【掌編】汗の匂い

御奏凪

汗の匂い

「あっつ……」

 共用の柄杓ひしゃくやバケツを洗い終えた竣平しゅんぺいが、どかっと隣に腰を下ろした。共同墓地に併設された東屋は、絶好の休憩場所だ。木組みのベンチはやや朽ちているものの、透き通る風は爽やかで、隣り合う藤棚からは撫でるように優しい光が落ちてきて心地よい。私は墓参りの後、この東屋で休むのが好きだった。

「ありがとね」

「……おう」

 竣平は二歳下の幼馴染で、今年十六歳になる。すっかり声も低くなったものの、まだまだ可愛い弟分だ。張り出した喉仏は、童顔の竣平には似合っていないと思う。

「来週も来る?」

「ん、どうかなー。そろそろ暑くなってきちゃったしね」

 幾許か間をおいて「竣平に付き合ってもらうのも悪いし」と加えれば、彼は「俺は別に付き合えるから」とだけ言った。

「……うん」

 私の返事を最後に、耳に残るのは風のざわめきと、夏の到来を告げる虫の声だけとなった。

 それが少し気まずくなって、目を逸らせば、石で囲われた小さな水辺が目に入った。あまり管理されていない、小さな池だ。中程には水草が浮かび、底も濁っていてあまり様子は伺えないが、時折水辺に波紋が広がっているのが見えた。何か泳いでいるのか。

 近づいてもよく見えなくて、しゃがんで覗き込んだ。すると、小さな魚が驚いて、逃げていくのが見えた。静かに待ってみれば、油断した魚が気持ちよさそうに横切っていく。

「水中は気持ちいいかい」

 呟いても返事はない。人間の言葉に応えるのは人間だけなのだ。

「──おい!」

 肩を掴まれ見上げれば、いつの間に来ていたのだろう、竣平の姿があった。真昼の影になって表情は窺い知れないが、声色は真剣だった。

 ぽたりと、竣平の汗が足元に落ちて弾ける。──少し遅れて、鼻を刺すあの日の匂いがした。


 数ヶ月前のあの日、私は水中に落ちていた。大好きだったおばあちゃんが亡くなって、家も引き払われることになった。おばちゃんっ子だった私は、とても悲しんだけど、分かっていたから涙は出なかった。けれどその後、居場所がなくなったことに気づいて、地上が狭く思えて、身体が鉛のように重たくなった。それで、少しでも身体を軽くしたくて、私は水の中に飛び込んだのだ。

 最初は少し苦しかったけど、沈んでいくのは心地よかった。あれほど重かった身体は重力から解き放たれ、少しずつ冷えていった。身体が沈んでいくのと反対に、心がどんどん軽くなっていった。もうすぐおばちゃんにも会えると思った。けれど、そうはならなかった。

 引き上げられたときの、竣平のあの表情と、汗の匂いだけを、鮮明に覚えていた。


「──大丈夫か」

 雲が隠れて、日陰になって、やっと見えた竣平の顔は、あの時の表情とそっくりだった。

「……うん、ごめん。心配させちゃった」

「いや……」

 私のことをまだ心配してくれているのだ。これ以上彼を困らせる訳にはいかないだろう。私はすっと立ち上がって「もう大丈夫だから」と言った。彼はまだ難しい顔をしている。

 その時、大きく風が吹いて、二人の髪を揺らして、饐えた匂いを運んできた。私はそれを大きく吸って、吐き出した。体中を血潮が駆け巡る。

「水の中って、匂いがしないから」

 私が言うと、竣平は更に眉間のシワを濃くして、よくわからないという顔をした。その顔が面白かったので、私が笑うと、彼はやっと少し安心したようだった。


 汗の匂いは、命の匂い。私を現世うつしよへ連れ戻してくれるのだ。

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