漁村の春

@kazim

漁村の春

 春先の、肌寒い雨の日のことだった。

 夕暮れ時に家路を急いでいると、道の向こうから歩いてくる人影が見えた。見慣れない服装だ。背が高いが、おそらく女だろう。長い髪が垂れている。このあたりでは珍しい銀の髪だ。目深に笠を被っていて顔はよく見えないが、きっと異邦人だろう。

 彼女は何かを探すように左右を見渡しながら歩いていたが、俺に気づいて声をかけてきた。

「宿を探しているのですが、ご存じありませんか?」

 少し訛りのある話し方だった。笠の下から異邦人らしい彫りの深い顔が覗く。案外若そうだ。

「そこの宿屋は?」

 彼女の背後にある、この村唯一の宿屋を指差す。

「あいにく埋まってしまっているそうで」

「埋まってる、か」

 ほとんど灯りの点っていない宿屋を見る。無理だと言うならなのだろう。

「あんた、何者だ?」

「私は旅医者です」

 医者。ふと、昔の記憶がよぎった。

 助け舟を出してやってもいいか。

 そう思ったが、碌な案が思いつかない。

「俺の家にも空き部屋はあるが……」

 あんな小汚くて古い家に泊まりたがるわけがない。しかも、見知らぬ男と二人きりなんて。もっとマシな案はないかと考え始めたが、彼女はなぜか目を輝かせた。

「もしご迷惑でなければ、案内していただけませんか?」

 思わず正気を疑った。

 止めようと思ったが、雨に濡れた彼女を見て考えを変えた。他には何も思いつきそうになかった。


 家に着き、手拭いを渡すと、彼女は濡れた体を静かに拭き始めた。その間に物置と化していた空き部屋をなんとか片付け、古い布団を引っ張りだす。居間に戻ると、彼女は濡れた手拭いを差し出し深々と礼をしてきた。

「泊めていただいてありがとうございます」

「俺は、別に……。本当にここでいいのか?」

「十分です。宿屋に空きが出たらすぐ出ていきますので」

「あそこは……、しばらく空かないだろ」

 きっと、彼女がこの村を去るまであの宿屋はだ。

「そうなのですか」

「ここに泊まってくれていい。……あんたが嫌じゃなければ」

「ご迷惑ではありませんか?」

「俺は構わん。独り身だしな。まぁ、部屋と布団を貸すぐらいしかできんが」

「本当にありがとうございます」

「いいって。疲れてるだろ、さっさと休め」

 照れ臭くなり、それだけ言って自室に引き篭もった。


 次の日。いつも通り起きると、彼女はすでに身支度を済ませて釜戸の前に立っていた。後ろから覗くと、なにやら鍋をかき混ぜている。

「おはようございます。すみません、勝手にお借りしました」

「別に気にしないが、それは……」

「ささやかですが、泊めていただいたお礼です」

 不思議そうに覗き込む俺に、彼女は言った。

 出来上がったそれは野草の入った汁物だった。初めて食べる味だったが、不思議と米に合う。

「うまい」

 俺がそう言うと彼女は一言、よかった、と微笑んだ。それは、夕陽のように穏やかな笑みだった。


 飯を食い終わると、彼女は鞄を持ってどこかへと出かけていった。行き先は尋ねなかった。

 彼女が帰ってきたのは日の暮れた頃、俺がちょうど晩飯用の魚を焼いている時だった。彼女はそれを見て、物珍しそうな顔をした。

「どうした?」

「いえ、初めて見た魚だったので……」

 思ってもみない言葉だった。

「ここらではよく食べる魚だが、他所よそじゃ珍しいのか」

 魚に目を戻すと、いい具合に焼き色が付いていた。そろそろ良さそうだ。

「なんという魚なのですか?」

「イマゴだ。食べるか」

 ちょうど焼けた魚を手渡すと、彼女はしげしげと眺めてから、口にした。

「……美味しい」

「口に合ったならよかった」

 軽く微笑むと、彼女も小さく笑みを返した。


 それから毎日、彼女は朝早くに出かけ、日の暮れる頃に帰ってきた。彼女は俺の知らない異国の料理を、俺は彼女の知らないこの村の料理を作った。

 誰かと食卓を囲むのは久しぶりだった。彼女は静かな人で、もともと口数の少ない俺との会話は弾まなかったが、不思議と居心地がよかった。


 そんな生活が続いて一月ほど経ち、日に日に暑さが増してきた頃だった。

「そろそろ次の土地へ向かおうと思います」

 夕餉の最中、彼女は静かにそう言った。

「……そうか」

 俺はそれだけ返事をして、彼女の作った汁を啜った。


 その日の夜。そろそろ寝ようと布団に入った時だった。部屋に仄かな光が差し込むのに気づいた。顔を上げると、彼女が襖を開けてそこに立っていた。

「よろしければ、ご一緒してもよろしいでしょうか?」

 予想外の言葉に耳を疑った。

 だが、いつも通り静かな顔をした彼女を前に、いなの言葉は出てこなかった。


 彼女は静かに布団に入り込んできた。その体からは、ほのかに薬草の匂いがした。

 気まずくてただ天井を見上げていると、彼女はこの村であったことをぽつぽつと語り出した。

 この村の住人は余所よそ者を嫌う。濡れ鼠の彼女を誰も泊めようとしなかったほどに。そんな村で、彼女は病人を治療して回っていたらしい。噂には聞いていたが、彼女の口から聞くのは初めてだった。

「ありがとう。この村の人を診てくれて」

「……私は、医者ですから」

 彼女は静かにそう言った。

 なんと返せば良いのかわからず黙っていると、彼女が口を開いた。

「失礼でなければ、あなたのことも聞かせていただけませんか?」

 そう言われて、俺も少しずつ話し出した。魚を売って生計を立てていること。この村の人とは助け合って生きていること。そして、五年前に死んだ妹のこと。妹は流行病はやりやまいで死んだ。十一だった。彼女に貸している部屋も、元々は妹の部屋だった。

 そこまで話したところで彼女を見ると、物悲しい顔をしていた。

「……昔の話だ」

 それだけ言って、彼女に背を向けた。

「私を泊めてくださったのも、妹さんと関係があったりするのでしょうか」

「……思ったんだ。他に医者がいれば、助かったんじゃないかって。診療所の爺さんには感謝してるが」

 背中に彼女の手が触れた。彼女の体が近づく気配がする。

「五年前、私はその病を治すすべを知りませんでした。二年ほど前、ここより北の町でその術を聞きましたが、それも確かなものかはわかりません。……私は、よりよい術を探し続けます。その病も、他の病も治せるように」

 最後は彼女自身に言っているようだった。

 彼女の方に向き直り、その手を掴む。彼女の手は想像より硬く、今までの努力が透けて見えた。

「……頼む」

 それ以上の言葉は出なかった。

「はい」

 薄明りに見える彼女の瞳は潤んでいた。彼女が顔を寄せてくる。俺は黙ってその唇を受け止めた。


 翌朝起きると、彼女はすでに身支度を済ませていた。揃って朝餉を済ませた後、彼女の持とうとした鞄を取った。

「途中まで送る」

 彼女は小さく微笑んだ。


 村の入口に着くと、彼女は俺の持っていた鞄を受け取った。

「また来るか?」

 思わずそう聞いていた。

「ええ。まだ治療の必要な方がいらっしゃいますから」

 彼女は静かにそう答えた。

「では」

 そう言って立ち去ろうとした彼女を、俺は慌てて呼び止めた。彼女は不思議そうに立ち止まった。

「……名を、教えてくれ」

 彼女は一瞬きょとんとしたが、じきに微笑み口を開いた。

「ダスクと、呼んでください」

「俺はイサナだ」

「では、さようならイサナさん」

「またな、ダスク」

 再び礼をして、歩き始めた。

 しばらくその後ろ姿を見つめていたが、彼女が振り返ることはなかった。


 あれから毎年、彼女は春になった頃にやってきて、春の終わる頃に去っていった。この村の春は短い。春が終わると長い長い夏がやってきて、その後、短い秋と冬がやってくる。

 その間、俺は待つ。魚を売り、彼女が美味しいと言っていた飯を作りながら。

 雲間から射した光に思わず空を見上げた。村を照らす光は日に日に暖かさを増している。どこか遠くで春告鳥が鳴いた。

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