第6話 八鳥素晴はセクハラ魔人である

 早足で台所に向かうと、無事息災な古戸森さんが胸当てエプロン姿で朝餉あさげの準備に勤しんでいるのを発見。どうやら素晴の魔の手はまだ及んでいないようで安心した。


 というかそんなことより、古戸森さんはさすが家政のプロである。きびきびとした所作には動きに無駄がないというか、滲み出る優雅さに思わず見惚れてしまう。


 朝日に照らされる神々しい後ろ姿に呆けていたのも束の間。不審な動きの異分子が僕の視界をひょこひょこ横切ったかと思うと、気配を察してこちらを振り返った。


「あ、昂兄たかにい、おはよう」


 関西特有の軽やかなイントネーションとともに人懐こい笑顔を見せる八鳥素晴はっとりすばる。社交的で、凛々しさと愛らしさが同居した中性的な美貌を持つ花の女子大学生だが、享楽的で刹那主義、自らの欲望に忠実なトラブルメーカーでもある。


「台所にいるなんて珍しいじゃないか素晴。何が目的だ?」


「何って、朝食の支度の手伝いに決まってるやん。コックさんに何で厨房におるのって聞くくらい愚問や」


 せせら笑う姿が腹立たしいことこの上ない。


「卵一つ割れないくせにコックさんを引き合いに出すとは高慢ちきめ……古戸森さん気をつけるんだ。素晴は初対面でも女性の身体を揉みしだく手癖の悪さがある」


「手遅れですー、もうおっぱいとお尻はファーストタッチ済みですー」


「堂々とセクハラ行為を自供するんじゃないよ。僕はこの家の治安と風紀を守る家庭内秩序の守人もりびとだ。お前みたいな公序良俗に反するスケベを野放しにしてはおけない。今日から古戸森さんの半径五メートル以内に近づくことを禁じる」


「昂兄、それ『妬きもち』って言うんやで?」


「不穏当なことを言うんじゃない。ラムネが聞いたら血を見るぞ」


 主に僕が。


「古戸森さん、申し訳ないね。さぞ不快だったろう」


「いえ、素晴さんはとてもお上手でした」


 ふふふ、と悪戯っぽく笑う。何が、とは聞き辛い。案外、古戸森さんと素晴は相性が良いのかもしれない。恥じらいの感覚がぶっ飛んでいるところとか。


「なぁなぁ稟姉うくるねぇ、ご飯まだ?」


「う、稟姉だって!? さすが素晴、知り合って数時間の癖にとんでもない馴れ馴れしさ。距離を詰める鬼の異名は伊達じゃないな」


「だって『稟』って名前、めっちゃ綺麗やったから呼びたなってん」


「まぁ、ありがとうございます」


「気を許しちゃいけない古戸森さん! すでに知ってのとおりこのセクハラ魔人は人好きする言動で相手の懐に踏み入り、身体をまさぐる痴女なんだ」


「稟姉のおっぱいとお尻、めっちゃやわかいで? 大人っぽい良い匂いもするし」


「ぐぅ……僕の想像力を掻き立てて悪の道に引き入れようとするとは悪辣な……」


 朝っぱらから猥談が横行するこの状況、風紀紊乱の典型例じゃないか。色恋沙汰と下ネタに興味がないミサは黙っちゃうし、花乃は面白がってるし、家長としてここは一つ威厳を見せて綱紀を粛正せねば。


 などと考えていたら、古戸森さんに声を掛けられた。


「あの、よろしければ昂良さんも稟とお呼びくだされば嬉しいです」


「え、いいの? ホントに? じゃ遠慮なくそうさせてもらおう。あ、そうだ、呼び方といえばまだこの二人を紹介していなかったね。同居人で職業忍者の三砂勲道と二見花乃だ」


「おい馬鹿、何で職業バラす!?」


「いいじゃないか。柊家に忍者が下宿しているなんてもう公然の秘密だよ。ね、稟?」


「そうですね、私もお噂は耳にしておりまして。実際にお会いできて光栄です。改めまして古戸森稟と申します。皆様のお役に立てるよう努力いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」


 稟の折り目正しい挨拶に、ミサは釣られるように慌てて礼を返した。よろしくー、なんて軽い乗りで返す花乃は、呑気な顔でミサに言う。


「ご近所さんにも隠してないし、去年の桜まつりなんか大々的に銘打って運動会とかしたじゃない? 昂良ちゃんのもとにいる以上、もう気にするだけ無駄だよ」


 ミサは渋面を作った。


「確かにそうだが……いいのかそれで」


「いいのいいの。秘密主義なんてこのご時世叩かれちゃうからさ。情報公開グラスノスチは民主主義の基本だ。うちはオープンでクリーンな忍びの里を目指すから」


 賑々しさに誘われるように、起き抜けでしどけない姿のラムネがフラフラと台所にやってきていた。


「おはようございます。みんな朝から元気ですね」


「ラムネ~、おはようのハグ~」


 ラムネとは同年で、無二の親友でもある素晴のスキンシップはいつものこと。気兼ねなく応じるのがラムネの常だったが今日は若干様子が違った。ハグと聞いた瞬間、とろんとした寝惚け眼に覚醒の光がパッと宿り、僕の顔を見るなり両手で顔を覆い隠した。


「嗚呼! 昨日に戻りたい!」


「……え、どうしたん?」


 出払っている同居人達を除いた家人が勢揃いした……と思ったら一人欠けていることに花乃が気付いたようだ。


「あれ、そういえば九ちゃんは?」


「九波さんでしたらそちらに――」


 稟が示した和室の居間にはいつの間にか座卓でくつろぐ九波の姿があった。素晴が感心するような、それでいて呆れるような微妙な響きの声を漏らす。


「九波ちゃん、相変わらず存在感やね」


「あのね素晴ちゃん、忍びたるもの影に日陰に目立たずに、が正道だろう? むしろみんなが個性出し過ぎなんだ。三砂さんも花乃さんも素晴ちゃんも本懐を忘れていませんか? 俺のこの存在感の無さは褒められて然るべきでしょう! 世間は俺を褒める努力が足りない!」


「さて、みんな席につこうか」


「スルー!? まさか昂良さん、俺の姿見えてない!?」

 

「朝っぱらからうるさいな、不本意だけど見えてるし聞こえてるよ。稟、あとで軒先に塩撒いといてくれる?」


「なんか扱いが悪霊みたいなんですけど!」


 ぶうたれる九波をみんなであしらっている様を見て、稟はクスッと微笑んだ。けれどもその笑みには、若干の寂寥を感じさせる翳りが見えた気がした。


「本当に賑やかですね、ここは」


 微かな違和感はすぐに鳴りを潜める。代わりに、また薄皮のような一枚の壁が稟との間に横たわって、彼女の本心だけでなく、その人となりそのものをぼんやりと覆い隠す。


 隠し事は、まだ明瞭はっきりとしない。

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