山寺の岩 第8話
条眼和尚はいたく感心し、これまで泥鬼に持っていた考えを改めました。自分もまだ未熟であった。彼は今までも人並み以上の働きをしてきたというのに、心のどこかでは外見だけですべてを決めつけ、泥鬼を愚鈍な男だと思いこんでいた。そんな考えを改めなくてはならないと和尚は強く思いました。
和尚はつい先程まで村人の男と話していた御堂へ泥鬼を連れていき、そこに向かい合って座りました。和尚は泥鬼に生まれのこと、身の上のこと、生活の中で思うことを問いました。泥鬼は問われたことを簡潔に答えるのみでありましたが、その鋭い瞳を見れば泥鬼に仏心があり、人一倍強い心を持ち合わせていることは和尚にはすぐに理解できました。
これは後になってから条眼和尚が村人に尋ねてわかったことだそうですが、泥鬼の生まれは、まったく一般的なものであったそうです。この時代には裕福な過程など村のどこにもありませんでしたから、他の家と同様に貧しい家に生まれました。両親には病など無く、ごく普通の村人であったそうです。
ですから、泥鬼が生まれた時には大変驚かれ、そして泥鬼と血の繋がった者には皆同様病が潜んでいると噂されました。そのため彼らは迫害を受け、流行り病の際に誰にも助けられること無く亡くなったそうです。そんな中でも泥鬼が生きていくことができたのは、ひとえに幸運であったからだと言えましょう。
まず、彼はただ一人、流行病の魔の手から逃れました。また病が村を襲ったのは彼がある程度仕事ができる歳になってからのことでした。そして、村長が泥鬼を疎ましく思い、こき使うという名目できつい仕事を与えていたからでした。彼は立場のある人間でしたから、いくら泥鬼でもこなした仕事に対価を渡さないわけにはゆきません。そのような幸運が重なりまして、泥鬼は生き延びることができたというわけでございます。
和尚はまず、泥鬼に新しい名を与えました。その名は泥蓮、でいれんでございました。この名は「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉をもとにして、彼の苦難に満ちた人生とその中で輝く人柄、心の美しさをたたえたものです。仏教においても蓮華は重要な植物です。蓮華は泥の中で育ちますが、花は大変清らかで少しの汚れもございません。そして仏の道におきましても、泥のように汚れた俗世に生まれても、悟りという大輪の蓮華を咲かせることができます。
このように、蓮という花は仏道において大変大きな意味のある花ですから、条眼和尚がどんなに感心してこの「泥蓮」という新しい名を彼に与えたのかがよくわかります。ちなみに蓮という漢字には2通りの訓読みがございます。はす、そしてはちすでございます。「ドブに落ちても根のある奴はいつかは蓮の花と咲く」の「はちす」です。元来、蓮ははちすと呼ばれておりました。『古事記』にも「波知須(ハチス)」という記載があるそうです。一説によりますと、花弁が落ちた後の穴だらけの形状が蜂の巣によく似ていたからそう呼ばれるようになったとか。本寺の池にも蓮が自生しておりますので、もし機会があればぜひ見物にいらしてください。
さて、条眼和尚は名に次いで、もう一つのものを泥蓮に与えました。それは、一丁のノミでした。そのノミは条眼和尚の若き頃、一人の仏師より賜ったものであったのですが、残念ながら条眼和尚にその才能はなく、長い間木箱の中で大切に留められておりました。そのまま腐らせていても何にもなりませんので、明らかに素質のある泥蓮にこれを活かしてほしいと願ったのでしょう。
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