私を殺してフェアリーダイヤにキスをして

第1話

　昔、大陸が小国の集まりだった頃。肥沃な我が国は他国からの侵略にあい滅亡の憂き目を見た。

　勢力を増す侵略軍に国境が破られるという正にそのとき。北にある光輝の渓谷から一頭の美しい天馬が地上に舞い降りた。

　水晶の輝きを放つ天馬は最も清らかな心を持つ乙女と心を交わし、戦火から人々と国を守ったという。

　その後我が国は現在に至るまで繁栄の歴史を辿り、現在も天馬は国の守護神として信仰を集めている。

　そして巫女の末裔である北方の侯爵家。一族全員が美しい宝石の瞳を持つかの侯爵家には代々一人桃色の瞳を持つ「フェアリーダイヤの乙女」が生まれるといい、彼女が成人すると天馬に心を捧げ国の安泰を願う「天馬の乙女の祭り」が国を挙げて行われるのだ。

　そうすれば天馬の加護のもと国は安泰。乙女が老いても次代の乙女がまた天馬に心を捧げ、乙女たちは代々我が国を守護してくれるのである。

(『建国神話〜天馬の守護と乙女の心〜』第3章より)

「エグランティーノ、エグランティーノ。本を読むのはお終いにして、出立の時間よ」

「はぁい姉様」

　突然響いたノックに、何度も読み返した分厚い本をパタンと閉じる。ガチャリと扉を開けた音に目を向ければ、たっぷりとした銀髪を靡かせた姉様が私の荷物を抱えて部屋に入ってきた。

「あら、天馬と乙女の伝承？相変わらず真面目ね」

　カーテンを閉めて荷物を広げた姉様に急かされて用意してあった着替えに袖を通す。刺繍がふんだんに施された姉様のドレスと違い、私が着替えるのは男性用の簡素なシャツに武骨な黒のブーツだ。といっても別に虐待を受けているわけではない。

　私は今日から旅に出るのだ。しかも家族旅行とかじゃあない、人生で初めての自力での旅だ。

「あぁエグランティーノ、姉様は心配よ。この間まで子供だったあなたが一人旅だなんて。男性の格好をすればいいと言うけれど、こんなに可愛い子が男に見えるわけがないじゃない！」

「姉様……グレース姉様、安心して。私だってこの家の人間、自分の務めは立派に果たせるから」

　私の名前はエグランティーノ。北方の領地を守る光輝の渓谷の侯爵家の第三子で、天馬へ心を捧げる役目を持つフェアリーダイヤの乙女と呼ばれている。

　今は祭りの数ヶ月前、普段は都に住んでいる私は乙女の生誕地であるここ、錦鱗の港から儀式を行う我が領地、光輝の渓谷に向けて出発することになっていた。

　乙女だなんて大層な呼び名を持っていたら可憐な美少女を想像されることが多いのだけれど、実際の私は平凡な人間。

　恵まれた身長を持つスレンダーなグレース姉様と違い、中肉中背の私はただ目の色がピンクなだけ。しかも普段は普通の榛色の瞳なものだから、一見すると乙女なのかさえ分からないときた。

　つまり、お世辞にも姉様が心配するような可憐な美少女ではないのだ。

「あのねエグランティーノ、あなたを狙うのは祭りの阻止を狙う輩だけじゃないの。女に飢えた色情魔やスリに人攫い、沢山の犯罪者があなたが街に出るのを今か今かと待ってるのよ」

「大丈夫だって、私別に姉様みたいにナイスバディじゃないし。祭りを狙う人間にさえ気をつけておけば問題ないよ」

「エグランティーノ！」

　使用人に用意してもらったブーツを履いてベルトを締める。姿見に映る私はどこからどう見ても少年そのもので、思わずドヤ顔で姉様を見遣る。

「……せめて晒は巻いてちょうだい、女の子なんだから」

「はぁい」

　ため息をついて天を仰いだ姉様の言う通りシャツを脱いでささやかな胸を潰すように布を巻きつけていく。

　なぜ旅に出るのに少年の姿をするのかとか、貴族なのに一人で旅なんてあり得ないと思われるかもしれないがこれも儀式の一貫なのだ。

　乙女はペガサスと心を交わすため、家族や家の力を借りずに護衛なしで伝承の乙女と同じ道を同じように辿っていくという決まりがある。

　始まりは伝承の乙女の生誕の地である南部の錦鱗の港、そこから首都である東部の爛漫の都を経由して西部の豊沃の平野に向かい、最後に祭りと儀式の舞台であり我々の領地である光輝の渓谷に辿り着く。

　とはいえ女子の旅は危険だから、これまでは大々的に警護の代わりに周辺の道路を閉鎖していたりしたらしい。場合によっては行く先々で仲間を見つけて旅をした乙女もいるらしく、貴族ではないただの人間としての自分の力で辿り着けばとにかくオッケーくらいの緩い決まりだ。

　まぁ今年は儀式を阻止したい過激派⸺現体制の弱体化を狙う一派からの予告が来てるから封鎖とかも出来なくなっちゃったし、出立の見送りも姉様一人になっちゃったんだけど。

　そんな過激派がいるのに私がこの旅を心配していないのには理由がある。

「姉様、私の目何色に見える？」

「ん？いつも通り美味しそうなナッツの色よ」

　通常であれば生まれた時から死ぬ日までずっとピンクに輝いているはずの私の瞳は、普段は榛色に隠れている。

　生まれたその日はピンクだったらしいけど、それから一度も私の目が桃色になったことは一度もない。

　原因は分からないけど専門の術師によると確かに私の色はピンクらしいので儀式には問題はないし、単純に目立たないようにカモフラージュされているだけの可能性が高いらしい。

「こんな目の色で私が乙女だなんてわかる人がいるわけないよ。髪だって黒に染めたし」

　本来は姉様と同じ色をしていた髪は、今では鴉の羽と同じように黒々と色を変えている。

「それはそうかもしれないけど……」

「それにどんなに危なくても行かなきゃいけないんだから、頑張ってねって送り出してよ」

　そう言い募ると私の言葉に思うところがあったのか、姉様は驚いたように目を見開くとフッと表情を緩めて私を抱きしめた。

　女性らしい柔らかな身体に抱き寄せられて、私より少し高いその肩口に顔を埋める。

「しょうがない子……でもそうね、心配ばかりしていも何も始まらないわね」

　激励するようにパシンと思ったよりずっと強い力で背中を叩かれて思わず咽せそうになる。

　ゲホゲホと出てしまった軽い咳に手を当ててジト目で姉様を見れば、男装するならこのくらい耐えて見せなさいと厳しく返された。確かに、女性に背中を叩かれて咽せるようではいけない。

「ゲホッ、い、いってきます。姉様」

「立派に務めなさい、応援してるわ」

　優しい目に背を向けて部屋を出る。いつも住んでいる都の屋敷よりもずっと小さな民家は部屋を出たらすぐに玄関があって、小さく深呼吸をして扉を開ける。

「いってきます」

　廊下の影から姉様が小さく手を振る。人目につく玄関までは出てこられないので、姉とはここでお別れらしい。

　家を出る前に小さな鞄の中の地図と金銀銅貨を確認した。うん、大丈夫。

　最後に玄関の横の姿見で完璧な男装をチェックして、とうとう私は恐る恐る一歩を踏み出した。

　でこぼことした地面の感触に心が湧き立つ。

　外だ。私これから一人でこの国を旅するんだ。

　さんさんと降り注ぐ陽光を浴びた白いタイルの、人気の少ない道が眩しくて、私はまだ見ぬこの国の姿に心を躍らせたのだった。