プレゼントフォーミー、ノットフォーユー
浮き足立つ校内とは対照的に、その日は冷たい雨が波しぶきのように降りしきっていた。
「ハートマークついてないし大丈夫だよね! 本命ってバレないよね!」
数少ない友達のミウミウが持ってきたお手製のザッハトルテ。
チョコクリームの薔薇が飾られたそれは明らかに義理と呼べる域を越えていて、力作すぎる、めんどくせえもう告っちゃえよ、つーかデカいな何人前だよ、とか散々クラスメートにどやされていた。なんなら当の私もどやしていた。校舎五階の空き教室でミウミウは嬉しそうにはにかんでいた。
ミウミウの付き添いとして出向いたチョコレート品評会が終わって、ふたりで階段を下りていると、偶然彼女の想い人と出くわした。
三年の図書委員の先輩だった。推薦で受験を終えて暇なのか、今は印刷室に書類一式を運んでいる最中らしい。
「あっあの!」
ミウミウの声が裏返る。見ると顔面も真っ赤っかだった。
えっまさか今渡すの? ふたりきりにすべき? とっさに離れようとするもミウミウは私の制服の袖口を掴んで離さない。
「ギギギ義理ですがっ!」
古い機械みたいな音を出してミウミウが紙袋を差し出した。結局義理として渡すのかよと嘆息しつつも静観する。
ケーキの入った紙袋を受け取り、彼は驚きながら言葉を重ねた。
これ自分で作ったの?
すごいね。俺実は甘いもの大好きなんだ。
せっかくだから家族で食べるよ。妹たくさんいるから俺の食べる分残るかは微妙だけど。
でも、本当にありがとう。
「そ、そですか。じゃあご家族みんなで食べてくださいね。お褒めに預かり恐悦光栄です!」
間違った日本語を用いてミウミウはからっと明るく笑った。
(本命チョコが人に分けられる? 本人の口には入らない、かも?)
口を開きかけた私の袖をミウミウが強い力で引っ張る。
何も言えず私は目を逸らした。窓に張りついた雨粒が力尽きたように下に流れていく。
仕方のない話だとも思った。なにせミウミウはアホなので、男子ならば四号ケーキくらいホールで食べきると信じきっていたのだ。家族に分けようとする彼は鈍感で無神経だけどいい人だ。加減できないミウミウに非がある。だいたいもらった物をどうしようと人の勝手だ。
ただ、私はあのときのミウミウのかすかなこわばりを忘れられない。
(ちなみに後日伝え聞いた話によると、ケーキを分けようとした彼は三人の妹に散々けなされそしられなじられた挙句二日かけて単独でたいらげたのだとか。鼻に大きなニキビができたとも。聞いたミウミウは縮こまっていた。彼女も卒業してしまった先輩も、つくづく果報者である……)
**
「この焼き型は、お爺さんが私に対してくれた物です」
つまりは、私たちの技量も覚悟もこの事実には関係ないのだ。
お爺さんは他ならない私に大切な仕事道具をくれた。
それがただの気まぐれに過ぎずとも。
単なる餞別か記念品、はたまた体の良い押しつけだとしても。
私がたい焼きを焼こうが、焼くまいが。栗須さんがいくら欲しがろうが。
「あなたにあげた物じゃない」
私は貰い主として、贈り主の意向を尊重したいと思う。
道具の担い手としての差は、他人に譲渡する理由にはならない。
「……言うやん。で、ジブンはこの焼きゴテで何をどないするつもりやねん」
「あのたい焼きをまた作って食べる」
「は?」
栗須さんがぽかんと口を開ける。
私は言葉にして初めて、自分の気持ちを理解できた気がした。
「栗須さんは『正しいチーム』なんて存在しないって言ったけど。私はそれを探したいんです。くりすやのたい焼きだけが、私にとっての唯一の正解だから」
テーブルに置いた残り三本の焼き型にちらりと視線を送る。
私の求めるたい焼きは、この黒光りする金型の中に在るのだ。
生地を入れて強火で五~六分。引っくり返す回数はまちまち。
あのたい焼きに至る足取りはまだそれだけしか掴めていない。けど、何年、何十年かかっても、いつか必ず引き出してみせる。
「私はまたあのたい焼きを食べたい。本当に、ただそれだけなんです」
あの、星の光のようなきらめき。幸せなるものの結晶体を。
「……製餡はどないするつもりやった? ジジイの餡は自家製やで」
「まともにたい焼きを焼けるようになってから研究するつもりでした」
「味を見つけるまでには膨大な試作と試食が必要になる。仮にジブンが天才でも最低五年はあんこ一色の生活や。覚悟はあるんか?」
「新学期が始まってからも朝と昼は毎食たい焼きです」
「も?……も、か。なるほど。飽きひん?」
「飽きるほど味が安定しません」
耐えきれずエマが吹き出した。シャロンも影で笑いを噛み殺している。
藻永さんはニコニコ菩薩顔。なんだか私まで笑えてきた。
「ぷっ」
急速に弛緩する空気に負けたか、ついに栗須さんも決壊した。お腹を抱えて涙を浮かべて、心底楽しげにバカ笑いし出す。
「あっははは! 最高やな柊さん!……突然ケンカ売ってごめんな。ごめんなさい」
ひとしきり笑ってから、栗須さんはその場で深々と頭を下げた。
「へっ?」
「いきなり押しかけて、上から目線で試すようなことばっか言って。いったいおのれは何様やねんってな。ホンマ、失礼にも程がある」
くるっと百八十度変わった態度に私は混乱してしまう。
「あ、あの、困ります栗須さん。顔を上げてください」
「滝野でええよ。っちゅうかタメ口でええ。ジブンのがよっぽと上等な人間っぽいしな」
いや大の大人相手にタメ口はちょっと、と素直に答えかけたとき、ゆっくりと面を上げた彼女がどこか嬉しそうに笑みをこぼした。瞳が柔らかな光を孕む。
「アタシ、柊さんのこと好きになってしもたみたいやし」
「っ!?」
「応援するで、くりすやのたい焼き作り。アタシにできることあったらなんでも言ったってや」
「あ、ありがとうございます……」
突然の告白にどぎまぎする。いや告白ではないのだけれども、勘違いした両頬が勝手に熱を帯び出すのを止められない。
なんとか血流をごまかせないか足指を曲げたり伸ばしたりしていると、栗須さんがぽんと拳で自分の手のひらを叩いた。
「せや、ええこと思いついた! あのな柊さん、一緒に店やらへん? たい焼き屋! 小遣い稼ぎも練習もできて一石二鳥やで!」
「え? 嫌です」
再度即答。今度は栗須さんの目が点になる。後ろでエマが笑い転げていた。
「嫌て……いや、当然か。さっき会ったばっかの女にいきなりそんなこと言われてもな」
「いえ、というか私は焼いたたい焼きを他人に出す気はないというか……」
「へ?」
「ついさっきもそうだったんですよ~。桃、何個も焼いてるのにお前らに食わせるたい焼きはねえ! って。ケチですよね~」
この機を窺っていたとばかりにエマが話に割りこんでくる。
「私がケチならエマはごうつくばりだね。それに最後は食べたんだからいいじゃん。罵詈雑言のおまけつきで」
「罵ってって言ったのは桃じゃ~ん。ケチ~マゾ~くいしんぼ~面食い~」
「なんだとう!」
「や、そのあたりのいざこざはアタシは別にどうでもええねんけどさ。柊さん、他人に出す気はないというのは?」
「さっきも言いましたけど、私はただ、たい焼きを食べたいだけなんです」
今しがた自分の気持ちを確認できたばかりの私である。説明の言葉はなめらかに滑り出る。
「例えば、もし栗須さんがあのたい焼きを焼けるなら私は焼きません。手間が省けてラッキーです。栗須さんが作ったたい焼きを食べます。今後自分で使わなくなっても私の焼き型はあげませんけど」
「ええ性格しとるな柊さん……」
「でも、さっき話した感じだと栗須さんはあれを作る気はなさそうなので」
私にとって自作はあくまで自分が食べるための手段である。積極的に他人に出したいと思う理由は持ち合わせていない。
「というか、そういえばお爺さんは今どうしてるんですか? あの人からきちんとレシピを聞ければ一番手っ取り早いんですけど。引っ越しちゃったとか?」
「ジジイは閉店翌日に死んだ。あれで百歳近かったからな。大往生や」
さらっとその現実を知らされる。
「はい?」
頭の中身が空白になった。
追って全身の感覚も薄くなる。
ふっと視点を司るカメラが頭上からの俯瞰になった気がした。
「あ、……亡くなったんですか」
「せやな。アタシの焼きゴテは店しまうとき遺品から抜いたもんや。閉店したんも、自分の死期を悟っておったからかもしれへんな」
遠い目をして栗須さんは語る。たった五日前の出来事なのにはるか昔を懐かしむように。
「亡くなった……」
徐々に脳に再起動がかかり、肉体が現実感を取り戻す。
呼び起こされるひと夏の記憶はまだ色褪せず鮮やかなままだ。
衝撃は大きかったが、あの日の朝みたいな涙は出なかった。
(ああ、やっぱりそういうものか)
代わりに、煙雨に似た茫漠とした冷たさが胸に去来した。
元よりまた会える日が来るとは思っていなかったからかもしれない。私の心は吸水スポンジのようにその死を受け容れていた。
沈黙に包まれた場にたい焼きの甘くていい匂いが漂う。
「なんや湿っぽくなってしもたね。さてさて、ぼちぼち焼けたかなっと」
へらっと笑い、軍手をはめた右手で焼き型を開く栗須さん。言い方に少し首をかしげる。
「焼けたんですよね?」
「もうちょいやね。あと三分くらい待とう」
再び焼き型の蓋が閉ざされる。
行為の意味をしばし反芻し、私は目玉が飛び出るかと思うほど仰天した。
「焼き型って焼いてる途中で開いていいの!?」
「そらなあ。ずっと開けてたらちょいパサつくやろうけど、覗いてすぐ閉じるなら誤差やん。逆になんで開けたらダメ思うた?」
「それは……お爺さんも開けなかったし……てっきり炊飯器みたいなものかと……」
赤子泣いても蓋取るな、みたいな。単なる思いこみだったのだけど。
「まあ一度も覗かずに焼ける職人のたい焼きは美味いやろうな。けどまずは都度確認が基本や。ジジイの真似に固執したらあかんよ」
ややあって栗須さんは改めて焼き型からたい焼きを取り出した。ぱかっとお腹からふたつに割って私たちの紙皿に取り分ける。
「シャロン~? どうしたの~?」
お皿を片手にエマが呼びかける。
テーブルに集まる私たちをシャロンは遠巻きにして眺めていた。
元来人見知りがちな子である。フランクな栗須さんとの相性は水と油なのかもしれない。ひとまず傍に行こうとした私を藻永さんがそっと手で制した。
入れ替わりに紙皿を持った栗須さんがシャロンに歩み寄る。
「さっきはいきなりアメちゃんとかあげてごめんな。困らせちゃった」
ボトムスが汚れるのも構わず彼女は膝立ちになって語りかけた。
ふたりの目線の高さが重なる。シャロンが目をぱちくりと瞬かせる。
「知らん人からもらった食べ物口に入れたらあかんもんな。シャロンちゃん偉いわ。けど、このたい焼きはここにある材料でたった今作ったもんや。なんも怪しいことない。だから、もし良かったら食べてみてほしいな」
あんなふうに迫られては断りたくても断れないのでは。
不安がよぎる私をよそにシャロンは及び腰ながら皿を持った。表情を注視してみるが、そんなに嫌ではなさそうで安心する。
「藻永さ~ん、桃ってちょっと過保護気味だよね~」
「様子を見てあげること自体は大事ですよ。子どもは勝手に育ちますけどね」
「うるさいな放任主義者どもめ」
小突きあう私とエマ、そして藻永さんをちらっとだけ見てから、シャロンは湯気を立てているたい焼きの断面に向けて小声で呟いた。
「……いただきます」
はむ、と小動物みたいにたい焼きのお腹へとかじりつく。
たちまちその面持ちが夏の向日葵のように眩しく咲き開いた。
「どや? 美味い?」
たい焼きを口に含んだまま、目を輝かせたシャロンがこくこくと何度も頷く。
「そっか。ありがとな」
栗須さんがにかっと八重歯を覗かせる。乱暴にシャロンの頭を撫で回すが、シャロンも気持ち良さそうに目を閉じてなされるがままとなっていた。
(あ、この人、いい人だ)
最初からそこにあったかのように、好意がすとんと心に落ちてくる。
どれだけ急でも気持ちは気持ちだ。自分の気持ちは認めるしかない。
出会ったばかりの彼女の笑顔に、私は心惹かれてしまっていた。
心温まる景色を肴に私も自分の分を食べてみる。ふかふかのたい焼きはくりすやのそれとはまるで違う代物だったけど、筋肉をほぐされるような柔らかい味わいは嫌いではなかった。素朴なホットケーキにも近い。クリームチーズなんかも合いそうだ。
シャロンと連れ立ってテーブルに戻ってくる栗須さんに声をかける。
「子ども、好きなんですね」
「ジブンもやろ。鏡見てみい。今の柊さん、表情筋ゆるっゆるやで」
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