奈緒人と奈緒
@Yoji_T
第1部 第1話
僕はその日の朝、普段より早く起き過ぎってしまったのだった。
母さんを起こしたくない。ベッドを出た僕は反射的にそう思って、音を立てないよう爪先立って、僕と妹の部屋が並んでいる二階の廊下を通って階下に降りようとした。
この時の僕は熱いコーヒーを飲みたかった。冬の身が凍るような早朝のことだったから。
妹の部屋の前を通り過ぎようとした時、その部屋のドアが少し開いていることに 気づいた。 何気なくドアの向こうを覗くと、妹がだらしない姿勢でベッドの上にしどけなく横になっている姿が目に入った。
妹は剥き出しの腕を伸ばしたまま仰向けに寝ていて、普段はうざいくらいに口うるさくやかましいことが嘘のような子どもっぽい表情だった。
妹の部屋から暖房の熱気が漏れ出していた。またエアコンを付けっぱなしで寝たのだろう。こいつは何をするにもこういう具合にだらしない。
暖房のせいで暑かったのか、妹はTシャツとパンツしか身にまとっていなかった。子どもっぽいあどけない表情を裏切るように、成長中の妹の肢体が目に入ったけど、僕は慌てて目を逸らした。
こいつの体を見つめているところなんかを、こいつに見られたらどうなるのかは、僕にはよくわかっていた。以前にも同じようなことがあったからだ。
こいつはわざとらしい悲鳴をできる限りの声量でわめきたて、何事かと駆けつける父さんと母さんに対して「お兄ちゃんがあたしの裸を覗いたの」と騒ぎ立てて訴えるのだ。
そんな騒ぎは二度とはごめんだった。僕は妹から目を逸らして妹の部屋を通り過ぎて階下に降りた。
思ったとおりこの時間の朝のキッチンには、いつもは家中で一番早く起きる母さんの姿はなかった。
僕はやかんに少しだけ水を入れてコンロに火をつけた。このくらいの量の水ならすぐに沸騰するだろう。
早起きしてしまったせいで登校するまでにはまだ時間が十分あった。何でこの日だけ早起きしてしまったのかはわからないけど、その恩恵には十分にあずかれそうだった。
僕は父さんのことも母さんのことも嫌いではない。この二人から高校生活のことや部活のこととかを質問されながら朝食の時間を過ごすのも悪くはない。
ただし、それは妹が一緒に食卓についていなければだ。
あいつがいると、僕のこの間のテストの成績を誉めようとしてくれた母さんは口をつぐみ、部活のことを楽しそうに聞いてくれている父さんまで黙ってしまう。
要するに妹がいると、父さんと母さんは僕とまともに会話できなくなってしまうのだ。
あいつはこういう時いつも僕の話に水をさす。「お兄ちゃん(と両親の前では昔のように妹は僕のことを呼んでいた。二人きりのときはあんたと呼ぶか人称さえないことが普通だったけど)のことばっか話すよね、ママとパパは。どうせあたしはお兄ちゃんみたいないい子ちゃんじゃないし成績もよくないよ。でもだからといってあたしのこと無視しなくてもいいじゃない」
こうなると父さんと母さんは気まずそうに僕から目を逸らして黙ってしまうのだ。
だからせっかくたまに早く目を覚ました朝なんだし、朝食抜きでお湯が沸いたらコーヒーだけ飲んでさっさと高校にでかけてしまおう。
そう考えると、僕は早い時間にも関らず少し焦ってきた。誰も起きる前にメモを残して家を出なければならない。メモには用事があるから早めに登校しますと書いておけばいいだろう。
そこまで考えたときにやかんがピーッと鳴ってお湯が沸いたことを告げた。
僕はインスタントコーヒーの粉を入れたマグカップにお湯を注ぎ、リビングのソファに座ってテレビを点けた。早朝の天気予報が画面に映し出される。
今日は突然集中的に雨が降ることがあるらしい。窓の外の冬の朝の様子からは降雨の予感は少しも感じられないけど、天気予報で気象庁がそう言っている以上傘を用意した方がよさそうだ。突然の雨とかまるで夏のようだ。
僕はコーヒーを飲み干すと、カップを流しに片付けてから登校の準備にかかった。顔を洗って歯を磨き、制服に身を通してもまだ家族が起きてくる様子はなかった。
着替えるのとカバンを取るために一度自分の部屋に戻る途中で妹の部屋をちらっと眺めたけど、妹は相変わらずだらしなく、でもしどけない格好で自分の体を晒しながら寝息をたてていた。
僕はこの日、両親には用事があるので早く登校するというメモだけをテーブルに残して家を出た。
今朝は偶然に早起きしたせいで、妹と顔をあわせずに済んでよかった。
僕は駅への坂道を下りながら思った。僕がいないだけなら、両親と妹はそれなりにうまくやっていける。ちょっと早起きして早出するだけで、両親も僕もそして多分妹も朝から余計なストレスを感じずにすむのだ。
父さんだけではなく母さんも仕事を持っているのだし、朝から嫌な想いなんてしたくないだろう。それでも懲りずに妹の前で僕に話しかけてくれる父さんと、特に母さんには僕は感謝していた。
駅に向う坂道の途中で僕はほほに雨滴を感じた。雨が降るようには思えなかったけど、天気予報は正確なようだった。
でもこの程度の小雨のうちに駅まで辿るつけるだろうと僕は思った。傘は持っていたけど開かずに済むならその方がいい。
僕は込んだ電車の中で濡れた傘を持つのは嫌いだった。濡れた傘が自分の足にべっとりとついてズボンが濡れることも嫌だったけど、それ以上に他人の服に自分の濡れた傘が当たるのも気が引けて嫌だった。
でも込み合った電車の車内ではそれを回避するのは難しかった。
もう少しで駅が見えてくるところで、突然アスファルトとの路面に雨が叩きつけられる音が響き出した。結構な雨量だった。
傘を開こうとしたとき、目の前に電車の高架下のスペースが目に入った。とりあえずあそこなら雨には打たれない。そこまで行ってから傘を開こう。僕は高架下の濡れない場所に向かって走り出した。
そこには先客がいた。
僕はその女の子を呆然として眺めた。
華奢な肢体。背中の途中くらいまで伸ばした黒髪。セーラー服に包まれた細い体つきの女の子。
高校生くらいのその子は、戸惑ったように高架下から雨の降りしきる景色を眺めていた。これでは傘がなければここから動くこともできないだろう。
それまで彼女だけしか存在しなかったその空間に迷い込んだ僕は、自分の傘を眺めた。とりあずこの傘を開けば駅まで辿り着ける。天気予報を見ていてよかったと僕は思った。
その時、誰かが高架下に入ってきたことに気がついた女の子が振り返って僕の方を見た。それで初めて僕はその子の顔を見ることができたのだった。
それは僕がこれまで実際に会ったことのないほどの美少女だった。これまで僕は女の子と付き合ったことはなかったし、年頃の女の子については妹のだらしない生活ぶりを目の当たりにしていたおかげで、全く幻想を抱いていなかったけど、その朝その子を見た時、僕の中で何かの感情が揺り動かされた。
普段から女の子と話すことが苦手な僕には考えられないことだったけど、僕はその子と視線を合わせた時、自然に彼女に話しかけることができた。
「君、傘持ってないの?」
僕の言葉に彼女は戸惑った様子だった。でも彼女は思ったよりしっかっりした声で僕に返事をしてくれた。
「あ、はい。今日は雨が降るなんて思わなかったから」
彼女の表情は僕に気を許したものではなかったけど、決して警戒しているものでもなかった。
「君も駅に行くの?」
僕は彼女に聞いた。
「はい。でも駅まで行く途中で濡れちゃいそうで」
「じゃあ駅までしか送れないけどそれでもよかったら一緒にどうですか」
その女の子の顔に一瞬だけ警戒しているような表情が浮かんだけど、彼女はすぐにその表情を消した。
「いいんですか?」
「うん」
この時の僕は、少女の整った可愛らしい顔を呆けたように眺めていたに違いない。
「多分降りる駅が違うから、そこの最寄り駅までしか送れないけど、それでもよかったら」
「ありがとう、じゃあお願いします」
女の子が言った。
「駅まで行けば売店で傘を買えると思いますから」
僕は傘を開いて彼女の方に差しかけた。彼女は遠慮がちに僕の方に身を寄せてきた。
その朝、僕は偶然登校中に出会った女の子を駅まで送っていったのだった。
彼女と出合った場所から駅までは十分もかからない。駅に着くまでの間、僕は何を話していいのわからなかったし、傘に入れたくらいで馴れ馴れしく振る舞う男だと思われるのも嫌だった。
そして彼女の方も特に何を話すでもなかったので、僕たちは傘に強く降りかかる雨の中を無言のまま駅に歩いて行った。
駅の構内に入ると傘を叩いていた雨音が突然途切れ、通勤通学客でにぎあう構内の騒音が僕たちを包んだ。僕は傘を閉じた。そのままお互いにどうしていいのかわからない感じで、僕たちはしばらく黙ったまま立ちすくんでいた。
やがて彼女は僕の側から離れ恐縮したようにお礼を言ってから、僕とは反対側のホームに向うエスカレーターの方に去っていった。
僕はその場に留まってしばらく彼女の方を眺めていた。
その時ふいにエスカレーターに立っていた彼女がこちらを振り向いた。少し離れた距離で僕たちの視線が絡み合った。
僕が狼狽して彼女から視線を逸らそうとした時、初めて少し微笑んで僕の方に軽く頭を下げている彼女の姿が僕の目に入った。
学校の最寄り駅に着いて電車を降りる頃には、突然の雨はもう止んでいた。その雨は天気予報のとおり突然集中的に振り出し、突然降り止んだようだ。
これが夏ならこういうこともあるだろうけど、十二月もそろそろ終るこの季節にこういう天気は珍しい。
でも夏と違って雨の後に晴れ間が広がったりはせず、天気は雨が降り出す前の暗い曇り空に戻っただけだった。
僕は閉じたままの傘を抱えて学校に向う緩やかな坂道を歩き出した。
確かに嫌な天気だったけど、あそこで突然に強い雨が降り出さなければ、僕があの子を傘に入れて駅まで寄り添って歩くこともなかったのだ。
今思い出そうとしても、今朝出会った少女の顔ははっきりと思い浮んではくれなかった。無理もない。最初にこちらを驚いたように振り向いた時以外は、僕は彼女の顔を直視できなかったのだから。
それでも僕は、名前すら知らない少女に惹かれてしまったようだった。ただ、その甘い感傷の底の方には、ひどく苦い現実が隠されていたことにも気がついてはいた。
いくら僕がさっき出合った少女に惹かれようが、その想いには行き場がないのだ。僕は彼女の名前も年齢も学校も知らないまま、彼女と別れたのだから。
時折思うことだけど、僕がこんなに内向的で自分に自信のない性格でなければ、例えば同級生の渋沢のように相手の女の子にどんなにドン引きされても図々しくメアドを交換しようとか積極的に言えるような性格なら、ひょっとしたら今頃僕は今朝出合った少女のアドレスを手に入れていたかもしれない。
そして僕がそういう社交的で積極的な性格に生まれていたら、ひょっとしたら妹との関係だって今とは違っていたかもしれない。
あの妹だって、理由もなしに僕のことを毛嫌いしているわけではないだろう。多分うじうじしていてはっきりしない僕の性格を、妹は心底嫌っているのではないか。
でもそれは考えても仕方のないことだった。
「何でそんなに暗い顔してんだよ」
教室中に響くような声で、渋沢が話しかけてきた。いつもより早目に教室に入ったせいで、登校したた時には教室内にはまだ誰もいなかった。
それで僕は自分の席でさっきの少女との出会いを思い返していたのだけど、そんなことをしている間に、いつのまにか登校してくる生徒たちで階段教室は一杯になっていた。
僕は隣の席に座ったばかりの渋沢の方を見た。
「何でもないよ。つうか僕、暗い顔なんてしてるか?」
「してるしてる。おまえってもともといつも暗い顔してんだけどよ。今日は特にひどいよ」
「まあ、昨日もちょっと家で揉めたからね」
僕は少し苦々しい声でそれを口に出してしまったようだった。渋沢の表情が真面目になり声も少し低くなった。
「それは悪かったな」
「いいよ、別に」
「おまえ、また義理の妹と喧嘩したの?」
「僕は別にそんな気はないけどさ。あいつがいつもみたいに突っかかって来たから」
「それでまた気まずくなちゃったってことか」
「まあね」
そこで渋沢は少し真面目な顔になった。
「前にも聞いたけどさ。何でおまえの妹ってそこまでお前のこと毛嫌いするのかね。ここまで来ると、おまえが言ってたみたいにおまえの性格が気に入らないだけとも思えねえよな」
「知らないよ。あいつに嫌われてるって事実だけで十分だろ。原因なんてあいつが言わなきゃわかんないし」
「ひょっとしたらさ。そういうおまえの淡白な態度に問題があるじゃねえの」
「・・・・・・どういうことだよ」
「うまく言えねえけどさ、おまえの妹って何かおまえに気がついて欲しいこととかがあって、わざと突っかかって来てるんじゃねえかな」
それが正しいかどうかはわからないけど、渋沢の言っていることについては、僕もこれまで考えたことはあった。
あいつが何かを訴えている? そのために僕に辛く当たっている?
そうだとしても僕にはあいつが僕に訴えたいことなんか見当もつかなかったのだ。
「ひょっとしたらさ。おまえの妹って、おふくろさんとおまえの親父の再婚のこと面白く思ってないんじゃねえのかな」
それは僕もこれまで何度も考えてきたことだったから、それについては僕は渋沢に即答できた。
「それはない。あいつは僕の父さんとは普通に仲がいいんだ。だからあいつが僕を嫌っているのは父さんたちの再婚とは別の話だと思う。だいたい再婚って言ったってもう十年くらい前の話しだし」
「じゃあ、やっぱりおまえに原因があるんだ」
渋沢がさらに話を続けようとした時、教授が教室に入って来た。
渋沢に義理の妹の話を持ち出されて僕は思わず真面目に答えてしまったけど、妹の態度については昔からなので、僕はそのことについては半ば諦めていた。
妹とのことは別に今に始ったことではない。僕には、どこかで僕とは無縁に生活しているはずの実の母親の記憶はないし、物心ついた頃から今の家族と一緒に生活してきた。だから僕は母さんが自分の本当の母親ではないなんて考えたこともなかった。
去年のある夜、僕と妹が両親に呼ばれて初めて事実を告げられた日、僕はその時に自分の本当の母親が他にいることを知って動揺したのだけど、妹はその時もその後も別にたいして悩んでいる様子はなかった。
きっと妹は前から知っていたのではないか。僕と妹が本当の兄妹ではないことを。
普通に考えれば両親が再婚した時、妹は僕以上に幼かったのだから彼女が真実を覚えていることは考えづらういけど、親戚か誰かに聞いていたのかもしれない。
だから去年、両親から僕たちが本当の兄妹ではないことを知らされたそれ以前から、妹は僕のことを嫌っていたのだろう。再婚に反対してではなく、多分実の兄妹なら許せることでも、赤の他人である僕の優柔不断な性格が妹の気に触っていたのかもしれない。
でもそのことは去年から考えつくしていたことだったし、今さら授業中に悩むようなことではない。授業に集中できない僕がその日一日中考えていたのは、妹のことではなく今朝出会った少女のことだった。
ほんの一瞬だけ僕の人生に現われた少女。でも僕と彼女の関わりはその一瞬だけだ。
彼女のこの先の人生に登場する人物の中に、僕の名前はないのだ。そしてもう二度と僕は彼女と会うことはないだろうし、たとえ偶然に出会ったとしても無視されるかせいぜい黙って会釈されるかだろう。
以前、音楽の授業でボサノヴァの旗手、アントニオ・カルロス・ジョビンのイパネマの娘という曲を聴いたけど、そのときに教わった歌詞が今の僕の心境にぴったりだった。
そんな自虐的な考えを、僕はその日一日中繰り返していたのだった。
授業が終わり部活に行こうとしている渋沢に別れを告げると、僕は学校を出た。
僕が自宅に着いてドアを開けようとした時、逆側からそのドアが開き妹が出てきた。
妹は相変わらず普通の高校生とは思えない派手な姿だった。
爪には変な原色の色彩が施され、冬だというのにすごく短いスカートを履いている。アイシャドウも濃い目、手に持っている小さなハンドバッグはラメが一面にごてごてと派手に刺繍されているものだ。
僕は思わず、今朝出会った彼女のことを思い出して妹と比較してしまった。多分彼女も妹と同じで高校生くらいだと思う。
はっきりとは見ていないので確かとは言えないけど、彼女は目の前の妹と違って普通に清楚な少女だった。それは短い僅かな言葉のやり取りにも表れているように僕は思った。
何で同じ高校生なのに妹と彼女はここまで違うのだろう。僕はそう思った。
でも今はトラブルは避けたい。ただいまとだけ妹に向ってもごもご呟いた僕は、これからどこかに遊びに行く様子の妹を避けて家の中に入ろうとしたその時だった。
「あんたさ」
妹が僕に話しかけてきた。
「今朝どっかの女と相合傘してたでしょ」
行く手を遮るように僕の正面に立った妹が言った。
「何でおまえが知ってるの」
いきなりの奇襲に面食らった僕は、何とかそれだけ言い返すことができた。
「何でだっていいでしょ。あれあんたの彼女? つうかキモオタのあんたにも相合傘するような相手がいるんだ」
最初、僕は正直に偶然出会った女の子を駅まで傘に入れただけだよと言い訳するつもりだったけど、悪意に満ちた妹の声を聞いているとそんな言い訳する気すら失われていった。
「それこそどうだっていいだろ。おまえには関係ないじゃん」
僕の言葉を聞いた妹は目を光らせた。いつもなら戦闘開始の合図だった。僕は少し緊張して立ちはだかる妹の方を見た。
「・・・・・・何じろじろ見てんのよ。そんなに女の体が珍しいの? 気持悪いからあたしの体を見るの止めて欲しいんだけど」
こんなやりとりは僕にとっては日常のことだ。僕は必死に自分の感情を抑えた。早く妹にどっかに行ってしまって欲しい。そうすれば僕は一人で心の平穏を保てるのだ。
「あんた、彼女いたんだ。あの子制服は着てなかったけど、高校生だよね」
僕はもう何も言わないことにした。むしろ早く家の中に入ってしまいたいけど、玄関前に立ちはだかる妹をどかそうとすれば彼女の体に触れざるを得ない。
僕に自分の体を触れられた妹がどういう行動を取るのかは、これまでの苦い経験でよく学んでいた。だから僕にはひたすら沈黙し、妹が出かけていってしまうことを待つことしかできなかった。
「その子もきっと無理してるんだろうな。会うたびに自分の体をあんたにじろじろ見られてるんでしょ? きっと」
妹は僕の反応をうかがうように僕を見た。
「だんまりかよ。まあいいや。今日父さんも母さんも帰り遅いって。あたしは出かけてくるから」
「ああ」
僕はそれだけ返事した。
「ああ」
妹は鸚鵡返しに僕の言葉を真似して言った。
「あんたコミュ障? ゲームの中の女としか喋れないわけ? そんなことないか。可愛い女子高生の彼女がいるんだもんね」
ひたすら言葉の暴力に耐えているとようやく妹は僕を解放してくれた。
そして妹はもう僕のことなんか振り返らずに、大股で雨上がりの夕暮れの中を駅前の方にずんずんと歩いていってしまった。
その夜、両親は帰って来なかった。あいつは父さんたちが今日遅くなると言っていたけど、多分正確な伝言は今日は帰れないだったのだろう。僕への嫌がらせに間違った伝言を僕に伝えたに違いない。
両親が帰って来ると思っていた僕はその晩夕食を食べ損ねた。キッチンにあったポテトチップスを少し食べて空腹を紛らわせた僕は、そのままベッドに入って寝てしまおうと思った。
空腹のせいか、昨日に続いて今朝も早朝に目を覚ませてしまった。重苦しい気分で目を覚ました僕は、傍らで抱きついて寝入っている妹を見てぎょっとした。
何だ、これは。
妹は僕の脇に横たわってぐっすりと熟睡していた。さっき感じた重苦しさは、昨日妹に嫌がらせをされた精神的なものではないかと思っていたのだけど、実はベッドの中で妹の体重を支えていた身体的な重苦しさなのかもしれなかった。
妹の寝顔は彼女のいつものこいつの酷い態度と異なって、子どもっぽいものだった。昨日こいつの部屋で覗いた妹の表情と同じだった。
何で妹が僕のベッドにいて僕に抱きついているのかはわからない。でもこのままこいつが目を覚ませば、自分の行為はさておいて、僕に無理矢理レイプされたくらいのことを両親に言いかねない。ひょっとしたらそのためにわざと僕のベッドに入ってきたのかもしれない。
僕は妹を起こさないよう極力そっと自分のベッドから抜け出した。そして、そのまま着替えと学校に持っていくカバンだけ持ってリビングに向った。
やはり両親は昨晩は帰宅していないようだった。僕は朝食もコーヒーも全て省略し、急いで制服に着替えて家を出た。
何とか妹の罠から脱出することができた。駅に向かっているとようやく僕は緊張から開放されるのを感じた。
妹の理不尽な態度に酷い目に会ったのこれが初めてではないけど、ここまで直接的な嫌がらせをされたのは初めてだった。でも僕は幸いにもその罠にかからずに済んだのだった。
僕が妹のことを考えながら駅前の高架下を通り過ぎようとした時、誰かに声をかけられた。
「あの・・・・・・おはようございます」
僕はその声の方に振り向いた。
昨日出会った場所に真っ直ぐに立って僕に声をかけたのは、二度と会うことがないだろうと思っていた昨日の少女だった。
突然のことに声を失っていると彼女は僕の方に寄って来て言った。
「お会いできて良かったです。会えないんじゃないかと思って心配してました」
彼女は僕の方を見て微笑んだ。
「ああ、偶然だね」
その時、僕は彼女に再び会えたことに驚いて呆然としていたのだけど、何とか間抜な返事をようやく口にすることができた。
「偶然じゃないんです」
相変わらず僕に微笑みかけながら彼女は僕の言葉を否定した。
「昨日はちょっと急いでいてちゃんとお礼を言えなくて」
「お礼って・・・・・・傘に入れただけだよ」
「どうしようかと思って困っていた時に、傘に入らないって自然に声をかけてくれて本当に嬉しかったんです。でもあの時は何か照れちゃってずっと黙ったままだったし。だから偶然じゃないんです。ひょっとして同じ時間にここにいればまたお会いできるんじゃないかと思って」
「じゃあ、わざわざ僕を待っていてくれたの?」
これは恋愛感情ではないかもしれない。でも一度だけ、それも十分程度傘に入れた男に会うためにここまでする必要なんてあるのだろうか。
「はい。無駄かもしれないと思ったんですけど、お会いできて良かったです」
彼女は頭を下げた。
「昨日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
僕も頭を下げた。大学生の男と多分高校生の少女が向かい合って頭を下げあっている光景は、傍から見たらずいぶんと滑稽な様子に見えたに違いない。
多分彼女も同じことを考えていたのだろう。頭を上げた彼女は再び恥かしそうに微笑んだ。
だいぶ緊張がほぐれてきた僕には、普通に彼女に話しかける余裕が戻って来たようだった。
「君さ。昨日はずいぶん急いでいたみたいだけど、今日はこんなところで話していて学校は平気なの?」
僕は昨日に引き続き、普段よりもずいぶん早く家を出たから別に急ぐ必要はなかったけど、彼女は昨日の同じ時間に慌しく僕とは反対側の方向に向うホームに向っていたはずだった。
「あ、はい。大丈夫です。昨日は課外活動で朝早く現地集合だったんです」
そこまで詳しくは聞いたつもりはなかったんだけど、彼女は自分の事情を話し出した。
「だから昨日は雨のせいで遅刻しちゃいそうで急いでたんですけど、普段ならもっと遅い時間に登校してるんです。あとわたしの学校って昨日の集合場所とは反対の電車の方向なんです」
では彼女の学校は僕と同じ方向にあるのだろう。
ここまでの僅かな会話でも僕は彼女との距離が縮まっていくのを感じた。
・・・・・・誤解するなよ。
僕は改めて自分の心の中に警鐘を鳴らした。志村由里の時も今と同じような状況だったじゃないか。
親しげに僕に擦り寄ってきた志村さんの態度を誤解した僕は、ある日彼女に告白したのだ。
その時の彼女の返事やその時感じた喪失感は、だいぶ時間が経った今でも胸の奥に小さな痛みとして残っている。あの時志村さんは戸惑い、困ったような表情で僕に謝ったのだった。
「何か誤解させちゃったとしたらごめん。あたし君のこと嫌いじゃないけど、本当に好きなのは渋沢君なの」
しばらくして二人が付き合い出して、今ではいつも一緒にいる姿を見ることにも大分慣れてきた。慣れざるを得なかった。渋沢は友だちの少ない僕にとって唯一の親友だったから。
今の状況は志村さんの時よりもっと頼りない。額面どおりに受け取れば、礼儀正しい女の子が傘に入れてもらったお礼を改めてしたくて僕を待っていただけのことじゃないか。
そう考えようと必死になった僕だけど、一度胸の中に湧き上がった期待はなかなか理性の指示するとおりに収まってはくれなかった。
「そう言えばお名前を聞いていなかったですね」
少女が言った。
「わたしは、鈴木ナオと言います。富士峰女学院の高校二年生です」
それでは彼女は僕の大学より一つ先の駅前にある学校に通っていたのだ。確か富士峰は中高一貫校の女子校だった。
「僕は結城奈緒人。明徳大学の一年だよ」
僕も名乗った。でもこれで彼女の名前を知ることができた。
「あの」
再び彼女が言った。これまで冷静に話していた彼女は、少し紅潮した表情で僕の方を見上げた。
「図々しいお願いですけど、よかったらLINEとか連絡先を教えてもらっていいですか」
女の子に耐性のない僕にとってそれはとどめの一撃といってもよかった。自分への警鐘とか志村さんの時の教訓とかが、僕の頭の中から吹っ飛んだ。
僕と彼女はLINEのIDを交換した。その事務的な作業が終わると少しだけ僕たちの間に沈黙が訪れた。でもそれは決して気まずいものではなかった。
「そろそろ行きませんか?」
ナオが僕に言った。相変わらず僕に向かって微笑みながら。
「そうだね。同じ方向だし途中まで一緒に」
思わず言いかけてしまった言葉に僕は後悔したため、僕の言葉は語尾が曖昧なままで終ってしまった。
でもナオは僕の言葉をしっかりと拾ってくれた。
「うん、そうですね。同じ方向だし、ナオトさんとまだお話もしたいし一緒に行きましょう」
僕たちは目を合わせて期せずしてお互いに微笑みあった。
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