私のお義兄様は悪役令息ですが、私がお婿さんにするので問題ありません
柴野
前編
「ほら見てくださいまし、悪役令息ですわよ」
「氷の貴公子も悪事が公になった今となっては壁のシミね」
「フィリス嬢を虐げたのですから、それくらいの報いはあって当然でしょう」
ヒソヒソと囁かれる声に、思わず耳を塞ぎたくなった。
ああ、頭がおかしくなりそう。怒りで暴走してしまいそうなのを、必死に堪える。
「シエラ嬢もお可哀想に。悪役令息を兄に持ったばかりにねぇ」
「ほんとほんと」
聞くに耐えない醜悪な悪口を囁き合う令嬢たちから目を逸らし、私は一人の青年に視線を注いだ。
後ろで一つに束ねられた藍色の髪に、蒼穹のごとき瞳。
背はスラリと高く、細身だ。誰もが息を呑むほどの美貌を持ち、静かな存在感を放っている。
それが私の敬愛するお義兄様――ニコラス・ロブソン侯爵令息だった。
見ているだけでうっとりと夢心地になってしまう。
かつて『氷の貴公子』と名高かったお義兄様は、決して令嬢と馴れ馴れしく接したりはしない。義妹の私にさえ紳士的だ。
そんなところもまた素敵。
どうしてこんなに美しく完成されたお義兄様を罵ろうなどと思えるのか、理解に苦しむ。
婚約者であった少女を精神的に追い詰め、肉体的な暴力も振るったこともある――そんな噂を皆が皆丸呑みにしているなんて馬鹿らしかった。
「お義兄様が、そのようなことをするわけがないですのに」
私だけはお義兄様を理解しているし、心から信じている。
けれど私が令嬢連中にお義兄様の素晴らしさを教えたところで何かが変わるわけではないだろう。むしろ逆効果に違いない。
だって彼女たちは、真実よりも恋物語を見ていたい愚か者たちなのだから。
悪役令息とは、恋愛劇などにおいて女主人公を虐げる役回りのこと。そして最後には断罪され、惨めに退場する。
物語として読むとしたら、なるほど確かに痛快だ。しかしそんな物語を現実に持ち越してお義兄様を貶めるなんてとても許容できることではなかった。
「第二王子殿下、並びにその婚約者フィリス嬢のお成り〜!」
そんな声がして、パーティー会場に
片方はやたらとキラキラした白髪の男。そしてもう片方は、小柄で愛らしい金髪の少女だ。
少女――フィリス嬢は、婚約者からの虐待に十年間も耐え忍んでいたが、ひょんなことをきっかけに第二王子殿下と出会い想いを交わし、辛い境遇から脱して幸せを掴んだのだという。――まるで恋物語のヒロインのように。
そして、かつての婚約者であるお義兄様が悪役令息などと不名誉な呼び名をつけられるようになった原因でもある。
第二王子を見上げ、頬を染めて微笑むフィリス嬢を見て、私の腑は煮え繰り返りそうになる。否、煮え繰り返りまくっていた。
「こんな無法、あってたまるものですか」
私は呟き、唇を噛み締めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
フィリス・メアディ伯爵令嬢とお義兄様が婚約することになったのは、政略的な思惑によるものだった。
メアディ伯爵領にある鉱山を無料で貰い受ける代わりに、ロブソン侯爵家が没落寸前だったメアディ伯爵家への資金援助を行い、さらにメアディ家の令嬢を娶るという契約を結んだのだ。
けれど、ロブソン侯爵家には一人娘の私しかいなかった。だからその契約を成立させるためにお義兄様はロブソン侯爵家の嫡男になるべく養子に入った。
当時お義兄様は十歳。私より三歳上で、「今日からこいつがお前の義兄になるんだ」と言って父に紹介された時の衝撃をよく覚えている。
今まで見たことがないくらい、この世のものとは思えぬほどに綺麗な少年だったから。
私はあの瞬間、確かに恋をしたのだ。
紛れもない初恋だった。
しかしお義兄様にはフィリス嬢という婚約者がいる。
婚約者のいる相手に想いを寄せるだなんてあってはならないこと。それくらい七歳の私でも理解していた。
でも、それでも、お義兄様への想いは年月を重ねるにつれ、どんどん増していった。
「ねえお義兄様、私、今度のパーティーでお義兄様とダンスがしてみたいです!」
「僕と踊るのはいけない。貴女はいつか婚約者ができた時、その相手と踊るといい。……だが、練習なら付き合って差し上げよう」
「嬉しいです! ありがとうございます、お義兄様」
ダンスのリードがお上手で、ダンス講師に教えられた時の何倍も踊り方がスッと頭に入ってくる。
私はお義兄様に教えられながらダンスを上達させた。
――ああ、好き。
触れ合う度に胸が高鳴り、心が躍ってしまう。
お義兄様は私に優しく接してくれる。妹としてではなく、一人の小さな淑女として見てくれた。
お義兄様の視界に長く映っていたい。できるなら、おはようからおやすみまで一緒にいたい。きっと義妹として正しくない感情なのだとわかってはいても、そう思わずにはいられい。
婚約者候補にとどの令息の姿を見せられても首を縦には振れなかった。
だって、どれほど金持ちで、どれほど顔が良い方であったとしても、お義兄様より魅力的な令息がいるなんてわけがないから。
どうして私ではなくフィリス嬢なのだろうと憎たらしく思う。
確かにフィリス嬢はとても可愛らしく、私なんかよりもずっとお義兄様にお似合いだ。私は薄茶色の髪に焦茶の瞳、それにこれといった特徴のない顔だから、お義兄様の隣にいてはきっと見劣りしてしまう。
だから仕方ないのだと自分に言い聞かせ、我慢して我慢して我慢し続けて――。
けれどある日、夜会に現れたフィリス嬢は、お義兄様ではなく第二王子殿下を伴っていた。
そして彼に大切そうに庇われながら、待ちぼうけを喰らっていたお義兄様へと言い放ったのだ。
「ニコラス様、わ、わたしに
「ニコラス・ロブソン。お前はフィリス・メアディ嬢へ心身共に苦痛を与えていたそうだな。お前の所業は到底許し難いものだ。第二王子の名においてフィリス・メアディとニコラス・ロブソンの二名の間で結ばれた婚約の破棄を命ずる」
「婚約の破棄ですか。殿下からのご命令であれば従いますが、殿下たちのおっしゃることは身に覚えが――」
「うるさいぞ。おとなしく罪を認めろ!」
冷静に言葉を返すお義兄様、しかしその言葉は第二王子殿下によって遮られてしまう。
それから涙目のフィリス嬢は今までされたひどいことだと言って次々と嘘を並べ立て、第二王子殿下がそれを庇護し続けた。
お義兄様は一方的に糾弾され続け、公衆の面前で恥をかかされることになった。
――どうしてこんなことに。
話を聞いた私は唇を噛むが、相手は王族。ここで短慮な行動を起こせば、さらにお義兄様の不利になると考えると不用意には動けない。そのことが情けなくて仕方なかった。
第二王子殿下の命令という形でメアディ伯爵家との婚約を破棄された結果、ロブソン侯爵家には多大なる損害が出たし、お義兄様の評判は地に落ちた。
第二王子殿下との婚約が決まり、盛大に祝福されるフィリス嬢とは反対に。
「フィリス嬢にとって、こちらの言動の一つ一つが苦痛でならなかったのだろう。……こうなったのは僕の責任だ」
けれどお義兄様はそんな風に言って、苦笑するばかり。
「そんなはずないではないですか!」と私は声を荒げたが、だから何になるというわけでもなかった。
悔しい。お義兄様は何もしていないのに、なぜフィリス嬢の踏み台にならなければならないのか。
全て、第二王子妃になりたかったフィリス嬢の企みに違いない。フィリス嬢の幸せそうで、それでいてどこか優越感のこもった笑顔を見ればわかることだった。
お義兄様が彼女を虐げていたという証拠として扱われているのは、金に目が眩んだ使用人たちの証言のみ。
なのに向こうに第二王子がついているせいで、それは絶対のものとされてしまっている。ろくに調べられてもいないだろう。
なんて理不尽。なんて屈辱。
しかも、父であるロブソン侯爵は、断罪の夜会の翌日の朝食の席にてお義兄様にこんな言葉を投げかけた。
「このままではニコラスを次期ロブソン侯爵に据え置くのは無理がある。非常に心苦しいが、ロブソン家から籍を抜き、生家に戻ってもらうのが一番の手だろう」
お義兄様は表情や態度にこそ一切出さないものの、パーティーに出て悪役令息だと陰ながら糾弾されたことで心に傷を負ったはずだ。
それがわかっていながら、さらなる追い打ちをかける父に腹を立てずにはおれない。
「あんまりです! お義兄様は何一つ悪事はなさっていないではありませんか!」
「シエラ、だが」
「言い訳は結構! 偽証をした使用人をの野放しにし、お義兄様を咎めるなんて――」
椅子からガバッと音を立てて立ち上がる。
侯爵家の娘にあるまじきはしたない行為だが、そんなのは考えていられなかった。お義兄様が私のお義兄様でなくなってしまう。離れざるを得なくなってしまう。そんなの、考えたくもなかったから。
おはようからおやすみまで一緒にいたいのに。同じ屋根の下、暮らし続けたいのに。
「……義父上のおっしゃる通りだ。僕は、次期侯爵から退いた方がいい」
「お義兄様!」
「これ以上ロブソン侯爵家に迷惑になるわけにはいかない」
けれどお義兄様はピシャリとそう言って、朝食をさっさと食べ終えてしまうと部屋を出て行ってしまう。
私はギロリと父を睨みつけ、「人でなし」と罵った後で、お義兄様の後を追った。
ドレスをはためかせ、ひたすらに走る。
少なくともロブソン領はまだ出ていないはず。なら、お義兄様はどこへ?
屋敷の中を探した。どうしても見つからず、門番に聞いてみたら、護衛の一人もつけずに外へ出て行ったというではないか。
一体どういうつもりなのだろう。嫌な予感が胸に湧き上がり、私も屋敷を飛び出す。
丘にある屋敷の麓、最寄りの街を巡っても、お義兄様の姿は見当たらない。
そして走り回り、ダンスで鍛えた足腰がさすがに悲鳴を上げ始めた頃――私はふと、とある場所を思い出した。
――私の勘は当たっていた。
「お義兄様っ」
ぼぅっと、海辺に佇むその人物の腕をグッと掴んで引き戻す。
振り返ったお義兄様はハッと息を呑んでいた。
「……貴女、どうして」
いつも表情がほとんど変わらないお義兄様の驚き顔を見るのは初めてだ。
見開かれた蒼穹の瞳は少し虚ろで、しかし美しさを損なってはいない。
良かった。間に合って。間に合わなければ二度とこの愛しい温もりを味わうことができなかったかも知れないと思うとゾッとする。
「お義兄様、ここで何をなさっていたんですか。この世に別れでも告げるつもりですか?」
ここは海。しかも荒波で、一歩でも踏み出せば波に呑まれてしまう。
お義兄様がロブソン家の養子としてやって来た時、この領内を一通り案内したことがある。その中でお義兄様にとって一番のお気に入りだったのがこの海辺。お義兄様の生家が海辺だったので落ち着くと言っていた。
だからここにいると思ったのだ。
まさか、海の中に片足をつけて立っているだなんて思っていなかったけれど。
気の迷いを起こすほど、お義兄様の心の負担は重かったということだろう。
「お義兄様。お義兄様がお辛いのは、よくわかります。図々しいかも知れませんが、わかりませんなんて言いませんよ」
元々、お義兄様はロブソン家の嫡子としてフィリス嬢を娶り、いつかロブソン侯爵となるために十年近く生きてきた。
それが突然覆され、何もかもなくなって……いくら完璧で素晴らしいお義兄様とてこの世から消えてしまいたくなってしまって当然だ。
「お義兄様は素敵な人なんです。皆は悪役令息と呼ぶでしょう。しかし私はそれを許容しませんし、いつでもお義兄様の味方であり続けます。ですから早まらないでください」
お義兄様はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「僕はロブソン侯爵から嫡子の任を解かれた。当然の成り行きだ。だが、だからと言って実家に今更戻ったところでどうなる。誰もが僕を嫌厭し、寄り付かない。僕は結局厄介者になるだけだ。それくらいなら」
その頬は硬く、どれだけお義兄様が追い詰められていたのかがわかる。
にっこりと微笑んで、私はお義兄様へ手を差し伸べた。
「じゃあ、こういうのはいかがでしょう?
お義兄様が私の、お婿さんになるんです」
「――――」
「父は納得させます。させてみせますとも。私は婚約者がいませんし、かと言って実質今から他の養子を取って教育し直すなんて至難の業でしょうから、結局は私が次期侯爵にならざるを得なくなると思います。
しかし私は今まで一切そういう勉強をしてこなかったものですから、ものすごく苦労するでしょう。そこでお義兄様に支えていただくのです。私の夫として。そうしたらお義兄様が表舞台で悪意に晒されることは減ります。とてもいい考えだと思いませんか?」
お義兄様はもう、私のお義兄様ではいられない。でも私は離れたくない。お義兄様も行くあてがない。
それらの問題をいっぺんに解決する方法はこれしかないように思えた。
お義兄様が悪役令息であろうがなかろうが関係ない。私がお婿さんにすれば丸く収まる。妙案ではなかろうか。
お義兄様が弱っているところにつけこみ、私の想いを実現させようとしているだけだと言われればそれまで。しかしどうしても、お義兄様を放っておくことなんてできなかった。したくなかったから。
お義兄様はまじまじと私を見つめ、しばらく動かなかった。
しかし私が手を差し伸べ続けているとやがて――。
「貴女の婿、か」
私の手のひらに線の細い指を重ね、氷のような美声で言った。
「悪くないな」と。
「ありがとうございます、お義兄様」
お義兄様にはきっと、私への情はまだないだろう。
でもそれはこれからいくらでもどうにもなることだ。私はお義兄様を愛している。心から愛し尽くしている。たとえ私にお義兄様の隣が相応しくなかったとしても構わない。一緒にいられるだけで、お義兄様を私のものにできただけで、それで充分だった。
とはいえお義兄様の評判を落とし、これほどまでに追い込んだ者たちを許せるわけではない。
フィリス嬢と第二王子殿下には、お義兄様に恥をかかせたことを絶対に後悔させてやる。そして私の手でお義兄様を幸せにしてみせる。
お義兄様の麗しい
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