羽ばたく蝉は星になる

春光 皓

羽ばたく蝉は星になる

 暗闇を出られるかもわからないまま、必死に上へと向かっていく。


 腕の痺れを労うことも、休むことも、流れる汗を拭うことさえしないまま、ただひたすらに土を掘る。



 僕は今日、長い間暮らしてきたこの世界を後にする。



「あと少し、あと少し」



 上へと向かうと決めてから、何度この言葉を呟いたことだろう。



 あと少しで光の届く世界に行ける。

 あと少しで世界を自由に羽ばたける。



 そんな想いを胸に抱いて。



 ただ、世の中はそんなに甘くはない。


 目の前にある土をかき分けては、新しい土に行く手を阻まれる。



 今僕は、本当に上へと向かっているのか。



 考えたくはなかったが、外の世界など本当は存在せず、目に映る暗闇だけが世界のすべなのではないか。



 そんな思いが頭をよぎる。



 それでも必死に手を、身体を、動かしていくしかない。

 夢にまで見たあの世界を目指すには、こうする他ないことは本能が教えてくれていた。


 やることが一つしか与えられないことは、窮屈に感じることもあるかもしれない。



 それでも、僕にとっては幸せだった。



 ただ前を目指して進む。



 それだけで、全てが報われる気持ちになれたから。

 それだけで、きっと何かが変わると思えたから。



 僕は幸せだ。



 不意に手の指先が、微かに優しく暖かい温度に触れた。


「も、もしかして……」


 僕は初めて動くことを止め、伸ばした腕をゆっくりと引く。

 地面に小さな穴が開いている。


 そこには見たことのない、明るさを纏う暗闇が存在していた。


 高まる気持ちを抑えることも出来ぬまま、一掻き、もう一搔きと腕を動かし、上へと向かった。



「うわぁ……、何て綺麗なところなんだ……」



 こんな気持ちは初めてだった。


 目に映る全てが僕を放心状態へと陥らせ、全てが僕に、感動を与えた。



 僕は地面から抜け出し、近くにあった大きな木を登っていく。


 木の「足」しか見たことのない僕は、木の「身体」に触れただけでも涙が出そうだった。


 力強く土をかき分けた手で、優しく木の身体に触れる。


 僕の呼吸でみんなを起こしてしまいそうな程、辺りはとても静かだった。


 さっきまでいた地面が、もうあんなに遠い。


 とうとうここまで来たんだ。


 喜びが身体中を支配する。



「この気持ち、わけてあげるから」



 僕はそう胸の内で呟きながら、そっと木の身体を抱きしめた。




 そして、僕はここで姿を変えることにした。




 自然の光が朝を告げていく――。


「動く……。身体が軽い」


 一晩が経ち、僕は自分の身体を改めて眺めた。


 何時間、何日、何年も土を掘り続けたあの腕は、もう僕のものではなくなった。


 その代わりに、自分だとは思えない程に、逞しい羽が僕の身体になっている。


 興奮に身を任せ、思い切り羽を動かす。


「う……、浮いた。飛べたんだ」


 今までの僕は、もうここにはいない。

 燦燦と煌めくこの光の中で、僕は生きている。

 これからは行きたい時に、行きたいところへ自由に行ける。


 僕はやっと、夢を掴むことが出来たんだ。



 ……そう、思っていた。



「それにしても、やけに静かだな……」


 外に出たらたくさんの友達と会って、たくさんの話をして、たくさんの思い出を作る。

 元気いっぱいに鳴いて、元気いっぱいの恋愛をして、元気いっぱいの子どもに世界の素晴らしさを伝えたい。


 そう思っていたのに。


 あれからどれだけ、僕は飛びまわり、鳴き続けているのだろう。

 僕の周りに、僕の友達はいない。


 みんなもう、眠ってしまったのだろうか。


 そう思いながら羽を動かしていると、僕は初めて、木の身体で休む友達の姿を見つけた。


 僕は急いで羽を動かした。



「やぁ、君! 元気かい?」



 彼の隣に、僕は止まった。


 彼は視線をゆっくり僕に向けると、とても驚いた顔をしていた。


「おま……、今、出て来たのか?」

「いや、僕が出て来てからこの光を見たのは今日で三回目」

「そうか、そうか……」


 彼は身体を小刻みに震わせながら、小さくそう言った。


「実は僕、全然友達に会えなくてさ。今日もずっと鳴いていたんだけど、僕以外の声も聞こえなくて」


 初めての友達に気持ちの高ぶる僕とは対照的に、彼は落ち着いた顔をしている。


 きっと彼は、たくさんの友達に会っているのだと思った。



 そして、この距離でなんとか聞き取れる程の大きさの声で彼は言った。



「遅すぎたんだ……」



「遅い? 遅いって、何がだい?」


 僕は思わず聞き返した。


「俺もここに出て来たばかりの時、友達に聞いたんだ。その友達は、その前から出て来ていた友達に聞いたらしい」

「聞くって何を?」


「俺らの友達はもう、とっくに星になったんだって」


 そう言って、彼は空を見上げた。


「みんなが星に?」


「もうこの辺もすっかり肌寒くなっちまった。俺らはもっと暖かく……、いや、暑い時に鳴かなきゃいけないんだ。暑いからこそ、友達が出来るんだ」


 喉まで出かけた言葉が出ない。

 僕は震える彼を見つめることしか出来なかった。



「夏が……、終わったんだ」



 静寂が冷たい空気を纏っていく。

 彼は吐息のような声で続けた。


「ありがとな。最後の最後に、もう諦めていた友達に会うことが出来た。俺は幸せだ……」

「ちょ……、待って。せっかく会えたのに……。もう少しだけ、話をしようよ!」

「悪いけど、もうそんな力はないんだ……。俺はこれから、一足先に星になるよ。お前も綺麗な、星になってくれよ……」



 そう言い残し、彼は静かに木の身体から落ちていった。

 落ち行く彼の姿を見て、僕は泣くように鳴いた。


 光が消えても、ずっと、ずっと。



 僕は泣くように鳴いていた――。





 それから何度目の光だろう。

 僕は木の身体を離れ、上へ上へと飛んでいる。


 この羽が千切れようとも休むことなく、涙が流れようとも拭うことなく、ただ懸命に、空を飛ぶ。




 僕は決めた。






 綺麗な星に、なるのだと。

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