第18話 腹が減ってはなんとやら

 格闘ゲーム好きの店主が営む馴染みの中華飯店『昇龍軒しょうりゅうけん』は昼時の賑わいを見せていた。淡い照明と古民具に溢れる店内はどこか懐かしさを感じさせるし、壁際のチェストに所狭しと並ぶ多種多様なパンダのぬいぐるみやお茶目な意匠の泥人形という雑多な印象はなぜか安心できる素朴さだった。


 四人席のテーブルに着いて、いつも通り麻婆豆腐定食を注文し終えると、ミサは神妙な表情で呟く。


「予想はしていたが、まずい展開だな」


「え、まさか天津飯セットの方が良かった? そっか、ミサはチューリップ好きだもんな。ごめん」


「飯の話じゃない! 不幸の手紙とオーバードーズ、知ったからにはどちらにも関わらずにはいられないだろ、お前」


「そりゃあ、まぁ。街を守る正義の味方としては知らぬ存ぜぬって訳にはいかないよね」


「不幸の手紙はともかく、ヤク絡みは血の気の多い連中がバックに控えてるはずだ。無暗矢鱈に危険を冒すなよ?」


「そう言われてもなぁ、黒幕がやる気なら、切った張ったは避けようがないんじゃない?」


 忠告も暖簾に腕押しと諦めたのか、ミサは腕を組んで鼻から息を漏らす。なんだかんだ言って、義侠心に富んだミサはこの街の住民同士が不信に振り回されたり、犯罪に巻き込まれたりすることは看過できないから、積極的に僕の行動を掣肘せいちゅうしたりはしないのだった。


「昂良さん、三砂さんもお待たせしました」


 いつの間にか入店していた九波が合流し、ミサの隣の席に座る。今日も持ち前の存在感の無さは健在のようで、那美川優飛が勤めていた会社での内偵調査も無事終えたと見える。


「ご苦労さま。どうだった?」


「優良企業でした。清楚な美人が多くって」


「……昂良、九波は寝惚けているみたいだから殴って正気にさせてもいいか?」


「ちょっ! やめてくださいよ、三砂さんに殴られたら永眠しちゃいますよ」


「待つんだ、ミサ。九波からその清楚な美人とやらの情報を聞き出してから楽にしてあげてよ」


「お前――いい加減、ラムネに干されるぞ」


「ふっふっふ……天香桂花てんこうけいかを追い求めて命を落とすなら本望だよ。僕は今も昔も美女に一途なんだ」


「さすが昂良さん、不誠実なことを堂々と言えるんだから大したもんだ。よーし、じゃあ昂良さんが好きそうなタイプの子を厳選してお見せしちゃいましょう!」


「ピックアップするほど美女がいたのか。ホントに優良企業なんだなぁ」


「……本題に戻れ馬鹿どもが!」


 ミサが完全にお冠状態である。働く美女図鑑の閲覧は後回しにして、しぶしぶ九波からの報告を求めることにした。


「那美川の勤務していた会社ですが、取り立てて怪しいところはありません。ブラック企業でもないし、よくある一般的な職場です。ただ、那美川は今年二月に部署異動するまではかなり多忙だったみたいです。星を戴いて帰宅なんてのはザラで、泊まり込みも多く、誰が見ても窶れていた様子だったとか。配置換になってからはほぼ定時で帰宅できるようになったし、顔色も良くなっていた。事件を起こす数日前こそまた憔悴した様子だったようですが、当時はまた重い案件を任されたのだろうくらいにしか周りも思わなかった、と」


「鶴亀コンビの言っていたとおりだね。那美川という人物の印象は真面目すぎるきらいもあるけど、誰かから恨みを買うような言動はまったくないじゃないか。で、不祥事とか、社内いじめとかは?」


「確認できませんでした。那美川個人の評判も概ね良好です。有能で上司の覚えはめでたく、物静かではあるけれど、穏やかで親切だから同僚や後輩からも慕われていましたし」


「こうまでトラブルがないと、いよいよ手紙の差出人との接点が見つけられなくなってきたなぁ」


 そうですねぇ、と九波も嘆息を漏らす。


「とはいえ、那美川の感情の暴発は不幸の手紙が最大の要因だということも確証が持てましたね」


「言い換えれば、不幸の手紙さえなければ、那美川は道を踏み外すこともなかったということだな」


 ミサの言葉はこの騒動の核心を衝いていたと思う。真意はなんであれ、不幸の手紙は善良で仲睦まじい一組の夫婦を破綻に追い込み、二名の死者も出した。そして今なお、多くの人々の不安を煽って、十人十色の悲劇を引き起こしている。法を侵しているかどうかなんて関係ない。この町の人々の暮らしに不幸の手紙なんて黴臭くて邪な代物は不要だ。人を損なうような言葉を操る怪人もまた同様である。


「そう言えば、柾社に行った時、ミサは怪しい人物について何か言いたげだったよね」


 ミサは僕と視線を合わせない。まぁ大方の予想はついている。


「素性も目的も判然としない女が屋敷にいると思っただけだ」


「稟が不幸の手紙の関係者だとしたら、よりにもよって本物の忍びが四六時中監視する柊家に住み込むなんて正気じゃないだろう? 疑うのはさすがに可哀想だよ」


「だが、だからといって古戸森稟の嫌疑が晴れるわけじゃない。お前宛に不幸の手紙が届いたのはあの女がやって来てすぐのことだし、いくら監視の目があるとはいえ、屋敷内なら手紙の仕込みなんていくらでもできる。玄翁衆の半数が出払って手薄な時期に転がり込んできたことも疑わしい。用心するにくはない」


「……確かに彼女は何かを隠しているし、誰がどう見ても怪しいけど、悪巧みができるような人ではないと思うんだけどなぁ」


 謎めいてはいるものの、隠し事を隠し切れていないのが稟の素直さ――この場合は迂闊さというべきなのか――なんだと思う。誰かを傷つけたり、陥れたりする所業は彼女の人の良さからして容認できないだろう。それは、見ず知らずの家族の不幸を悲しみ、彼らに降りかかった理不尽に憤る一面からも明らかだ。


 ミサは声を一層低く落とし、神妙な表情を見せる。


「人の悪意はゆっくりと深く潜行するものだ。お前はすぐに他人を信用しすぎる。それは長所でもあるだろうが、この場合は短所だぞ」


「三砂さんほど稟さんを警戒する気にはなれませんが、屋敷の中に迎え入れるっていうのは正直リスクが高いですよ。昂良さんだけでなく、ラムネさんの安全も考慮すれば、しばらくは警戒した方が無難です」


 何というか、気に食わない。ミサや九波の発言に対してではなく、こうしてこの町の至るところで疑心暗鬼が跳梁跋扈していることが、である。


 正体が分からないものを怖がるあまり、人は何でもないことを恐ろしい化け物として誤認識してしまうというのなら、疑心暗鬼とはまさしく、不明と迷妄の暗闇に恐ろしい鬼の輪郭を見ているのだ。僕達もまた、稟に対する疑念や恐怖に形を与え、彼女に仮託した鬼の姿を錯視しているに過ぎない。


 歴史を辿れば、鬼とは疫病をもたらすす眼に見えない脅威であったり、まつろわぬものとして迫害されてきた人々でもあった。理解できないもの、得体の知れないものに対する恐怖や不安が自らを脅かす“鬼”という怪異を幻視させ、人々をして暴力による最終的解決に駆り立てる。僕達の天敵は僕達自身、他人を信用し切れない自らの心の弱さなのだ。


 で、あるならば、僕がやるべきことも明瞭としてくるというもの。


「そこまで言うなら仕方がない。街に蔓延る疑心暗鬼も、麻薬の原料となるハカマオニゲシとやらも僕が根絶してやろうじゃないか。これぞまさしく鬼退治だ!」


 ミサと九波は物怪顔を見せ合った。


「三砂さん、たった今、目の前の時空が歪みました」


「奇遇だな、俺も目撃した。まったく脈絡が掴めないぞ」


燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくの志を知らんや、という奴だね。不憫な二人には杏仁豆腐でも追加注文してあげよう」


「お待ちどおさま」


 昇龍軒自慢にして僕のお気に入りでもある麻婆豆腐定食が若い女性店員によって配膳される。豆板醤の香ばしい匂いは食欲を掻き立て、大抵の悩み事を忘れさせてくれる。


「ありがとう、ミコちゃん。杏仁豆腐も三つ追加していい?」


「もちろん。ご注文ありがとうございます」


 ミルクティー色の艶やかな髪をまとめ上げ、店主こだわりの機能美を追求したチャイナ服――正式には『旗袍チーパオ』というらしい――の制服に身を包んだ十九歳のミコちゃんは、落ち着いた大人の色香を感じさせていて、その雰囲気とはアンバランスな人懐っこさとおしゃべり好きの人柄で人気が高い、いわゆる看板娘である。


「今日はラムネさん、大学?」


「うん。そうでなきゃ男三人でランチなんかする僕じゃないよ」


 ミコちゃんはケラケラと笑った。


「あはは、そうね。じゃあ今夜、久し振りにお店、来てくれます?」


「そりゃもう是非……と言いたいところだけど、急に仕事が立て込んできてね。また次の機会でもいいかな?」


「なぁんだ、残念。最近、不幸の手紙の所為でお客さん、少なくなっちゃって。昂良さんならこんな時でも来てくれるって思ったんだけどな」


 ミコちゃんの青息吐息に九波がつけ上がった。


「ぷぷぷ、めっちゃ暇だし危機感も希薄だと思われてますね」


「滅私奉公の精神と後ろめたさのない清廉潔白さを併せ持っていると言って欲しいな!」


 ちなみにこのミコちゃん、昼間は昇龍軒の看板娘、夜はキャバクラ『百夜びゃくや』で人気キャストとして働く苦労人である。知り合って一年ほど経つが、寝る間も惜しんで働く理由は未だに聞けずじまい。というか、ミコという名前も源氏名だから、本名すら知らない。謎めいた部分は多いが、真面目で健気だから、彼女の知り合いは誰しも影ながら応援したくなるような女の子だった。


「でも、いくら不幸の手紙のことがあるとはいえ、キャバクラにまで行くのを控えるご時世とは悲しいことだね」


「家庭があるお客さんは、余計な火種を抱えたくないってことじゃないですか? 接客サービスだって割り切っても、キャバクラに通うのをよく思わない人も多いし、いつ誰がどこで見ているか分からないってビクビクしながらお店に来ても楽しめないし。私もお客さんも、悪い事、何一つしてないのになぁ」


 そう、誰も悪くない。みんな、自分を守りたいだけで、誰かを傷つけたいわけじゃない。でも個人の存在の危機を前にして、そんな気休めは無意味だ。自分を守るためなら、自分以外の何もかもを無自覚に、無慈悲に否定し、切り捨てることができてしまう。個人が何物にも代えられない唯一無二の絶対的存在であるからこそ、そんな凶悪な、残酷な一面を心というブラックボックスに囲っている獣、それが人間でもある。


 だからこそ、僕はいつだって誰かに優しくなれる人間でありたいと思うのだ。


「大丈夫! 僕達が鬼退治すれば万事解決だから、ちょっとだけ待ってて」


「鬼退治? 節分ならもう過ぎちゃったけど?」


「ミコちゃん、この人の発言は気にしないで。俺達もワケ分かんないから」


「うるさいうるさい。とにかく、腹が減っては戦はできない。いただきます」

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