第22話goki哲学22 ~文学、坂本竜馬、東京芸大~

今新小岩駅前で左翼の戦争反対デモに遭遇しています。ハッキリ言って左派のベクトルはあさっての方向を向いている。左派が時代の閉塞の本質を捉え損なっているのもまた分断と対立を生み出す理由でしょう。戦争反対を観念的に唱えれば本当に戦争の惨禍は遠のくのでしょうか?(´・ω・`)


人間の感情や行動には法則性があり歴史は韻を踏む。今リベラルがやるべき事は積極財政によって窮乏した国民生活を立て直し、性急なリベラル化の速度を落とす事です。わたしから見れば一目瞭然の解ですけど世の中は逆に逆にと動く。正直もどかしい(´・ω・`)


われわれがやるべきはフランクリン・ルーズベルト、高橋是清の政治の再現。その上で右派も納得せざるを得ない哲学的な妙手を編み出す必要がある。第三次世界大戦を防ぐためにはある程度現状維持を続けるべきです。分断と対立のしこりは半永久的に残るでしょう。


プロレスごっこを本気の殺戮に発展させぬようガス抜きをしつつ綱渡りを続けていくしかないのです。大切なのは変化を急がないこと。月並みですが(´・ω・`)。


多様性の時代といいますが。こと文学に関しては「源氏物語」や「枕草子」の時代から女性作家が時代を牽引してきたという史実にあります。女性と文学の親和性というのは偶然ではなく脳科学的にも女性は言語野が男性より広くまたものの見方が複眼的であると証明されている(´・ω・`)


ただわたしは女性作家とは共存共栄を目指したい。ここで「LGBTの研究」や進化心理学の出番ですが女性とホモそしてヘテロではマインドや興味のベクトルがまるで違うのです。わたしはヘテロにしか書けないヘテロ文学、王道のようでいて逆説的に新しいフィロソフィーを構築してゆくつもりです(´・ω・`)


「セカンドアカウント」を描く過程でアメリカ史に詳しくなりました。アインシュタイン、チャップリン、ガンジー、フランクリン・ルーズベルトはヘテロ。ベーブ・ルース、ジョン・デューイ、カーネギー、ヒトラーはホモ。坂本竜馬とロックフェラーもホモではないかと思うのですが。まだ研究の余地はある。


チャップリンとかガンジーとか21世紀のポリコレでいうとアウトのけっこうな年下美少女好きのヘテロなのですが。だからと言って彼らの功績や人間性が否定されるものではない。やはりロリータコンプレックス呼ばわりはヒステリックなフェミニストの感情論に過ぎないと言えるでしょう(´・ω・`)


ちなみにマルクスもガロアもフェルミもダ・ヴィンチもヘテロ。ケインズ、ガリレオ、オッペンハイマー、ベートーヴェンはホモ。シェークスピアもあまりヘテロ的ではない。ジョン・レノン、ミック・ジャガーはヘテロ、デビッド・ボウイはホモ(´・ω・`)


アメリカ=リベラルなので原爆をダシにしてもアメリカを敵視する方向に世論を誘導したいネトウヨであった(´・ω・`)


今のネトウヨは親韓媚中親露だからな。仁義もへったくれもねーわ(´・ω・`)


でもネトウヨがだんだん賢くなってるのが怖い。積み木でバナナを取るように学習しつつある(´・ω・`)


もうネトウヨは左翼になれよ。高学歴の左翼老人たちよりよっぽど悪知恵が回るぞお前ら(´・ω・`)


ウチの親父もこんな感じよ。誰も思いつかない理屈を次から次へと編み出して全部論破していく。空中戦が大の得意。口が悪い、性格が悪いとも言われるが。知ってる人は知ってる。すべては正義のため世の中を良くするため。完全に遺伝していますこの才能は(´・ω・`)


だからわたしと親父の口喧嘩なんてもう大変よ。ライオンとトラの一騎打ちみたいな。ひろゆきさんが小人に見えるくらい(´・ω・`)


わたしは自民党に派閥や政策集団のようなものが存在するのは悪いことではないと思っています。単独過半数を取るような巨大政党内で保守的な人間革新的な人間に分かれて論争するのは自然なこと(´・ω・`)


問題は麻生派や二階派のように極端な悪者。政治を金儲けの道具としか考えないような連中ですね。ただ彼らを完全に排除するという考え方もまた間違っている。宮崎学さんも書いていますが母集団が大きくなれば悪党も相当数発生するのは自然なこと(´・ω・`)


ですからそういったアミバやジャギタイプの人間も受容しつつその代わり決定的な巨悪は許さないよという態度。麻生派や二階派にも人権は認めつつ我慢するところは我慢してもらう。殺人鬼も聖者も凡人も共存していくしかないんですね(´・ω・`)


ただわたしはあくまで岸田派=宏池会をずっと一貫して推してきた。今回岸田派から出る林芳正さんを推してるのもそういった背景が。自民党内で歯止めをかけられる部分は歯止めをかけてほしいと(´・ω・`)


そりゃ理想を言えば積極財政でリベラル政党が大同団結して政権交代が一番いい。でも現実はそこまで左派も足並みがそろっていない。まずは現実的な解決策を模索する必要があります(´・ω・`)


わたしはどちらかといえば社会主義者ではあります。わたしの社会主義論については「社会民主主義革命」や「セカンドアカウント」の中で書いています。多くの社会主義国が失敗したように貧乏を強いる社会主義ではなくみなが豊かで楽しく人生を全うできる社会主義。それはつまり昭和の日本のことですが。


「セカンドアカウント」の中で世界恐慌から人類を救った社会主義政策として「ニューディール政策」「時局匡救事業」を坂本竜馬が仕掛けたとして描いています。本当に竜馬が生きていたかどうかはともかく。われわれが狙ってる社会主義というのは資本主義以上にみなが生きてて楽しくて仕方のない社会。


もし戦後の昭和の日本がその理想郷であったのならそのいしずえをつくったのは1946年に戦争責任を取って割腹自殺した坂本竜馬だということになる。政治をやる人間が竜馬の生き様や人間性を理解するのは重大な意味があって。この場面で竜馬だったらこう「like」しただろうなと夢想してほしいのです。


竜馬は結局面白すぎて人類を破滅に追い込んでしまった。でも竜馬が死んでみると彼が遺した功績が戦後50年のアメリカや日本の繁栄となってちゃんと結実している。「坂本竜馬は生きていた説」はあながちホラじゃないというか。まあ竜馬と同時代を生きた人間たちは苦しいことも多かったと思いますが。


暑さ寒さも彼岸まで(´・ω・`)


小泉進次郎の切り返しは見事でも、その後忖度しまくってるネトウヨどもが台無しにしてるね。ああいうのは銃撃後のトランプの咆哮と同じで、いくら美談に仕立てあげようとしても普段の行いをみんな知ってる訳ですから最初から無理があるんですよ(´・ω・`)


東京芸大の学園祭に来ています。改めて良い芸術とは「碩学的」なものになるという感想を持ちました(´・ω・`)


本物の芸術ほど政治、経済、科学、哲学などと融合していく。なぜ一流の芸術家は必ず政治的意図を作品に込めるのか。それは一流の芸術家ほどみずから政治にコミットし、社会に良い影響を与えようとするからではあるまいか(´・ω・`)


ピカソが良い例で。常に政治的メッセージを発信し続け、それが時代的背景とともに歴史の文脈の中で民衆に感動を与えた。レンブラントの方が絵は上手かったが「碩学性」でピカソに軍配が上がった訳です(´・ω・`)


直近でいうと津田大介さんの「あいちトリエンナーレ」問題がそれで。大変な政治性を芸術に込めていたから大論争を巻き起こしたわけで。逆にいえば毒にも薬にもならない芸術というのは歴史の文脈の中ではほとんど意味を持たないものだと言えます(´・ω・`)。


芸術に政治的意図を込める。それは文学も同様であり、わたしも創作の際常に意識しているところ。なぜ芸術に政治的意図を込めるのか。それは芸術こそ人間の市井の営みそのものであり常に生き死にのかかった真剣勝負であるから。「命かけないとつまんないじゃん」(長渕剛)(´・ω・`)

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