第31話

 空高く浮かぶ白い雲、青々と透きとおった空の群青を反射して美しく澄む広大な湖。


 湖のそばには貴族の別荘や美しい家々が連なり、奥に聳えるこの一帯で一番の名峰リーブラの白雪が陽光を浴びて眩く煌めいた。



「着いた……」



 ここは光輝の渓谷。


 私とグエンの旅の目的地だ。



「綺麗な街だね、絵画みたい」

「本当に……こんなところから見たのは初めてです」



 獣道を出た高台は街の中からは行くことができないようになっている。自領とはいえこの景色を見るのは私も初めてだった。


 これまで国内を旅してきたけど、自分で歩いたこともあってこの景色を見た感動はひとしおだ。


 ……なのに、私の心はこの景色を喜びきれなかった。



「……グエン」



 何度も触れた大きな手をそっと掴む。

 昨晩も触れ合ったはずの肌なのに、まるで別人になってしまったかのようなよそよそしさを感じた。


 ここを降りれば、私とグエンの旅は終わる。


 私たちは袂を分かち、それぞれのあるべき場所に戻って行くのだ。



「ティーニャ、ここまでよく頑張ったね」

「子供扱いしないでください。グエンがいなかったら私なんて、最初の街も出られなかった」

「子供扱いなんてまさか、昨晩あんなに大人扱いしたじゃん。それに、俺だってティーニャがいなかったらここまで来られなかった」



 その言葉に鼻の奥がツンと痛くなるのをグッと堪える。


 泣くことは許されない。だってこれは悲しいことじゃない。


 私もグエンも希望の目的地に到着した。お互いに一つの傷もない。私たちは両想いで結ばれている。そしてこれから、それぞれが自身の望み通りの行動を取ることができる。


 こんなに喜ばしいことはない。



「グエン、ありがとうございます。あなたに出会えてよかった」

「それはこっちのセリフだよ。ありがとう、ティーニャ」



 穏やかに細められた金の瞳をじっと見つめて、お互い頬を緩める。


 行かなければ、ここから街まではもう少しかかる。



「どこまで送ってくれるんですか?」

「そりゃティーニャのお家が許すところまでかな」

「ふふ、挨拶していきますか?」

「……未婚のお嬢さんに手を出したって知られたら殴られそうだからやめとくよ」

「その方がいいです」



 旅が終わる。私とグエンの関係も終わる。何もかもが旅の前に戻る。


 こんな何気ない会話も、グエンとティーニャの子供みたいな約束も、全部なかったことになる。



「ご挨拶はちゃんとした格好で伺いたいからね」



 一生来ないそんな瞬間を一瞬でも空想しては、虚しい気持ちに包まれる。



 私とグエンが結ばれて、姉様やアンリ、家族みんなが祝福してくれる夢みたいな幻。


 きっとグエンは姉様に詰められるのだろう、よくもうちの子を誑かしたわねって。そしてアンリは私たちを複雑そうに見つめて、兄様が渋々宥めて、お父様とお母様は⸺



 いや、余計な妄想はやめよう。



「グエンは宿に?」

「いや、友人がいるからそいつと合流するよ」

「ご友人……私もご挨拶したかったです」

「なかなか面倒なやつだよ、変わり者だし」



 友人……本当の友人か、それとも過激派のメンバーかどちらだろう。でももしかすると本当の友人が過激派のメンバーなのかもしれない。それくらい過激派は市民にも広がってるのだ。



「また今度、紹介してくださいね」

「うん、絶対ね」



 草を踏み締めて斜面を下るにつれて自然のざわめきは薄れ、人の営みの音が聞こえてくる。



 街はもうすぐそこだった。







「ジャックが……グエンが裏切っている?」

「はい、恐らくは」



 儀式の顛末を見届けるために光輝の渓谷を訪れると、一足先に着いていた革新派の一人、レイモンドから突然そう告げられた。

 が、私は意外なことに取り乱さなかった。


 街道を進んでいるとメンバーから情報があったのにもかかわらず、グエンは山小屋には来なかった。その時点で怪しかったのだ。


 もともとああいう英雄だのなんだの持て囃された人間はそれに慣れすぎたせいで自分に甘い。侯爵家にそそのかされたのか、それとも……



「あいつは元々金銭や身分に興味がない人間です。高級ホテルに2泊もして無駄金を使うようなタイプではありません」

「……女か?」

「はい、恐らくは」



 一向に足取りの掴めない乙女に、仕事をしないグエン。


 私とレイモンドに浮かんだ一つの可能性は、ずっと見逃してきた一人の人物についてだった。



「例の少年は本当に少年か」

「分かりません。目深に帽子をかぶっている上に身体の線も出ない服を着ているため……ただ、私がグエンの泊まっていた部屋に入ろうとするのをあいつは拒みました」



 一番あり得る話だった。

 思えばレイモンドが平野に入った直後からあそこでは検問が敷かれたという。誰かが情報を漏らしたと考えるのが筋だろう。


 もしもあの男が乙女に誑かされていたのなら、我々に見つけられるはずもない。乙女はあいつを隠れ蓑に儀式まで生き延びてみせたのだ。



「哀れな男だ。女に唆される男にロクな結末などないというのに」

「本当に、残念です……で、どうしますか」



 どうする?どうするも何もない。このままあいつが我々の情報をあちら側に漏らし続ければ我々の計画は頓挫してしまう。



「君には何もさせんよ。あんな男でも友人だろう。おい、君」

「はっ」



 そばに控える黒い男に声をかける。


 結局は身内が一番信用できるのだ。




「グエナエルとエグランティーノを殺せ」



 裏切り者の末路など、昔から一つしかない。








「この角?」

「はい、あの家です」



 俺の手を引くティーニャの背をぼんやりと眺める。


 傾いてきた太陽の光が彼女の髪を照らすと、毛先がキラキラと煌めいた。

 本物の黒髪ならあんな色にはならない。ティーニャが元の自分に戻るときがすぐそこまでやってきているのだ。



「じゃあ、俺はここまでにしとくよ」

「グエン……」



 光輝の渓谷の市場を抜けたところにある、中流階級の住宅地。その一番奥の突き当たりにあるのが侯爵家の用意した合流地点……ティーニャはここから屋敷へと戻るのだろう。



 この先は侯爵家の領域だ。

 別れを告げるようにティーニャから手を引くと、泣きそうな顔のティーニャと目があった。



「行きなよ……もう、泣かないで。別に今生の別れじゃないんだから」

「泣いてません、泣きそうなのはグエンです」

「俺だって泣いてないよ」



 震える手が懐から何かを出す、俺の騎士の勲章だ。


 俺自身すっかり忘れていたそれを大事に持ってくれていたティーニャから勲章を受け取って胸元のポケットにしまう。



 今にも涙が零れ落ちそうな瞳。その幻想的な輝きは、これまで見てきたどんなものよりも美しかった。



「ほら、家族が待ってる」



 立ち竦む肩を押す。

 名残惜しむように俺を見つめた後、ティーニャは家に向けてゆっくりと歩き始めた。



 そう、それでいい。一度も振り返らずに真っ直ぐに家に入るんだ。



「大好きです、グエン」



 小さく届いたその言葉を耳に焼き付ける。

 少しずつ離れて行くティーニャはこちらを振り返る素振りもないままに家へと近づいていった。



 ティーニャの手がドアノブを掴んだ瞬間、懐から黒く光るナイフを出して強く握り締める。



「俺も大好きだよ」



 殺すなら今が最後のチャンスだ。ティーニャも油断し切っているし、ここなら誰にも見られずにティーニャを殺せる。彼女と共にここで死ねば俺たちの関係を世に知らしめることができる。



 殺せる、今なら殺せる。あの細い無防備な首、俺が力を入れればひとたまりもないはずだ。



 そうして一歩を踏み出そうとして……できなかった。



「さようなら」



 一度もこちらを見ることなく、ティーニャは扉を開いて建物の中に消えて行く。


 その影を未練たらしく見つめて、俺は懐にナイフを隠した。



 呆気ない、これまでの日々はあんなにも濃かったのに最後はこんなにもあっさりとしているのか。



「はぁ……俺も帰るか」



 今日はもうレイモンドと合流しよう。

 ティーニャにも言ったように、俺たちは別にこれが今生の別れじゃない。


 次は満月の夜に会える。そう思えばなんだか普通の恋人同士のようにさえ思えて、思わず笑みが溢れた。



 踵を返して夕焼けに染まり始めた石畳の道ぼんやり西向きに進もうとして、オレンジ色の地面の中に黒い影があることに気づく。



「……お前は」



 その正体を見破る前に影が動く。


 まずい、と思ったときには既に遅くて、黒い影は俺を地面に押し倒すと俺の顔に何かを被せてきた。


 あぁ、しくじったな。油断してたのは俺の方だったなんて。



 そんな後悔をしたものの、せめてティーニャだけでも無事に送り届けられてよかったと思い直し、俺は意識を手放したのだった。


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