綱吉 ②

 「ヤバいっヤバい!!」

 歩きながら僕は真理恵に言った。真理恵は全く気が付いていなかったようで

 「え?何がですか?え、全然気が付かなかったです。」

 と言った。

 彼の暴走ぶりを知っている僕は、うろたえを隠せず

 「あーやばい!やばい!」

 と連呼したが、真理恵は、

 「まあいいんじゃないですか?」

 とあっけらかんと言ってくれて少し気を取り戻した。


 真理恵が僕の中で単なる推しでなくなっていったのには、いくつかの理由があった。

 ママレードでの会話の中で何度か、僕が言った言葉に対し、怒った事があった。

 それは明らかに僕の一言にムッとした顔をした後に、スーッとどこか僕以外の客につく、というものだった。接客業で感情を露わにされる事は珍しく、良く考えればただ単に流せばいいだけなんだろうが、真理恵はそれが出来なかったんだろう。

 また、時折出してくる彼女のちょっとした出来事や身の上話も、簡単に人に話せるようなものでもなかった。

 「元旦那と別れたの、DVだったんですよ~。」

 「こないだ元旦那と偶然会ったんですけど、危なくて警察呼んでたんですよ~。」

 といった類のものだった。

 また、業務課長と、後輩と3人で飲んだ後、店終わりの真理恵とたまたまばったり会った事があった。その日は、

 「おう、真理恵、またねー。」

 と、手を振っただけで帰路についたのだが、その後、真理恵からLINEで一瞬だけの着信があった。〔どした?〕と返したのだが返信なく、あまり気にせずにいた。


 翌週の月曜日、業務課長が、

 「こないだ真理恵大丈夫やったちゃろうか?」

 と言うのでわけを聞いたら、課長と後輩が一緒に歩いていく帰り道、真理恵の歩いていった方向から女の子の叫ぶような声がした、というものだった。

 「なんか巻き込まれるのも嫌やったかいよ。」

 と結局何もしなかった課長に対し、僕は正直、苛立ちを覚えていた。

 「いや、助けに行けよ」と思ったのだった。


 次にママレードで飲んだ時、

 「さとし君すみません。こないだ間違えて電話したでしょ?」

 と真理恵は言ってきた。

 「首絞められたんですよー、警察に通報しましたけど。」

 いつもの右手で口を隠す仕草で言った。

  課長に対する腹出たしさと、真理恵の首を絞めた人間への腹立たしさと、内から煮えたぎるものがあった。あの一瞬の着信が、僕に対する助けを求めるものだとしたら、そう思うと自分にも腹立たしさを覚えた。

 「いや、正直、課長にイライラしてたんよ、様子見にいけよ!って、やかい結婚できんつよ!って。」

 真理恵は笑いながら、 

 「いやいや、ダメですよ、本当に、下手に巻き込まれない方がいいですよ。夜の店で働く人間はろくなもんじゃないんで。」

 口元から右手を外して、大げさに手を振ってそう言った。



 僕は真理恵が心配だった。

 頭より先に体が走ってしまうような、そんな感覚に陥っていた。自分に何かができるわけでもないのに。


 

 綱吉の後のスナックではあまり歌う事はせずに話をしていた。先方のママに紹介し、お互い大変だねといった話をしていたと思う。横の席に真理恵が座っている事は嬉しかった。

 探り探りで、僕は真理恵に核心をつくような質問もできなかった。


 スナックで飲んだ後、二人は別れた。

 真理恵はまだどこかで飲むような事も言っていたが、僕は真っすぐに家に帰った。


 〔俺にはしずちゃんがいるから真理恵先生は任せた〕

 家に戻ると山之内からLINEがきていた。完全なる裏切り行為ではあったが、彼の歪んだ感性でこの事は水に流されるようだった。

 彼は僕が「しずか」と名前を呼ぶ事に対して、異常な反応を示した。呼ばないで欲しいと懇願された。

 その際に、

 「分かった、俺も真理恵の事を真理恵って言わない。先生と呼ぶ」

 と宣言した。だからしずちゃんと呼ぶように、というお達しであった。それから彼は真理恵を先生と呼ぶようになった。そしてそれは徹底していた。


 こんな事をわざわざ書く事もしんどいが、その、呼び方の問題に関しては二人の間の、しずかと僕、真理恵と山之内の、それぞれの問題であって、彼から呼び方を強要されるような筋合いは、どこにも、かけら程もなかった

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