欲望の墓

芥田

第1話

ノア・アボットはいい奴だった。ただ、しかし単純にそれだけではなかった。

友人として彼の生きた証を残したく、私は筆を取っている…と言いたいところだが、正直に書くと、彼の人生が、面白い読み物のネタになりそうだという理由で書いている。

チャールズ・ウィンブル。この男はノアが一番好いていた人物だったように思う。

ノアの生前は何度か顔を合わせただけだったが、彼の死後は時々会って話をしている。

まずこのチャールズという男は、へそ曲がりで、いつも退屈そうで、そのくせ生きる情熱を常に内に秘めていた。

ノアときたらその逆で、彼はいつも愉快そうに見えたが、生きることを冷めた目で見ているようだった。彼は自分が生きようが死のうが、心の底から、まるきり関心がなさそうな男だった。

チャールズとノアが再会したのは、ノアがこの世を去る2年前だった。

彼らの久しぶりの交友は、たったの2年間で終わってしまったのだ。

チャールズはその頃ひどく落ちぶれた暮らしをしていて、ロンドンの貧民街のクラブで似たような仲間と集まっては酒や賭け事をして日夜遊んでいた。決まった仕事はしておらず、時々知人からの仕事を請けて食いつないでいた。

しかしチャールズはどれだけ食うのに困っても決して物乞いなどはしなかった。この頃から非常にプライドの高い男だった。

彼がノアに再会したのはこの貧民街でだった。

「久しぶり、チャーリー」肩まで伸ばした黒い髪、それと同じ色の瞳を持った男だった。「ノアだよ。よく女みたいといじめられていた男さ」

それでチャールズは彼と気づいた。「ノア。ノアか」意外な客に目を丸くしたが、次の瞬間ノアの小綺麗な格好に顔をしかめた。「驚いたな。なんてったって君みたいな奴が僕なんぞに会いに、こんな腐ったところへ?」

ノアは彼のそんな態度に気づいているのか、気づいていないのか、感情が読めぬ顔で言った。「母を一緒に看取ってほしいんだ」

「母を?」チャールズは驚き、怪訝そうに眉をひそめた。「どうして僕なのさ?何年間も会っていなかった僕らは他人も同然じゃないか?それに当時だって大して親しくはなかったろ?」

ノアは悲しそうに肩を竦めた。「年数なんて何さ?僕は君を親友と思って声をかけたんだぞ」

意外な返事にチャールズは口元をぴくりと動かした。「親友?」

「ああ、そうさ。そりゃ君が来たがらないのなら、無理に連れていくのは無茶だ。そうだろ?だから僕は無理強いはしないさ。で、どうだい?来るのかい?来ないのかい?」

「そりゃまぁ急な話だもの、まずは座れよ…」チャールズは彼のために椅子を引いてやった。「親父、コーヒー」

「ミルクと砂糖を入れてくれ…ぬるめでね。猫舌なもんでさ」

突然押しかけて突拍子もない頼み事をし、コーヒーにうるさく注文をつけるこの男に、なんだかチャールズはイライラしてきた。しかし同時に恐ろしくもあった。

目が合うと人懐こそうに笑うのがまた癪にさわったし、不気味だった。ふたりは向かい合わせに座った。チャールズは残っていたコーヒーをちびちびと啜りながらノアの顔を上目に見ていた。

「どうしてそんなに怖い顔をしているんだよ?」

「どうして僕に会いに来たのか説明してくれ」

「だから、看取りを一緒にしてくれと頼むためだって」

「どうして僕でなくてはいけないんだよ?」

「尋問か?そんなに怖い顔をするなったら…。ぜひとも君がいいんだよ。急に君に会いたくなったんだよ。理由なんて無いよ」

チャールズはこの返事に参ってしまい「妙だな」とひとこと言うに留め、またノアを睨みつけながらコーヒーを飲んだ。

ノアの分のコーヒーが届き、ノアはウェイトレスに礼を言う。「で、来るの?来ないの?」

「だから…こう見えて僕も忙しいんだ」

「君、仕事をしていないんだろ?どうして忙しいのさ?」

「どうして仕事が無いとわかる?」

「ここの連中が会社で使われているとは思えないからね」

「貴様、バカにしているのか?」

「いやいや、僕がここの人たちを観察した感想だよ。どうやら社会からあぶれた連中ばかりと見た。君も今はそうなんだろ?」

チャールズは唇を噛み締めて黙っていた。ただじっと恨めしそうにノアを睨んでいた。

「来いよ、チャーリー」

「僕をチャーリーと呼ぶな」

「チャールズ、来いよ」ノアはチャールズの手を取ったが、チャールズはすぐにそれを振り払った。次の瞬間ノアは泣き出しそうになって懇願した。「頼むよ。一緒に来てくれ」

「自分の母親の看取りだぞ。どうして僕に?」

「ぜひとも一緒にいてほしいんだよ」

「だから…納得がいかないんだよ」ノアの勢いに、チャールズは一瞬たじろいだ。

「いいんだ。いいんだよ、それでも…いいだろう?頼むよ」縋るようだったノアの語気は次の瞬間熱を帯び、チャールズは気圧された。「来る気があるのかないのか、重要なのはそこだけだよ!頼むよ、僕が頼れるのは君だけなんだ」

チャールズは腕を組んで黙って考え込んだ。

じっと黙っていたノアが、やがて怯えるような小さな声を絞り出した。「頼むよ、親友だろう?」

チャールズは顔を引きつらせた。「僕が行かないと言ったらどうするつもりなんだ?」

「なに、そう言われたら悲しいが…仕方がない。ひとりで看取るよ」

ノアが自分に向けている感情の正体がわからず、チャールズは気味が悪かった。なんだかわからないが執着されている。そう感じた。かかわり合いにならない方がいい。本能でそう感じたのに、気がついたら「何日ある?」と聞いていた。

ノアは母の死期が近づいているというのに声を弾ませて「あと半年くらいだと言われているよ」と答えた。

チャールズはとにかくさっさと二人分の勘定を終えてしまって、まるで熱に浮かされたような調子で「ではその辺りに、また来てくれよ…」と帰ろうとした。

するとノアは「ダメダメ、君はうちに泊まるんだよ」と素早くチャールズの腕を掴んだ。逃げられては困るという印象だった。

チャールズは顔をしかめる。「なに?」

「うちへ泊まるんだ。母がいつ逝ってしまうかなんてわからないだろ?それにどうせ君の家ったって大したものじゃないんだろうし。うちの方がよっぽどいいよ。しっかり3食出すよ、デザートだって。いくらでものんびりしていていいさ」まるでセールスのようにベラベラと、突っかかりなく喋った。その間チャールズは忙しなく表情をころころと変えた。わかりやすく不愉快そうにしたり、微かに口角を上げたりした。

チャールズには言いたいことは山ほどあったが、彼はそれらが同時に口をついたのか、口をもごもごさせただけだった。

ノアが顔を寄せて聞き返すと、次は「まぁ…それなら」とそれでも煮え切らない返事を返した。実際チャールズにとって、3食デザート昼寝付きの突然の同居は魅力的な提案だった。

ノアは彼がそれだけ言ったのを聞くと見るからに愉快そうに「決まりだ!あぁ待って、君は僕の分まで払ってしまったのかい?ダメだよダメ、そんなに気取るなよ。お金は大事にここに…。しまっておかなくちゃ。じゃ、行こう!」と、『ここに…。』と言ったところでチャールズのコートのポケットに多めに金をねじ込んだ。チャールズは始終この男が不気味だった。何故母の死期が近いのにも関わらず、こんなにも上機嫌になれるのか。

「ノア。君は…君のお母さんを愛していないのか?」

「え?愛しているよ。」ノアは当然のように答え、きょとんとした。その言葉はチャールズには誇らしげにも聞こえた。

チャールズの謎は深まるばかりで、それから彼は黙ってしまったが、ノアは喋り通しだった。

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欲望の墓 芥田 @chitose0

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