間章1

大前滝野(前編)

 前足を下ろした直後、肩の中で何かが剥がれる音を聴いた。

 慣性のままに腕を振り抜き、彼女はその選手生命を絶った。



         **



 そぼ降る雨が煙のように街を包む十一月の夜だった。


「引退……ですか」


 テーブルの上のたい焼きの箱に伸ばしかけた手がぴたりと止まる。


「うん。それも選択肢ではあるね」


 コーチの穏やかな宣告が雑然とした休憩室に響いた。

 球団事務所に呼び出された滝野は引退勧告を受けていた。石油ストーブを焚いた室内は暖かい反面空気が悪い。換気したくて窓に目をやる滝野にコーチは症状を言い渡す。


「右肩腱板全層断裂。薄皮一枚も残っちゃいない。脚、腰とやらかしてきて、最後に肩にダメージが登ってきたね」

「そんな気はしてましたけど、やっぱりピッチャーはやめなアカンっすかね」

「その身体でフィールディングから一塁送球こなせる自信、ある?」


 温度差で結露した窓を音もなく大きな滴が流れ落ちた。

 舌打ちしたい気持ちを噛み殺し、ソファに座るコーチに向き直る。初老に近い彼のまなじりは温厚そうな皺を湛えている。

 投手として未熟だった自分を入団時から目にかけてくれた。

 フォームを改善し、球種を増やし、タイトル獲得を祝ってくれた。

 それから今に至るまで続く故障との闘いにも寄り添ってくれた。恩人の言葉は滝野にとって無視できない重みを宿している。


「自分で調べた限りだと、男子では復帰例もあるみたいすけど」

「続けようと思えば続けられる。けど『だけ』だと思ったほうがいい。別人になってプレイするようなものだと考えればわかりやすい」


 蛍光灯の白い光が逃げ場なく部屋一面を照らしている。滝野は数瞬目をすがめてからうつむき、片手で額を押さえた。母親譲りの亜麻色の髪が指の間で柔らかくたわむ。

 アジアカップの予選ラウンド最終戦で起こった故障だった。

 マウンドを降りて病院で手術を受けてからの数日間、引退の二文字を脳裏に浮かべながら不自由な日常を過ごした。

 だが、いざ突きつけられると何かの冗談ではないかと思えてくる。

 年齢は伸び盛りの二十四、体力は微塵も衰えちゃいない。ただ右の腕だけが肩に銛でも刺さっているかのように重い。


「すべてが順調にいって、試合で投げられるようになるまでに二年。仮に復帰できたとしても元のようなパフォーマンスは見込めない。そんなキミを望んで使う球団もまあ、たぶんそんなにない」


 パンダとしてなら別だけどね、と付け加えてコーチは腰を上げる。彼は備えつけの簡易キッチンで安物のケトルに水を入れた。続けて棚からカップと小袋のインスタントコーヒーを取り出す。フルーティな酸味が特徴的な、滝野も気に入っている銘柄だ。

 トタン屋根を叩く雨音が会話の途切れた一室に降り落ちる。

 コーヒーが入るのを待たず、滝野は卓上のたい焼きをつまんだ。紙を噛んだかのように味気ない。自身の失調に少し驚く。

 湯気の立つカップをテーブルに置き、コーチは再びソファに座った。


「どう? 続ける価値、感じる?」

「……とりあえず、引退した場合について話してもらってもええですか」

「了解」


 文字通り半身をもがれたような心地で滝野は話を聞く。


「引退後のセカンドキャリアはざっくり三つに大別される。球団内就職、外部企業就職、そして社会人野球。大前ちゃんの場合は前ふたつだね。どちらか選んで決めてもらう」

「うす」

「大前ちゃんは人気選手だし、世界大会WBSC連覇の立役者でもある。僕としても球団側としてもできる限り手厚く扱いたい。女子野球の興行が振るわないのはご存じの通りだけど、今までの活躍に相応の悪くない条件を示せると思う」

「球団職員ってのは具体的にどないな仕事をするんでしょう?」

「現場仕事かフロントだよ。けど、大前ちゃんはフロントからだろうね。キミの若さと経験でコーチやスカウトに転身は難しい。数年は営業や広報、総務関係の仕事に就いてもらう」


 並んだ単語に苦笑が漏れる。スーツを着てパソコンと向き合い、会議室でプレゼンなぞ行う。そんな自分の姿は想像しただけで恐ろしく滑稽だった。


「アタシにデスクワークなんて務まるもんですかね!」

「みんなそう言うんだよねえ。でもそう言いつつ、意外と全員まともにやってるもんなんだよこれが」


 コーチは柔和な微笑みを浮かべてコーヒーをひとくちだけすする。

 ひと括りにされたのが不愉快で滝野の眉間に浅い皺が寄る。


「コーチはアタシにどうして欲しいんですか」

「僕はもう何も押しつけないよ」


 変わらず平静な声で告げられた宣言に息が止まった。

 身体が揺れた拍子に固定した右肩から鈍痛が溢れ出す。


「故障については連帯責任だ。止められなかった僕にも、止まらなかったキミにも責任はある。だから僕は責任を持ってキミの選択を全力で応援する。けど、決めるのはあくまでキミだ。僕じゃあない」

「それこそ無責任と違いますか?」

「大前ちゃんももう大人でしょう」


 コーチの発言は正論だった。苛立ちを隠しきれずに滝野は靴の先でコツコツ床を叩く。まったく力が入らない右腕を抱くように左手で掴み、ニットシャツの上から爪を立てた。痛みは薄い。鎮痛剤は効いている。


「大事なのは大前ちゃんがどうしたいか、どう在りたいかだよ」


 やんわりとしたコーチの言を受けて滝野は沈思黙考する。

 いずれにせよ変化は避けられない。

 壊れた身体で無様に野球を続けるか、支える側に回るか。

 どちらの自分に、変質するか。


「……」


 カップから芳しい湯気がくゆる。滝野はコーヒーに口をつけた。鎮痛剤の副作用とカフェインが頭蓋の内で渦を巻いて、急激に思考が鈍く澱んだ。神経だけがやたらささくれ立つ。

 稲光めいた頭痛をやり過ごし、滝野は天井を睨みつける。

 不愉快だった。汚い空気も、まずいたい焼きも、蛍光灯も。感ぜられるものすべてが自分を攻撃している。胃の腑が煮え立つ。

 こみあげる嘔吐感をコーヒーで胃に流し戻し、空のカップを置く。

 滝野は考えることを止めた。


「決めました。アタシ、野球やめますわ」


 最悪な気分とは裏腹にその声は異様にからっとしていた。

 コーチの表情は変わらなかった。驚愕も歓喜も落胆もなく、じっと滝野の目を見つめていた。


「それはつまり、球団内就職ってこと?」

「聞こえませんでした? やめます。野球の一切から手を引きます。コーチと会うのも、もしかしたら今日が最後になるかもしれませんね」

「外部就職か。寂しくなるねえ」


 どれほど長く続いた関係であっても切れる時は一瞬だ。

 同じ場所にいるからつながっているだけの一過性の間柄。

 滝野はそういう仲しか知らないし、今後ことさら知る気だってない。


「惨めにグラウンドにしがみついて晩節を汚す奴はぎょうさんおる。アタシはごめんや。曲がって続けるくらいならここでバッキリ折れます」

「頑固だねえ」

「『大前滝野』はここで店じまい。客の期待に応えられへんのに看板を掲げ続けるべきやない。こんなん、客商売の世界では当ったり前の話ですわ」


 言い捨てて席を立った途端、すうっと胸に爽快な風が吹いた。人生で一番気持ち良いのは退職した瞬間と伝え聞く。望んで飛びこんだ世界だろうとその点はきっと同じなのだろう。

 自分で自分の幕引きを決める。見切りをつける。潔く退く。

 今の自分を卒業し、次なる新しいスタートラインにつく。


「五年間ありがとうございました。今までコーチに支えてもらったご恩は一生忘れません」


 動かしづらい右肩を庇いながら深々とお辞儀をする。


「うん、こちらこそ今までありがとう。保険とかの細かい手続きは後で事務さんから連絡入るから」


 つられるようにコーチも立ち上がり、滝野と同様に頭を下げた。

 面を上げて顔を見合わせると、どちらからともなく笑みがこぼれる。弛緩した空気が流れ始めた。滝野は内心安堵を覚えた。

 後悔は数えきれないほどある。けど満足も数えるほどはある。そうした清濁の感情を併せ持ったこの終わりの雰囲気は、滝野には存外優しく感じられた。これでいいのだ、とちゃんと思えた。

 軽くも重くもない足取りで事務所の戸口まで歩みを進める。

 先導するコーチが戸を開けると、湿り気を帯びた夜風が部屋に吹きこみふたりの前髪を揺らした。

 外に踏み出した滝野が新鮮な空気を肺いっぱいに吸いこむ。頬に降りかかる雨粒の冷たさが心地良くて両目をつぶる。

 傘をさし、別れの挨拶のために振り返った滝野にコーチが言う。


「大前ちゃんはそれでも野球を続けるって言うと思ってたよ」

「コーチってホンマデリカシーないっすね」

「そういう仕事だからねえ。いつでも待ってるよ」

 

 それから大前滝野がマウンドの土を踏む日は二度と来なかった。



         **



「とまあ、そういうわけで引退した」

「とまあじゃねえよ」


 ぶすり。


「痛った!」

「うおっ反射的に刺しちまった。この菜箸洗ってこいよ。あとビール」

「っざけんなこんアマ!? ってうおお熱い! 肩痛い! がーちくしょー!」

「うるせーなー」


 テーブルに身を乗り出した滝野が湯気の直撃に顔をよじらせる。食卓の中央に陣取っている吉田よしだ謹製鳥つくね鍋は卓上コンロの上でぐつぐつと火にかけられ熱気を立てていた。


「うー痛つつ……腕上がらんくなったら吉田のせいやからなー」

「言ってろ。おら、大前の分。おかわり欲しくなったら言え」

「おおきにー」


 たっぷり鍋がよそられた取り皿を滝野は片手でそっと受け取る。吉田がどっかと椅子にかけ直すと床が擦れる嫌な音がした。高い位置で束ねられたクセ毛の金髪がわさっと左右に振れる。

 吉田萌花もえかという女の暴挙は今に始まった話ではない。バッテリーのよしみでなし崩しで同居を始めてから長いものの、スラップスティックじみた蛮行は過去にも枚挙に暇がなかった。気の知れた仲ゆえの応酬だが、故障中くらいは控えてほしい。

 じとっとねめつける滝野の視線に気付き、吉田はふんと鼻を鳴らす。


「お前にしちゃ諦め良すぎだろ。なんで食い下がらないんだよ」

「コーチにも言われたわ。アタシってそんな野球星人に見えるんかな。いただきます」


 右手に持った箸で慎重に白菜をつまんで口へと運ぶ。金色に透き通った白菜はほの甘く、味が染みて美味しい。出汁取りと魚の処理に関して吉田の技は卓抜している。死んだ祖母に叩きこまれたらしい。

 ちっ、と舌を鳴らして吉田はロング缶のビールのプルタブを開ける。

 滝野も自分の缶を開き、陽気に音頭を取りながら掲げた。


「それじゃあ大前選手の引退を祝して、カンパーイ」

「祝わねえよボケ」


 朗らかに笑う滝野を無視してビールを喉に流しこむ吉田。ちぇー、と子どものようにむくれてから滝野もくいっと缶を傾けた。

 普段より深い時間のふたりの夕食はつつがなく過ぎていった。




 食べるだけ食べて、飲めるだけ飲んで、〆の雑炊まで平らげた後。

 空の鍋とコンロをキッチンに運んだ滝野がテーブルに戻ると、先ほどまでコンロがあった場所にカラフルなチラシが置かれていた。


「なんやこれ?」


 組んだ手に顎を乗せてテーブルに伏せている吉田に質問する。目だけで滝野を見上げる吉田の仏頂面は紅潮していた。その口から薄く声が漏れ出す。


「っせえな……高卒脳筋のお前でも漢字くらい読めんだろ……」

「なーんで吉田ちゃんは弱いのに飲むときバカスカ飲むんですかねー? あと高卒脳筋はお互い様やからな」


 茶化しながら吉田が置いたのであろう卓上のチラシを手に取る。

 青と白を基調としたチラシには、ユニフォームを着た子どもがバットを振るイラストが印刷されていた。


「少年野球チームのコーチ募集?」

「どうせ『アタシにフロントなんぞ務まらん』とか言って出てきたんだろ……」

「長い付き合いだけあってご明察やなあ。それとこのチラシがなんやねん」

「大前は野球に関わってたほうがいいんだよ……なんでもいいからよ……」

「アタシはもう野球はやめたんやって」

「野球やめたお前が何して生きるんだよ……? あたしにゃ責任があんだよ……」


 そうこぼす吉田の目は潤んでいる。今夜の彼女は泣き上戸だ。滝野はぽりぽり頭を掻いて再びキッチンに行き、水を汲む。

 潰れかけの吉田の前にグラスを置いて滝野は柔らかく告げた。


「心配してくれてありがとうな」


 困ったような吉田の面持ちが嬉しくて自然と目尻が下がる。

 中学の頃、荒んでいた滝野を野球に誘ったのが吉田だ。初めは吉田が投げて滝野が捕っていたのがいつからか逆転し、それからもバッテリーを組み続け、夏の全国で結果を残した。共にトライアウトの門を叩き、共に同じチームに所属した。

 吉田を残してこの世界を去る。生じる後ろめたさに目を伏せる。


「知ってんだよ、あたしはさ……お前はあたしなんかより、ずっと……」


 素面では言いにくいことを酔った勢いに混ぜこんでまき散らす。滝野は吉田のこういう弱くて可愛いところが大好きだった。

 ぽんと吉田の頭に手を乗せる。バサついた固い毛髪からは甘酸っぱいシトラスの香りがした。


「何、次の仕事のアテはあるんや。決まったらこの部屋も出ていくで」

「……んだよ、もう……好きにしやがれ、バカ……」



         **



 埼玉から東武線・メトロ・JRと乗り継ぐこと二時間弱。

 構内で少し迷ってからどうにか駅の西口に出た滝野は、久しぶりに帰ってきた故郷の様子に思わず声を漏らした。


「うおー。思った以上やな」


 五年越しに降り立った美傘の土地は記憶と様変わりしていた。路地だった駅前は広場と化し、工事中のデッキが空を覆う。駅を振り仰ぐと建造中のビル群が壁のようにそびえていた。縦横に長いその建造物は美傘再開発のシンボルで、将来的には駅併設の大型商業施設になるという。

 導線がおかしくなっている駅前を抜けて街中へと向かう。四方八方に工事現場用の仮囲いが林立しており、見通しが悪くてぐねぐねと折り曲がった小道は迷路じみていた。進む途中で野良猫を見かけた。視線を向けるとすぐに逃げられる。

 五分ほど歩いて往来に出る。目的地がある商店街のアーチは元の姿を保っていた。昭和の時代の面影を残す古さびた入口をくぐり抜ける。

 匂いのない、澄みきった空気に滝野は強い違和感を覚えた。

 かつては二百近い商店が軒を連ねて賑わいを見せていた大通りは、今や人もまばらでそこかしこでシャッターが下りている。時おり目に留まる物々しい貼り紙は取り壊しの告知だった。左右に立つ欧風の街路灯だけが過去に取り残されている。

 開発で消えゆくさなかの街を思い出を辿るように練り歩く。

 十一月の弱い陽射しが空き店舗の並びに影を落としている。

『メンチカツのあいば』『江楽堂』『パティスリーメナート』『中華一香』――子どもの頃、滝野が好きだった店のいくつかは移転を決めていた。看板を外された店舗は無機質な風景の一部と化している。現在は事業区域の仮商店街で営業しているらしい。


「帰りに寄るかー。どれ場所は……って、さっき見たビルの横のビルやんけ」


 中華一香のシャッターに貼られた地図を確認して眉を寄せる。仮店舗集合用の茶色いビルの名称は『ネオ美傘』。雑なネーミングに嘆息して滝野は再び足を進める。

 スナックやパブが入った雑居ビルの前の角で右折する。

 その店は大通りから一本外れた裏路地に面していた。

 年季の入った白い看板はこの五年間でいっそう黒ずみ、暖簾がなければ営業しているとは思えない店構えである。戸口脇の磨りガラスの奥には火床の前に立つ老人の姿があった。

 門前に立った滝野は目を閉じ、鼻から深く酸素を取り入れる。

 膨らんだ肺の中の空気を今度はたっぷり時間をかけて吐き、赤地に白抜きの暖簾をくぐり、木造の扉に指を掛ける。

 立てつけの悪い引き戸はガラガラと騒々しい音を立てて開いた。


「たっだいまー! 可愛い孫娘のお帰りやでー!」


 小ぢんまりとした店内が滝野の威勢の良い声で満たされる。


「……なんだ、お前か」


 低くしわがれた、不機嫌そうな声音が滝野の身をこわばらせた。ファンサービスで培った笑顔を作って滝野は声のほうを見る。

 カウンターを挟んだ調理場に祖父はのっそりと佇んでいた。昔よりさらに顔の皺が増え、表情が読みづらくなっている。鷹のような眼光と丸太じみた腕の太さは健在だった。


「おひさやなあ。ジジイまた老けこんどらん? 今九十いくつやっけ?」

「営業中だ。後にしろ」


 にべもなく告げて彼は背を向ける。調理白衣を身にまとった体躯は記憶のそれよりも縮んでいた。頭ひとつ分高い目線から滝野は祖父に語りかける。


「開店休業やーん。客もおらんし楽しく孫とお喋りしようや。せや、これ手土産の梅干しセット。血圧高めなジジイもイチコロ」

「やかましい」

「あっじゃあ注文するわ! たい焼き二枚と緑茶のセット。熱い緑茶な。そいでま、暇ならこのうっざい客の茶飲み話に付き合ってーなー」

「……」


 祖父は無言で火床の火力を上げ、焼き型を二本火にかける。

 滝野は二脚あるテーブルのひとつに着席してひと息ついた。土産の箱を卓上の隅に置き、頬杖をついて祖父を眺める。

 仕事に勤しむ祖父の背中は昔より丸まり小さくなったが、リズミカルに焼き型を操る手捌きの軽快さは変わらない。鉄と鉄がぶつかりあうガコンガコンという低音を聞いていると、張りつめていた滝野の緊張も少しずつ溶解していった。代わりに、久々に食べる実家の味へのワクワクが募っていく。

 十分後、祖父がテーブルにたい焼きの皿と湯呑みを運んでくる。


「食ったら帰れ」

「いけずうー。そいじゃ、いだたきまーす」


 ぽんと手のひらを合わせてから意気揚々とたい焼きにかぶりつく。

 瞬間、滝野は目を見開いた。

 薄く声も出ていたかもしれない。

 さっくりと焼けた香ばしい皮、甘く澄んだ風味が吹き抜ける餡。単体では良品止まりなふたつが織り合わさり魔法が生まれる。

 口いっぱいに幸せが広がり、知らずして肩の力が抜ける。


「……相変わらず笑えるほど美味いな。変な薬でも入れとるんちゃうか」


 湯気を上げる断面に目を落とし、滝野は難しい笑みを浮かべる。

 型を返すタイミングも火の当たりも一個一個微妙に異なり、焼きあがりの見た目も不揃いなのがくりすやの一丁焼きである。一見いい加減に見えるそれが変な笑いがこぼれるほど美味い。手作りという概念にさしたる思い入れを持っていない滝野も、自動の焼成機でこの味を再現できる未来は遠いと思う。

 たい焼きを皿に戻し茶をすする。くりすやは茶の類も美味しい。うらぶれた外観に反して中の清掃も行き届いている。

 滝野は店が流行らない理由は店主の不愛想にあると信じている。


「あんなージジイ、たとえ話なんやけど」

「なんだ」

「アタシやっぱこの店継ぎたいって言うたら、ジジイはどないする?」


 調理場で火床をいじっていた祖父がゆっくりと滝野に振り返る。

 滝野は左手を右肩に乗せ、ひときわ軽薄な調子で言った。


「いやー、実は肩が終わってもうて。野球選手引退せなあかんねん。やからこの店を手伝おうかなと」

「何?」


 ぎょろりと目を剥く祖父に対して滝野はひょうひょうと話を続ける。


「何、たしかに肩はぶっ壊れとる。けど日常生活はこなせるし、半年も経てば縫合も抜ける。万一うまく焼けへんかったら左腕だけでコテ持てばええ」


 押し黙った祖父の両の瞳が剣呑な光を湛えている。

 空白を埋めるように滝野は留まるところなく弁舌を振るう。


「そらブランクはある。最後に焼いたんはたしか中学生んときや。でもアタシ体力は自信あるし、キツい修行でもついていけるで。昔取った杵柄っちゅー言葉もあるし、五年あれば跡継げる。そしたら移転した後も、ジジイが逝った後もくりすやは続くんや。せや、ちゃんと味が再現できるようになったら星月ほしづきさん呼ぼう。あの人ならきっちり採点してくれるはずや。辛口そうやけど」

「断る」


 身振り手振りを交えて饒舌に語る滝野を祖父は跳ねつけた。

 予想がついていても、切り出した岩のような硬い態度には怯む。


「や、何もいきなりコテ握らせろって言うとるわけやないんです。初めはお手伝いからで」

「この店は誰に継がせる気もねえ。おれの代でしまいだ」

「中坊のときにアタシが野球を選んだの、まだ根に持っとるんか」


 けんもほろろな祖父に食い下がる。椅子から立った弾みで乱れたサイドの髪を耳元にかけ直し、焦りと媚びがないまぜになった薄笑いでへらへらと虚勢を張る。


「可愛い孫娘が継ぎたい言うとるんや。継がしたったらええやんけ。他に跡継ぎの先約があるわけでもないんならなおさらや」

「本気じゃねえだろ、お前」


 ぐっと言葉に詰まる滝野。

 固い唾を飲みこみ、震えそうになる声を均して返答した。


「……今ちょいと話したくらいでアタシの何がわかるっちゅうねん」

「引退『せなあかん』なんて未練たらしい奴に譲れるもんはねえ」

「ボロボロの女の言葉尻拾って楽しいんか? こんクソジジイ」

「お前にゃ別の生き方があんだろ。吉田とかいう奴はどうしたんだ」

「やからそれが……さっき言うたやん、右肩がおシャカになったんやって!」


 バン! と左手でテーブルを叩く。滝野はすぐはっとした顔になり「ごめんなさい」と小さく謝罪した。下げた頭から垂れる前髪がカーテンのように目元を覆う。

 その隙間からちらりと祖父を上目で覗きつつブツブツと唱える。


「吉田には悪い思うとる。けどしゃあないやん、アタシかて好きでこんな」

「左手で投げろ」


 聞こえた台詞に滝野は一瞬だけ呆けて、慌てて顔を上げた。


「む、無茶抜かすなや! プロが利き腕変更とか漫画でもあらへんわ!」

「一丁焼きは左でできて野球はできんのか?」

「っ――いやいや、できんわ! 全身運動を一丁焼きと一緒にすんな!」

「できんのか……」


 眉をハの字にした祖父が子どものように落胆の色を浮かべる。もうろくしてんじゃないかこのジジイと滝野は心の内で毒づき、直後、話が通じてなかっただけなら旗色が変わると気付く。

 平静を取り戻した滝野は目の前の祖父に諭すように言った。


「わかったやろ。だいたいアタシはたい焼き嫌いになったわけやないねん。昔は昔、今は今。今できることで一番やりたいことがくりすやの手伝いなんよ。やから……な?」

「断る」

「よし来た任せとき――ぃ?」

「お前みたいなちゃらんぽらんに暖簾はやらん。帰れ」


 虚空に拳を掲げた滝野を無視して祖父は火床に向き直る。

 滝野は空振りした腕をだらんと下ろし、再度祖父の背を見下ろす。


「どうしてもか?」


 尋ねる声色に抑揚はない。


「どうしてもだ」

「継がせんかったら腹切るー言うたら?」

「好きに切れ」

「お願いします」

「帰れ」


 振り向きもせずに短く答える。滝野の頭にカッと血が上った。


「もうええわスカタンが! 死に目に顔見られると思うなや!」


 罵声と千円札をテーブルに叩きつけ、滝野は店を飛び出した。

 やり場のない憤りにこめかみのあたりがチリチリと音を立てる。上気して熱い頬を冷やすように足早に風を切って歩いた。踵から伝わる衝撃がサポーターで固定した肩まで響く。


「……ってえなあ、ちくしょう」


 元来た道の途中で足を止め、肩を押さえながら天を仰ぐ。

 陽は高く、澄み渡った空に西からうろこ雲が広がっている。波打ち際にも似た青と白の境界を滝野はしばし眺めた。

 はくりと息を飲み、腰に手を当て、懐かしむように両目を細める。


「ジジイの一丁焼き、美味かったな」


 ひとりごちた後軽く首を振り、再び滝野は歩き出す。冷えた鼻先を指でこすると、もう何の残り香も感じなかった。

 滝野はくりすやを継ぎたかった。

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