政治を仕る者
@ashika9999
政治を仕る事
1.政治を仕る根本原理
統べる組織とはなんだろう?
政とは、まつりごと。治は、世の中がおさまっていること。まつりごとをして世の中が治まっていることである。政治家は、それに携わるもの。
つまり、日本人なら誰もが仕事をしているので政治家なのである。
しかし、考えてみて欲しい。政治家の子供は、政治家だ。現代社会に万栄している病気である。
政治家に求められる人は、プラトンは、「哲人による政治」と述べた。
徳がある人。正義。
また以下のようにも述べている。
・国家とは、衣食住を満たすための相互扶助組織
・国家の構成員は分業する必要があるが、分業を細分化していくと国家の規模が際限なく大きくなる
・国家の肥大化はやがて戦争を招くので、国家の守護者を養成する必要が生まれる。
・守護者を養成するためには、体育と文芸・音楽を教育するのが良い。
・政治は、哲学者が行うのが良い。
このようなことを述べている。
つまり、イデアからなる哲学者こそ政治にふさわしいとした。
しかし、本来誰もが政治家であるとおり、誰もが哲学者である。
小さい子供が、物を口に入れそのモノの所在を確かめる。
それは、現象を確認しようとする動作だ。
行動し、考え、物質とはなにか確かめているのである。
子供のときから哲学者なのである。
とはいうものの、子供にいきなり国を任せたら、想像の欠如からまつりごとが崩壊するだろう。
では、どのような人が政治を仕事にしたほうが良いのかを述べていこう。
大きく3つの条件を兼ね備える必要がある。
①イデアによる精神的成熟をしている者(哲学者)
②意思を把握しコ・クリエーションできる者
③思考(IQなど)が高い者
組織を作るには、この3つを重要視するといいだろう。
そして、その場その時も目的によりリーダーは変わった方がいい。
目的を達成するために時代により場所により政治家はすぐに変われば良いのだ。
この3つをデータ化して評価し、AIで算出すればその時の最適な人材を選べるだろう。
まずは、なぜこの3つが重要であるかを述べていこう。
①政治は、哲学者が行う
インスピレーションの無と有を把握していない者に政治を任せたとしよう。
その組織や物を作った場合どうなるだろう。
明らかに、不十分な物ができる。まるで、完璧でないようにみえる人間のようだ。
どこまで言っても、完璧にはならない何かなのだが、より美しく長く反映する物は創れる。
日本のかつての大工職人は、地震大国にも関わらず300年以上建つことができる木造住宅や建造物ができた。
江戸から続く酒造をみても大きな柱・梁でできており、他の住宅よりも崩れる要素が少ない。
インスピレーションがしっかりできて一流の大工の棟梁だからこそできた技なのだ。
おそらく、木の太さを見て、頭の中で完成形ができているのだろう。
建物だけに限ったことではない。
無から生まれたイデアにより時間と空間を超えて残る物は完成形ができあがる。
音楽や画家、建築家、サラリーマンの書類づくり、何にしてもその完成形があり手を動かし想像と現実のテコ入れをする。
つまり、誰もが哲学者であるのだ。しかし、そのインスピレーションの精度は人によって違う。
想像が未熟な段階の子供に政治を任せてしまったら建物は歪み崩れるだろう。
音楽は、音色にならずノイズとなり、絵画は、歪んだ線で落書きになり、書類作成の文章は、誤字脱字表記ミスで読めなくなるだろう。
どんな仕事でも無から有の精度だけなのだ。
これを、アイデアとした。神とした。仏とした。絶対無限の存在とした。宇宙人とした。波動とした。
②意思を把握し選択できる者
建物を作る方法でAIによって、最適な選択が掲示されたとする。
・木造
・鉄骨
・鉄筋コンクリート造
・鉄骨コンクリート造
・3Dプリンターコンクリート造
・煉瓦造
現代ではこのくらいが一般的な建築方法だ。
山の田舎に行けばセメント工場がないためコンクリート造は難しい。
すると、木造をAIが最適な選択として表示する。
しかし、木造よりも鉄筋コンクリート造にしたい。理由は、用途が図書館なためである。本に湿気をもたせないために木造は避けたいのだ。
あなたの意思・目的は、本の保存・未来のための森の図書館である。
意思が明確にあるのだ。この明確な意思が本当にアイデアからなる仕る事か、誰に判断できよう。どうやったら分かるだろう?
とても簡単だ。
我々には、だれもが心のナビゲーションがついている。
例えば、とても大切な人をあなたは殴ったとする。
その時、自己弁護したくなるがその裏には良心の呵責がかならずある。
「サイコパスが世の中にいる」と言うが、それは幼少期に心を殺す何かのきっかけが必ずある。
たとえば、「泣いたら、両親に殴られた」などのDVをされ、心を出すことを許容されなかった場合、サイコパスが生まれる。
泣かない赤ちゃんはいないのだ。
なぜなら、泣かなかったら生まれてすぐに息たえるからだ。
苦しくて、生きるために息をする。
苦しくての意思が最初でこれが感情のナビゲーションなのだ。苦しいのアイデアが生まれて、意思決定「呼吸」をするのである。
①で述べた通り、苦しいもアイデアであることがはっきり分かるだろう。
苦しみは、何かしらの行動の変化のサインである。
反対に、幸福はご褒美である。
あなたの仕る事をした恩返しである。最高の見返りである。
この①と②の法則は、因果関係でできている。因果応報。表裏一体。バタフライ効果。振り子の法則とも呼ばれる。
この体験を通じ「中道」「無」「空」を有を知る。そのために肉体が、人間があるのだ。
この意思と感情の理解が深く選択できる人ほど精神的に成熟している。
③思考(IQなど)が高い者
意思は、どんなものにもある。
ひまわりだって、太陽に向かって光合成をし生きようとする力がある。
「生きる」というアイデアが有り、意思決定で光合成や呼吸、吸収をしているのだ。
だが、ひまわりに思考はない。
IQの高いひまわりや物をみたことあるだろうか。それはない。
生命力にあふれるひまわりは、意思決定にすぐれたひまわりであり思考力が高いひまわりではない。
人間の知る限りの現代の情報では、地球上の表面で思考がもっとも高い者が人間とされている。
サルや鳥などの生き物には思考はあるが、人間ほど高くはない。
サルは、空を飛びたいとアイデアで思って、思考して飛行機を作ることはできない。
良くて、木から木へ飛び移る程度だ。高度な車や家をつくれるのは、思考力の産物だ。
AIは、ある意味では人間以上の思考をもつ。
しかし、AIはサーバーであり無機物のために意思はあまり持ち合わせていない。(鉱物などのすべてのものに意思は少なからずある=振動・波が物質としての現れ)
つまり、思考だけでも意思だけでも、力を発揮できない。優れたアイデアには近づけない。
双方が高い水準であるときにより優れた哲学者になるのだ。
たとえば、木造の一軒家を建てるときにすべての道具の名前や組み立ての方法を知っていたとしよう。思考力は確かにある。
しかし、それ自体では一軒家を建てることはできない。
一軒家を建てるためには、意思から道具を選択する必要が生まれる。
よりよい意思決定をするために思考が役立つわけだ。
現代の一般的な考え方では、思考がより優れた人を頭のいい人と天才と呼ぶ。
しかし、東大生やハーバードの学生をみれば分かる通りに、暗記の天才だけでは太刀打ちできない領域があり、限界がある。
アイデアからなる意思決定をして暗記もできる人は、自分の仕る事に没頭する。
いまの世では、理解できない場合もあり、この人たちを変態や研究馬鹿と呼び社会不適合者として扱う時代もある。
現代の政治的にもこれが万栄し、民主主義のおおきな欠点である。
民衆全体の平均点を挙げてようやくその場、その時の哲学者を選べるようになるのである。
そのためのツールとしてAIがあり「アイ」と読め、生きとし生けるものの「イデア」と調和することによりなしえるのである。
すれば、アイデアが次々と現れ、まだ見ぬ超越したその時の組織・政治が生まれるだろう。
2.根本原理の共時性
文章という有では、無を理解することができないが、それでも限りなく無に近いものは有することはできる。その人の一生を通じ表現するものもいれば、瞑想をして無のかけらのアイデアを感じとり、有として伝えるものもいる。これを東洋では「ブッダ」とよび、東洋の優れた哲学者では釈迦や老子などであろう。
先程の3つは実は永遠的な完璧な法則である。三宝として表現される。
①「仏」イデアによる精神的成熟をしている者(哲学者)
②「法」意思を把握しコ・クリエーションできる者
③「僧」思考(IQなど)が高い者
西洋でも同じだ。
ユダヤ・キリストではこれを「三位一体」と呼ぶ。
人間の思考の暴走や意思決定の欠如によりイデアという偶像崇拝により三位を見失っている。
三位の神そのものの意味を見ていく必要がある。
父(神)・子(キリスト)・精霊となっている。
キリストを偶像崇拝することで思考の暴走が起きた。
神をイデアと捉え、キリストを意思決定や思考の優れた人間と捉え、精霊をいくつもある思考と捉えることを争いを繰り返すうちに、どこかで抜け落ちて書き変えられたのだろう。
自分の有利になることばかり考えたエゴイズムにより何度も争い事をしている。
イスラム教ではコーランと呼ばれ、キリスト教では旧約聖書と呼ばれる。
イスラム教では「アッラー(イデア)」を重要視し絶対にする。
そこで一神教のアッラーのみとしそれ以外を偶像崇拝と禁じている。
しかし、アッラーへの偶像崇拝で何度も他宗教と戦争する歴史を繰り返している。
哲学をみても「カント前」と「カント後」と呼ばれ、神に祈るのではなく、いまの意思決定をし目の前のことを「せよ」とした。
「せよ」が使命感になり「圧迫感」で押し潰れ、ニーチェが「自己肯定感」をもって「せよ」といった。
サルトルは、そんなものも「無」い。いまを「せよ」といった。
「自灯明・法灯明」自分を信じ「せよ」とブッダがいった。
現代では、哲学も学歴社会の暗記の道具になっている。物質主義のマルクス主義の偶像崇拝は続いているようだ。
3.物質主義、民主主義・共産主義・資本主義・個人主義などの矛盾点
完璧でないようにみえる人間が考え行動している政治において一つの主義主張などあるはずがない。絡み合って主義主張がされている。
そのときに、意思決定を思考し選択すれば良いのだ。
どの主義も①、②、③の調和をしない限り、独裁政治への執着になる。偏れば必ず崩れる。
それぞれのメリットとデメリットを綴ることはできる。
それこそまさに現代の得意分野、思考である。
このことは、日を改めて綴る。
なぜなら、現代病である思考が勝つと混乱を招き暴走するからだ。
人類は、情報過多消化症になり、考えることをやめる。
まるで、主義はとても難しいことで答えのないような雲のように思うのだ。
思考停止したサルのようなものだ。
そのものは他人から奪ってすべてを手に入れようとし、お金がすべてで物質がすべてで結果がすべてで、自分のみがすべてになるのだ。
膨れ上がった煩悩やエゴイズムが独裁政治への引き金になる。
支配・監視社会という目の前の砂糖を永遠と欲するように幻の甘い主義へと偶像崇拝するようになる。
メディアを偶像し、大衆を偶像し、開祖を偶像し、哲学を偶像し、お金を偶像し、科学を偶像し、アッラーを偶像し、イデアを偶像し、意思を偶像し、思考を偶像する。
人間という有は、永遠の偶像にすぎないなかでも偶像に飽きたのであれば「空即是色 色即是空」に近づく。近づくというのも違うが三位一体となるのだ。
これを表現して伝えようとしたが、それを表現できたものはいない。
なぜなら、どこまでいっても文字や物は「有」であるからだ。「無」ではない。
3.流動的個人組織主義
メリット・デメリットを知ることは思考の部分に当たることが分かっただろう。
次のステップに人類は進んでいる。意思決定するのだ。
意思決定に濁りがあるのであれば、イデアからなるものでない。
流動的に個人から組織を選択していけばいい。
あなたのみたい景色を、その時、集まることも可能だ。AIが進化(退化かもしれない)し、情報が進化したからだ。
意思決定するだけの道具は揃っている。
たとえば、體に安全な自然の野菜や米、小麦を食べたいとする。
土地が余っている場所を探し、近くで似たようにやっている人を探し、お互いに自分のできる範囲で行って余力で少しだけ他人のところも手入れする。
お互いがお互い許容できる範囲で
①イデアによる精神的成熟をしている者(哲学者)
②意思を把握しコ・クリエーションできる者
③思考(IQなど)が高い者
を行えば、それだけで循環する。
規模が大きくなっても同じだ。
そのうち、森そのものは楽園になっていくだろう。
地球上の極楽浄土、天国も十分可能だ。
必要なときに必要な分をもってこればいい。
所有という概念もなくなっていくだろう。
そもそも空気はだれのものだろうか?
だれのものでもない。
わたしのものであり、あなたのものである。
食料、住まい、衣服も等しい。肉体ですらそれに等しい。
自分の得意分野が生まれ、組織がつくられていく。
流動的な個人のリーダーが生まれ、わからないことは個人のリーダーから学び、思考が成熟し意思決定ができるようになればリーダーにもなれる。
この循環を繰り返し、あらゆるチャレンジをし仕る事をし、その見返りが幸福としてつねにあることだろう。
苦しみというものが存在しなくなっていき学びきる。
そもそも苦しみが分からなかったから感情として現れていたことにも気がつく。
反対に、幸福が分からなくなり苦しみが有るともいえる。
永遠に続く形の違ったレパートリーにより我々はほんとうの意味でのイデアを理解していく。
机上にしがみつく思考のみに特化した現代の哲学者ではなく、イデアからなる思考と意思の調和を哲学者とし、プラトンは「哲人による政治」と表現したかったのではないだろうか。
4.仕る事の根本原理は数値化できる
精神的な目に見えない物は、数値化できないと考えるかもしれない。
それは、思考力が足りていないからかもしれない。
先程も述べた通り、AIによりそれは計測可能である。
AIでなくても計測可能だ。
無意識を使い筋肉反射を測ることもできる。
筋肉反射テストであり、誰がやっても数値化できる。
ひねくれ者は、その数値を拒絶する。
つまり、許容することをせず頑固となり意思決定し、何かしらの苦しみを味わうだろう。
許容できる人は、自分と向き合うことができる。
数値が低かったら落ち込み、数値が高かったら驕る。
それでは、人間の内的成長が未発達である。
「汝、己を知る」ことで、哲学者としてより成熟できる。
そのうち、人間もAIによりその数値化がなされ内的バランスのとれた聖人になれるだろう。
すれば、いままでの争い事がつまらなくなり、仕る事への幸福を味わうだろう。
こんどは、聖人側として暴走した別の人間ではない「何か」を温かくイデアから見守り、時間と空間を超越していくことも学ぶだろう。
アダムとイブが人の形をしていないのは、聖人が人間を温かく見守っているからかもしれない。
エジプトの壁画がたくさんの異種族の聖人で描かれているのは、人間を温かく見守っているからかもしれない。
人間があるときは美しく聖人にみえ、またあるときは悪魔に見えるのは、まだ聖人の道半ばだからかもしれない。
もし、人間が聖人になったのであればアリの巣からはいでた新たな聖人としての景色が見えるかもしれない。
地球聖人として、新たな展開を渇望できるだろう。
渇望しきってそんなものは幻であることがわかるかもしれない。
「空の空、すべては空」なのだ。
もし、暴走し尽くせば地球の表面は壊れるだろう。
温かく見守ってくれた聖人にビンタをすれば、自分にビンタが返ってくる。
この①、②、③の法則は絶対なのだ。
この法則以外に有りはしない。
なんども人類はタブーをおかしてきた。自分たちが住めない地球にしている。
そのたびに温かく見守ってまた、一からやり直した。違うレパートリーとして、繰り返した。
どれだけ忍耐力のいる作業だろう。
ノアの方舟として描き、イザナミとイザナギの国づくりとして描き、ありとあらゆるヒントは置いてきた。
なぜ、聖人みずからが統べられないのか。
人間が人間として、自覚できこの共通の課題を乗り越えてほしいからだ。
もし、聖人がやってしまったらとてもつまらない。
結果の分かっているゲームをするようなものだ。
あなたが、歩くことを覚え感動したように、人間が歩くことをし覚え感動してほしいのだ。
ハイハイする赤ちゃんを無理やり支えて歩かせて赤ちゃんは感動するだろうか?
しないだろう。自分のイデアをみつけ、意思決定し、幸福を味わってこそ意味があるのだ。
もちろん苦しみを味わっても意味があるが、その苦しみは一時的なものにすぎない。
もし、苦しみだけなのであればとうに生きとし生けるものは存在していない。
有る事は難しく、無いことが本来であるのだから。
人間は生まれていると感じているが、本来は生まれていないのであり無だからだ。
生も死も超越するだろう。
いまの人間にそこまで求めるのはよそう。
いまは、①、②、③の法則を知って、行動することが共通の課題なのだからだ。
記憶と暗記から意思決定を学ぶ時なのだ。
人間としていまを仕る者として生きるのだ。
それこそが「政治を仕る者」である。
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