第8話 本邸経由、『アチュウ』行き

 街の外れのなだらかな坂の上に純和風建築の柊家本邸がある。群咲では知らないものがいないその広大な敷地と瀟洒な家屋敷は、明治期以降からほとんどその出立ちが変わらない歴史的文化財だが、現役の住居であり、柊家当主と近親者の日常生活の基盤でもある。


「初めて近くで拝見しました。圧巻ですね」


 敷地の外から本邸を眺める稟は衝撃を受けている。東邸もそれなりの豪邸だが、本邸ともなると次元が変わってくるから無理もない。大きな切妻屋根の薬医門、本邸をぐるりと取り囲む漆喰塗とよろい張りの塀、庭木の立派な松竹梅……かつての権勢は衰えたとはいえ、それでも十分すぎる栄華の残滓である。


「今は出先にいるんだけど、当主――母には稟のことは伝えてあるから、本邸に用があるときは気兼ねなく入ってもらって大丈夫。と言っても、僕達が本邸に足を運ぶ用はほとんどないかな。せいぜい正月とか彼岸とか年中行事に参加するか、お福分けをもらいにくるくらいだよ」


「お福分け……いただきものを分けること、でしたでしょうか?」


「そうそう。長く続く家には独特の言葉遣いがあるから、分からないことは何でも聞いてほしい。じゃ、次。ラムネの店『アチュウ』を見に行こう」


 本邸を後にして坂道を下る。この一帯は柊一族の居宅で占められており、住人の数に対して敷地が広すぎるから閑散としている。人通りはほとんどないし、勿論、子どもの賑々しい騒がしさもご近所を駆け巡らない。群咲の住人が畏敬を以て見上げる坂の上の豪邸は、伝統と歴史の分厚い壁に護られ、また或いは縛られて、今日も時の流れから孤立していた。


 若者としては変化が無いほどつまらないものはない。権勢を見せつけ、人々を平伏させるかのような在り様にも反抗したくなるお年頃。つまり僕はこの家があまり好きではない。自然、敷地から遠ざかる足も軽やかに、気持ち早くなる。


 坂を下って長閑な住宅街に入ると、まるで絵本から飛び出してきたかのような異国情緒たっぷりの木組み建築が姿を現す。欧州的な格子窓とカラフルな色遣いが目を引くカフェ『アチュウ』である。


「ここは僕が資金提供して、ラムネが経営している。この辺りじゃ結構有名な人気店で、先刻会った花乃なんかはよく手伝いで給仕をしてもらったりもしている」


 稟は素直に尊敬の眼差しをラムネに向ける。意外だったのか、ラムネはちょっと面食らっていた。


「ラムネさんは経営の才に恵まれているのですね。大学にいらっしゃる時はどなたが切り盛りを?」


「信頼の置けるご夫婦にお願いしています。まだ開店前だし、ご紹介しますね」


 オープンテラスを抜けて、軽やかな鈴の音色と共に店内に入る。中では開店に向けて準備に勤しむ深堂みどう夫妻の姿があった。


「お早うございます、心平さん、初寧さん。ちょっといいですか?」


 丁寧な言葉遣いで返す紳士な心平さんと、簡単かつ平坦な受け答えで感情が読み取りにくい初寧さん。歳の頃は四十代前半で、絵に描いたような鴛鴦夫婦。好ましい人柄、高い能力は勿論だが、二人の円満な関係性というのがラムネにとっては重要だったらしく、店を任せる決め手だったようだ。深堂夫婦も出来た人達で、経営実績もない当時十代の少女をオーナーと仰ぎ、こうして一緒に人気店にまで育ててくれたんだから、兄としては頭が上がらない。


「今日から住み込みで家事手伝いに来ていただいている古戸森稟さんを案内しているんです」


 紹介された稟が慇懃な挨拶をすると、心平さんも折り目正しい返礼で応える。片やプロの家事代行、片や有名老舗ホテルの元ホテルマン。どちらも接客業の鑑のような所作だった。


 そんな中でも我が道を行く初寧さんは、会釈だけしてジッと稟を見つめ、ボソリと呟く。


「……坊ちゃんのお嫁さ――?」


「違います!」


 おそらく「お嫁さん候補?」と初寧さんは聞きたかったのだろうけど、それにしてもフライングが半端ない。


「ラムネ、落ち着けって」


「違うものは違いますから! 変な噂が立ったりしたら古戸森さんにも迷惑が掛かりますし、看過できません! 初寧さん、兄さんと古戸森さんは断じてそういう関係ではないですからね!」


「う、うん。了解」


 なんてこった、変なスイッチが入ったラムネの気迫に圧されて初寧さんがドン引きだよ。気遣い玄人の心平さんが穏やかな声調で二人の間に入ってくれた。


「はっちゃん、滅多なことを言うものじゃないよ。坊ちゃんも古戸森さんもそれぞれお相手がいるかもしれないんだから」


「兄さんにはいません。その予定もありません」


「何故お前が答える……」


 まさか、僕の周りに女性が寄り付かないのはラムネが裏で手を回しているからなのでは……!?


「昂良さんが女性問題で身を滅ぼさないように、俺がしっかり露払いするので安心ですよラムネさん」


「聞き捨てならない裏工作! 僕が美女達と懇ろになれないのはお前の所為だったか!」


「濡れ衣です! それはシンプルに昂良さんがモテてないだけです」


「いるかどうかも分からない全国の九波ファンへ。これから彼はかなり可哀そうな目に遭います。部屋を明るくしてテレビから離れて見てね」


 僕達の騒がしさとは裏腹に、落ち着き払った稟の涼やかな声を僕は聞き逃さない。


「私も未婚ですし、お付き合いしている方もいないのでお気になさらず」


「え? そうなの? モテそうなのに」


「ご縁は如何ともしがたいことですので……」


「に、兄さん! この話はもうお終いです! 古戸森さんに店内を案内してあげてください。私は心平さん達に話があるので」


 ラムネに急かされてしまったので、仕方なく話題を切り替えることにした。


「内装はラムネの生まれ故郷であるリトアニアの景色をモチーフにしている。この淡い色使いとか雰囲気とかは僕も結構好きなんだ」


「ラムネさんの生まれ故郷……あの、差し出がましいことをお聞きしても?」


「いいよ? 何?」


「昂良さんとラムネさんは、実のご兄妹ではないのでしょうか?」


「嗚呼……そうだね、血は繋がっていない。ラムネが五歳だったかな、柊家に引き取られてから兄妹になったんだ。実を言うと我が家は結構、複雑でね、現当主である母も実母じゃない。これも追々説明するよ」


「そう、ですか……いえ、一介の家事代行がご家庭の内情に立ち入るなどおこがましいことですので」


「寂しいことを言わないでくれよ。稟もこれから東邸に住むことになるんだし、家族の一員だよ」


 僕の一言は稟にとって何か思うところがあったらしい。微かではあるが、彼女の全身に動揺が走ったのが分かる。地雷だったかもしれない。

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