなにスムースに駅前に戻れるなんてあり得ない。まして行きは奈緒の案内のままに何も考えずに着いて行ったのだし。
やはりここには来たことがあるのだ。そして体がそれを覚えていたのだろう。奈緒の言うような前世とかではなく、この世に生まれてから僕はこの駅とあのピアノ教室の間を歩いたことがあるのではないだろうか。
でもそれがいつのことで、いったい何のためにピアノ教室になんか行ったことがあるのかまるでわからない。僕はピアノなんて習ったことはないのだ。
駅前に戻ったときにはもう本屋が開店していた。本屋で適当に時間つぶしのための雑誌を買った僕は、カフェに行こうとしてふと気づいた。
そういえば一緒に食事をする約束ができたのはいいけど、いったいどこに行けばいいのだろう。
奈緒には偉そうにお店を探しておくよと言ったけど、本当は当てなんか何もない。女の子がどんな店を好むのかさえよくわからなかった。
そういえば、渋沢と志村さんに誘われて放課後三人でファミレスに入ったことがあった。ドリンクバーだけで二時間くらい粘ったっけ。ああいう店なら無難なのかもしれない。
僕はカフェに行くのを止めて駅前を探索することにした。お店の当てすらないけど、幸い時間だけは十分にあった。確か駅の自由通路を抜けた反対側が少し繁華街のようになっていたはずだ。
僕はそちらの方に向かって駅の中を抜け、繁華街の方に行ってみた。
幸いなことに西口の方はお店だらけだった。駅前広場に沿ってファミレスが数軒。その他にもちょっとお洒落そうなパスタ屋とかカフェとかも結構ある。そのほとんどが営業中だった。
これなら大丈夫だ。この中のどこかのファミレスに入ればいいのだ。ようやく重荷を下ろした僕はほっとして東口のカフェに入った。
カフェで窓際の席に落ち着いた僕は、さっき買った雑誌をめくる気がおきないまま、ぼんやりとさっきレストランを探していたときのことを思い出していた。
ピアノ教室までの道もそうだけど、初めて降りたこの駅の西口が繁華街だなんて、僕はどうして何の疑問も持たずに思いついたのだろう。
早く店を決めたくて焦っていた僕は、あのときは何も考えずに心の声に従って行動した。その結果、思ったとおり西口は繁華街で僕は探していた店を見つけることができた。覚えていないだけで、やはりこの街に来たことがあるのか。それが一番妥当な回答だった。
まあいいや。今はそんなことを考えるよりもっと考えなきゃいけないことがある。
雑誌なんて買う必要はなかったのだ。今日は期せずして奈緒とデートできることになったのだから、食事の後どうするのかも決めておかなければならない。よく考えれば時間をつぶすとか言っている場合じゃなかった。
とりあえずファミレスで食事をする。ドリンクバーも頼んで少し長居したいものだ。それで奈緒とずっとお喋りするのだ。
いつもなら僕の学校の最寄り駅まで三十分くらしか一緒にいられない。感覚的にはあっという間に別れのときが来ているような感じだった。だから、今日は奈緒さえよければずっと一緒に話をしていよう。その後は。
奈緒は何時までに家に帰らなければならないのだろうか。
とりあえず遊園地とか動物園とか水族館とかそういうのは時間的に無理だから、ファミレスを出た後はもう帰るしかないかもしれない。
でも奈緒さえよければ彼女を家の途中まで送っていくことはできるだろう。さすがに家まで送るのは僕には敷居が高かったけど、駅までとかなら。
そんなことを考えているうちにすぐに時間が経ってしまい、そろそろ奈緒をピアノ教室まで迎えに行く時間になっていた。
思ったとおり奈緒が案内してくれなくても心の中の指示に従って歩くだけで、住宅街の複雑な道筋に迷うこともなく、さっき彼女と別れたピアノ教室の前まで来ることができた。その建物のドアの真ん前で待つほど度胸がない僕は、少し離れたところで教室のドアを見守った。もう少しで十二時半になる。
やがて教室のドアが開いて中から女の子たちが連れ立って外に出てきた。
華やかというとちょっと違う。でも決して地味ではない。その子たちは何か育ちのいいお嬢様という感じの女の子たちだった。彼女たちは笑いさざめきながら教室を出て駅の方に向かって行った。
そういう女の子たちに混ざって女の子ほどじゃないけど男もそれなりに混じっているようだった。こちらは少し真面目そうで、女の子に比べると地味な連中ばかりだった。少なくとも渋沢みたいなタイプは一人もいない。
でもよく考えれば僕だって外見はこの男たちの仲間なのだ。しかも彼らは外見はともかく音楽の才能には恵まれているんだろうけど、僕はそうじゃない。それなりに成績が良かったせいでこれまであまり人に劣等感を抱いたことがなかった僕だけど、それを考えると少し落ち込んでいくのを感じた。
奈緒にふさわしいのはこの教室に通っているような男なんじゃないのか。ついにはそんな卑屈な考えまで僕の心に浮かんできた。
そのとき唐突に頭の中に妹の姿が目に浮かんだ。明日香はビッチな格好を卒業したみたいだけど、中身はいったいどうなんだろう。
少なくともこの教室に通っている女の子たちとは全く共通点がない。どういうわけか僕はこのとき明日香のことが気の毒になった。あいつだって色々悩んだ結果、大人しい外見に戻ることを選んだのだろうに、やっぱり僕の目の前を楽しそうに通り過ぎて行く華やかで上品な女の子たちには追いつけないのだろうか。
やがて奈緒が姿を現した。彼女はドアから外に出て周りを見回している。僕を探してくれているのだ。少し離れたところで半ば身を隠すようにしているせいで、奈緒はすぐには僕が見つからなかったようだ。
僕が奈緒の方に寄って行こうとした時、誰かが彼女に話しかけるのが見えた。
それは黒ぶちの眼鏡をかけた大学生か高校生くらいの男だった。彼は馴れ馴れしく奈緒の肩に片手をかけて彼女を呼び止めた。奈緒もその男に気づいたのか振り向いて笑顔を見せた。その男が奈緒に何か差し出している。どうもピアノの譜面のようだ。譜面を受け取りながら奈緒は彼に何か話しかけた。彼にお礼を言っているみたいだった。
奈緒の方に行こうとした僕はとっさに足をとめ、隣の家の車の陰に半ば身を隠すようにした。
何でこんな卑屈なことをしているのだろう。僕は自分のしたつまらない行動を後悔した。奈緒はさっき僕のことを運命の人とまで言ってくれたんじゃないか。
奈緒は笑顔で譜面を渡した彼に話しかけていたけど、目の方は相変わらずきょろきょろと周囲を見回しているようだった。僕を探してくれているのか。その時奈緒と目が会った。
奈緒はその彼に一言何かを告げると嬉しそうに真っ直ぐに僕の方に向かって来た。その場に取り残された男は未練がましく何かを奈緒に話しかけたけど、彼女はもう彼の方を振り向かなかった。
「お待たせしちゃってごめんなさい」
奈緒はそう言っていきなり僕の手を取った。
「奈緒人さん、待っている間退屈だったでしょ」
僕が心底から自分の卑屈な心の動きを後悔したのはその瞬間だった。こんなに素直に僕を慕ってくれている奈緒に対して、僕は卑屈で醜い劣等感を抱いていたのだから。
「いや、お店とか探してたら時間なんかあっという間に過ぎちゃった」
「そう? それなら良かったけど」
僕たちの話を聞き取れる範囲には、その男のほかにも同じピアノ教室に通っているらしい女の子たちがまだいっぱいいたけれど、奈緒はその子たちの方を見ようとはしなかった。上目遣いに僕の顔を見ているだけで。
さっきまでの卑屈な考えを後悔した僕だったけど、新たな試練も僕を待ち受けていた。周囲の女の子たちの視線が突き刺さるのを僕は感じた。ここまで周りを気にせずに僕に駆け寄っていきなり男の手を握る奈緒の姿は、周囲の女の子たちの注目を集めてしまったようだった。
案の定そのうちの一人が奈緒に話しかけてきた。
「奈緒ちゃんバイバイ」
奈緒も僕から目を離して笑顔でそれに答えた。
「ユキちゃん、さよなら」
「・・・・・・奈緒ちゃん、その人って彼氏?」
ユキという子は別れの挨拶だけでこの会話を終らせるつもりはないようだった。彼女の周りの女の子たちも、さっきから僕の手を握る奈緒をじっと見つめている、奈緒に話しかけた男も聞き耳を立てているようだ。
奈緒はちらっと僕の顔を見た。それから彼女は少し紅潮した表情でユキという子に答えた。
「そうだよ」
周囲の女の子たちがそれを聞いて小さくざわめいたけど、もう奈緒はそちらを見なかった。
「じゃあねユキちゃん。行きましょ、奈緒人さん」
僕は奈緒に手を引かれるようにして駅前の方に向った。
「ごめんね」
奈緒が言った。
「ごめんって何で」
「みんな噂好きだからすぐにああいうこと聞いてくるんですよ」
「別に気にならないよ。君の方こそ僕なんかが待っていて迷惑だったんじゃないの」
僕は思わずそう言ってしまってすぐにそのことに後悔した。奈緒が珍しく僕の方を睨んだからだ。
「何でそんなこと言うんですか? わたしは嬉しかったのに。奈緒人さんが待っていてくれるって思うとレッスンに集中できないくらいに嬉しくて、集中しなさいって先生に怒られたけどそれでも嬉しかったのに」
「ごめん」
僕は繰り返した。またやらかしてしまったようだ。でも奈緒はすぐに機嫌を直した。
「ううん。わたしこそ恥かしいこと言っちゃった」
奈緒は照れたように笑った。
この頃になると周りにはピアノ教室の生徒たちの姿はなくなっていた。
「一緒に食事して行ける?」
僕は奈緒に聞いた。
「はい。さっきママに電話しましたし今日は大丈夫です」
「じゃあファミレスでもいいかな」
ファミレスでもいいかなも何もファミレス以外には思いつかなかったのだけど、とりあえず僕は奈緒に聞いた。
「はい」
奈緒は嬉しそうに返事した。
相変わらず空模様はどんよりとした曇り空だったけど、その頃になると駅の西口もかなり人出で賑わいを増していた。そう言えばもうすぐクリスマスだ。
目当てのファミレスで席に着くまで十五分くらい待たされたけど、その頃になると再び僕は気軽な気分になっていたせいで、奈緒と話をしているだけで、席に案内されるまでの時間が長いとは少しも思わずにすんだ。
「ご馳走するから好きなもの頼んで」
僕は余計な念を押した。渋沢とかならこんな余計な念押しはしないだろう。一瞬僕は余計なことを言ったかなと後悔したけど、奈緒は素直にお礼を言っただけだった。
とりあえず料理が来るまで僕は、自分が待っている間にこの駅前を探索したこと、不思議なことに初めて来たはずのこの街で少しも迷わなかったことを話した。
「う~ん。わたしと一緒に教室までの道を歩いた記憶があるというだけなら、前世の記憶だって主張したいところですけど」
奈緒は少し残念そうだった。
「奈緒人さん一人でもこの辺の地理に明るかったとしたら、奈緒人さんは昔この街に来たことがあるんでしょうね。忘れているだけで」
「何で残念そうなの」
僕は思わず笑ってしまった。
「だって、前世でも恋人同士だった、わたしたちの記憶が残っていると思った方がロマンティックじゃないですか」
「それはそうだね」
「まあ、でも。よく思い出したら昔何かの用でここに来たことがあるんじゃないですか」
奈緒は言った。
「さあ。記憶力はよくない方だからなあ。全然思い出せない。逆に言うとここに来たのが初めてだと言い切るほどの自信もない」
「それじゃわからないですね」
奈緒は笑った。その時注文した料理が運ばれてきた。
食事をしながら奈緒と他愛ない話を続けていたのだけど、だんだん僕はあの男が気になって仕方なくなってきた。変な劣等感とか嫉妬とかはもうやめようと思ったのだけど、これだけはどうしても聞いておきたかった。
「あの・・・・・・気を悪くしないでくれるかな」
奈緒がパスタの皿から顔を上げた。
「何ですか」
「さっきの―――さっき君の肩に手を置いた男がいたでしょ? 随分馴れ馴れしいというか、結構親しそうだったんだけど彼は奈緒ちゃんの友だちなの?」
奈緒はまた不機嫌になるかなと僕は覚悟した。でも彼女はにっこりと笑った。
「嫉妬してくれてるんですか?」
その言葉と奈緒の笑顔を見ただけで、既に半ば僕は安心することができたのだ。
その日、僕たちはそのファミレスで二時間以上も粘っていた。
さっき奈緒の肩に手をかけて呼び止めた男がただのピアノ教室での知り合いで、奈緒にはその男に対する特別な感情は何もないと知って胸を撫で下ろした僕は、いつもよりリラックスして奈緒と会話することができた。
「何で奈緒人さんがコンクールのこと知ってるんですか?」
いろいろとお互いのことを質問しあう時間が一段落したときに、奈緒が思い出したように尋ねた。そこで僕は種明かしをした。志村さんの情報だということを知った奈緒は、自分が載っているWEBページのプリントを見せられて驚いていた。
「写真まで載ってたんですね。初めて見ました」
そう言って奈緒は自分の記事をしげしげと眺めていた。
偶然に出会って始まった土曜日の午後のデートだったけど、この出会いで僕は奈緒のことが大分わかってきたし、奈緒にも自分のことを教えることができた。
奈緒も僕も離婚家庭で育った。幸いなことに奈緒は再婚した両親のもとで幸せに普通の暮らしをしているみたいだし、明日香のことを除けば僕だってそうだった。
でもここまで境遇が似ていると、奈緒が言う運命の人っていうのもあながちばかにできないのかもしれなかった。
話はいつまでたっても尽きないし、ここでもっと奈緒とこうしていたいという気持ちもあったけど、そろそろ帰宅する時間が近づいてきていた。曇った冬の夕暮れは暗くなるのが早い。窓の外はもう完全に暗くなっている。
「そろそろ帰ろうか。結構暗くなって来ちゃったし」
僕の言葉に奈緒は顔を伏せた。
「そうですね。もっと時間が遅く過ぎればいいのに」
「また月曜日に会えるじゃん。あと、よかったら今日家の近くまで送っていくよ」
奈緒が顔を上げた。少しだけ表情が明るくなったようだった。
「本当ですか?」
「うん。君さえよかったら」
「はい・・・・・・うれしいです」
「じゃあ、そろそろ出ようか」
僕は伝票を取って立ち上がった。
僕たちは寄り添って帰路に着いた。さっきファミレスではあれほど話が盛り上がって、僕のくだらない冗談に涙を流すほど笑ってくれた奈緒だったけど、駅に向う途中でも、そして電車が動き出した後も彼女はもう自らは何も話そうとしなかった。
奈緒はただひたすら僕の腕に抱きついて身を寄せているだけだった。
週末の車内は空いていたので、僕たちは寄り添ったまま座席に着くことができた。奈緒は黙って僕の腕に抱きついているだけだったけど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。
「・・・・・・この駅です」
途中の駅に着いた時奈緒が言った。
「じゃあ、途中まで送って行くね」
奈緒はこくりと頷いた。
さっきのピアノ教室があった駅と同じで、駅前は完全に住宅地の入り口だった。何系統もあるバスがひっきりなしに忙しく駅前広場を出入りしている。
「こっちです。歩くと十分くらいですけど」
「うん」
「もっと家が遠かったら一緒にいられる時間も増えるのに」
奈緒がぽつんと言った。
僕の腕に抱きついて顔を伏せているこの子のことがいとおしくて仕方がなかった。僕にできることなら何でもしてあげたい。僕は奈緒に笑顔でいて欲しかったのだ。
閑静な住宅街であることはさっきのピアノ教室と同じで、奈緒の家がある街は綺麗な街並みだった。
道の両側に立ち並ぶ瀟洒な家々からは、暖かそうな灯りが洩れて通りに反射している。
「あの角を曲がったところです」
奈緒が言った。
「じゃあ、僕はこの辺で帰るよ」
奈緒は僕の腕から手を離した。そして再び黙ってしまった。
僕は奈緒の両肩に手をかけた。彼女は目を閉じて顔を上げた。僕は奈緒にキスした。
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