第9話   新たな魔法が使えぬ時代

「髪色がちょうどいいアッシュグレーになったわ〜。ありがとうね、ヒューリちゃん」


 台所のイスに座って、婆さんが小さな手鏡を片手にすごく喜んでいる……。そこまで反応されるとは、予想外だ。少し、恥ずかしい……。


「おい」


 向かいのイスで茶をすすっていた爺さんが、いつの間にか腕を組んでムスッとしていた。


「お前さんが練習で使ったこの台所、きっちり元に戻してくれよ」


「無論だ。色素を抜き取る魔法も会得している」


 世界中の虹を転写させたような台所では、食欲もわかんだろうしな。



 乾いた薪に適当な雑草で火付けして、奇妙な紋様の彫られた金属製の大鍋に湯を沸かしてゆく。外で湯浴みをする羽目になるが、夜になるとこの辺りは真っ暗になるし、隣近所同士が広い畑を挟んで、とてつもなく離れているから、特に人目は気にならなかった。


 星や雲を眺めながら、汗を流した。


「ヒューリちゃん、タオル忘れてったでしょ。ここの籠に置いておくわね」


「あ、はい……」


 外での入浴用に、外にも棚がある。婆さんは棚の上に、タオルを丸めて入れた藤籠を置いてくれた。


「ふふふ、もう一週間になるのに、まだ緊張しちゃうかしら。私たちはあなたが来てくれてから、とってもとっても助かってるのに、あんまりお礼もさせてくれないわね~」


「本が読めるようになりました。それで、充分です」


 立ち去ろうとしていた婆さんが、意外そうな顔で振り向いた。私がいつもより長く話せたことに、驚いたんだろう。


「魔法のことはちょっとよくわからないけど、ヒューリちゃんには才能があるのね。ずっと独りで研究してきたベネットちゃんの、良いパートナーになってくれそう」


「……あの、ベネットは、ここらで有名なんですか?」


「え? そうねぇ、魔法使いってだけで充分よく目立っちゃうんだけど、あの子はきっと、もとから人懐こい性格なんでしょうね。一人でなんでもできちゃうんでしょうけど、本当は寂しがりやさんなんだと思うわ」


「ラファエルといつも一緒にいるようですが」


「あら、いつもじゃないわ。そこは男の子同士で、距離があるんでしょうね」


 よくわからん……。


 小首を傾げて考えこんでしまった私のそばから、いつの間にか婆さんが消えていた。代わりに窓の中から、お茶の支度をする音が始まっている。婆さんはいつも、風呂上りの誰かのためにわざわざお茶を沸かす。


 用意してもらったタオルで体を拭いて、もう一枚入っていたやたらにでかいタオルを体に巻いて、家の裏口から中に入った。


「お茶が沸いてるわ。水分補給に持っていって」


 お茶を一杯もらい、カップを片手にしたまま二階へ上った。数年前に爺さんが、熱中症と水分不足で風呂桶から出られない事件が発生して以来、婆さんは定期的に水分摂取を勧めてくるようになったらしい。


 軋む階段を上りきると、爺さんと私の部屋が隣同士で並んでいる。爺さんは私が風呂のときは、鉢合わせるのが気まずいのか、絶対に部屋から出てこない。なんの物音もしないから、生きているのか、たまに心配になる。


 自室の扉を開けると、


「何をしている」


「べつに~。旦那がいつ帰ってきてもいいだろ」


 妙に機嫌の悪いヤツが、窓辺に片足を乗せた姿勢で座っていた。


 初めて会ったときに被っていた外套はなく、素顔を含めた容姿がはっきりと見えた。上品に波打つオレンジの髪には艶があり、猫のように大きくて深緑色の双眸はけぶるようなまつ毛に囲まれていた。驚かされたのは、その服装だった。ずっと猫耳だと思っていたのは、頭部にずらし上げていた何かの作業用ゴーグルで、レンズ部分にもネジや部品が飛び出ており、それが初対面時にはフードの下から盛り上がっていて猫耳に見えていただけだった。細い腰にはぶっといベルトが、さらにポシェットがいくつもベルトにぶら下がっており、兄も使っていた見覚えのある工具たちが納まっていた。どの道具も年季が入っている。


 ラファエルが時計塔の修理士がどうのと言っていたっけか。ベネットのこの格好も、それと関係していそうだが……兄の働く姿が一瞬でも脳裏をよぎったせいか、深く尋ねる気が起きなかった。


「ラファエルと喧嘩でもしたのか? 話ぐらいなら聞いてやるから、早めに帰ってやれ」


「あのさぁ、部屋に無断で男が入り込んでるんだよ、大騒ぎしないの? それとも僕のことマジで年下だと思ってる?」


「兄と暮らしていたから、狭い部屋に誰かいるのは慣れている」


「ん〜〜〜、そういう意味じゃなくてさ〜……君の今の格好とか、気にしなきゃいけない事がたくさんあってさ〜……」


 ガシガシと頭を掻きながら、何やらブツクサ言っている。


「ヒューリは、まだお兄さんのもとに帰りたい?」


「……帰りたいわけではない。ケジメを付けに行くだけだ。私はいつまでここにいればいい。兄の結婚式まで一ヶ月を切っているんだ、急ぎたい」


「ねえ、新しい魔法を覚えたくない?」


「それは、もちろんだが」


「その新しい魔法、使ってみたい?」


「機会があれば、気の済むまで実験してみたいものだ。しかし、まずは結婚式の日程までに間に合うか否かが、私にとっての最優先事項だ」


 なぜかベネットが口をとんがらせてくる。他人事だろうに、何に腹を立てているんだ。その理由を尋ねるほど、私もこいつに興味がないが。


「それじゃあ僕が今から簡単な魔法を五つ教えるって言ったら、習いたい?」


「習いたいが……さっきから質問ばかりして、何が目的なんだ」


 私が座るだけでベッドが軋んだ。四十年ほど前にこの部屋を使っていたのは、あの夫婦の一人息子だそうで、今は港街で商いをしているそうだ。ちなみに、ここにあるほとんどの家具は、爺さんの手作りなんだそうだ。


 ベネットが窓枠から立ち上がった。ラファエルの屋敷から一瞬で移動してきたようで、靴底が汚れていなかった。


「新しい魔法なんて、覚えたって使えないんだよ、誰もね」


「ん? どういう意味だ? お前も私も、当たり前に魔法が使えているじゃないか」


「ヒューリって、本当になんにも知らずに育ってきたんだね。今まで意識せず使ってきた魔法は、使えるよ、とりあえずはね。でも、がんばって新しく覚えた魔法は、使うことができない。これは魔法使いならみんな知ってることだし、みんな苦しんでることなんだ」


 んん? どういうことなんだ? 私はここで染粉の魔法が使えるようになったぞ。これは新しい魔法には入らないのか?


「魔法を使うために必要なモノって、なんだか知ってる?」


「魔素だろ? 本に載っていた。それが何かは、わからないが」


「魔素っていうのは、エネルギー体だよ。そこらじゅうに飛散してて、魔法使いなら誰しもが無意識に引き寄せて魔法に変換しているんだよ。目には見えないし、触れもできないんだけどね」


「そんなモノが、魔法の素だったのか。ピンとこないな……」


「僕は移動魔法しか使えないけど、ヒューリは家事に利用できそうな魔法なら、なんでも使えるんでしょ? お婆ちゃんから聞いてるよ」


 なんでも……? 川の流れを一時的にせき止めて魚を獲ったり、火を沸かして水を煮沸したり、耕した畑の土をさらに柔らかくして次の菜園に備えたり、窓や玄関から埃を吹き飛ばしたり、地味なものだが、数は多いほうか。子供の目には、なんでもできるように映るんだろうな。


「まあな、なんでもできるぞ」


 夢は壊さないでおいてやろう。


「それじゃあ、教えてほしいんだけど……君が住んでた森、調べてみたんだけど、けっこうな範囲が焼けてたね」


「あの森は、ラファエルの領土だったのだろ? 当時の私は、知らなかったんだ」


「なんであんな大規模な炎で、森を焼いたの?」


「理由は話しただろ。どうしても、許せないことが起きて……怒りが抑えられなかった」


「理由じゃなくてさ、問題なのは、あそこまで大火力な魔法を使えた事実なんだ。今どき、あそこまで大規模なことが可能な若手は、そうそう現れないだろうね。『魔素の番人』も黙っちゃいないよ」


 ベネットの大きな瞳が、月のように細まった。


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