アデル・オブ・シリウス ―原死の少女 天狼の騎士―

うづき

プロローグ

第1話 樹海に咲く花


 ――――6年前―――――― 




 灰色によどんだ空から、雨が降り始めた。

 富士山麓の北西に位置する、広大な青木ヶ原樹海。

 鬱蒼うっそうとした森の中であっても、雨滴うてきは木々の合間を縫って降り注いでくる。


 不規則に隆起りゅうきした、歩きにくい地面。

 3人の男女は、そこを登山靴で踏みしめながら慎重に進んでいた。

 雨で足下が濡れ始めた今、滑らないように一層、注意する必要がある。

 水筒に詰めた紅茶で喉を潤してから、女が恨めしそうに空を見上げる。


「最悪ね……。とうとう降ってきたじゃない。こんな日に、何でよりにもよって樹海ハイキングをしなきゃいけないのかしら」


 先頭を歩いていた無精髭ぶしょうひげの男が、足を止めている女を振り向いて言った。


「恨むなら俺じゃなくて【暗号】の投稿主とうこうぬしを恨んでくれよな。よりにも寄って、投稿主は暗号解読の期日を今日までと指定してきてるんだぜ」


 苛立った様子で女が応えた。


「そんなのわかってますよ! 雑誌記者のあなたは、特ダネ目的で同行してるだけですから、答えにたどり着けなくても、最悪は泣き寝入りできるでしょうけどね。私は公務できてるんですから、あなたとは責任の重さが違うんです」


「おいおい。心外な言い方だなあ。今日を逃したら、次の暗号投稿まで何年待たされるのか、わかったもんじゃない。俺だって、残り時間が少なくて焦ってきてるんだぜ?」


 最後尾の、気弱そうなメガネの男が、おそるおそる提言ていげんした。


「あ、あの~。……世間話も良いのですが。立ち止まっていないで、さっさと先へ進みませんか」


 震える手でメガネの位置を整え、男は冷静さを保とうとしていた。


「目的地まで、あと少しです。たどり着く前に日が暮れてしまうのだけは、ごめんですよ。ぼ、僕はたぶん霊感が強い方なので、さっきから誰かに見られてる気がしてならないんですよね……」


「おお。それってもしかして、恨みを遺して死んだ悪霊的な奴? うちの雑誌の樹海特集で、調査したことあるよ? ここら辺は本気で“出る”スポットらしいぜ。冗談無しに」


「や、やめてくださいよ! とにかく、自殺の名所で一泊なんて、ぼ、僕はとても正気じゃいられませんから……!」


 毎年、日本全国から多くの自殺志願者が集まり、命を絶っていることで有名な樹海。

 山梨県の公開している自殺統計によれば、樹海での自殺死亡数は、毎年50人以上にのぼる。実際に幽霊がいるかはともかく、曰くつきの場所に長居したい者などいない。女と、無精髭の男は、うながされて再び歩き出した。


 スマホの方位磁石ほういじしゃくアプリで位置を確認しながら、無精髭の男は語りだした。


「インターネットの匿名掲示板とくめいけいじばんに突如として現れた、謎の超高度暗号――――CICADAシケイダ3301、か」


 感慨深く、改めてその名を口にした。


「最初の暗号投稿は2012年。セミCICADAのイラストが掲示板にアップされたところから、始まっている。その画像データに付属していた説明文は、簡潔明快かんけつめいかい


 “我々は極めて知能の高い人間を探しています。

  この画像に隠されたメッセージを見つけ出し、

  我々の元へたどり着いてください。”


「その書き込みを見た誰もが、最初はイタズラだとしか思っていなかった。だが真面目に画像の解析に取り組んだ暇人たちが、とんでもないことに気付く。画像データには、非常に高度な電子透かしステガノグラフィが含まれていて、そこには暗号解読の期日を意味するカウントダウンや、電話番号や座標データが多分に含まれていたんだ。とても個人で作れるような代物じゃなく、組織レベルで製造された画像であるとしか考えられなかったわけだな」


「……あのー。なにを急に語り出しちゃってるんですか?」


「いやいや。改めて経緯けいいをナレーション風に思い起こして、ロマンに浸ってるわけだよ。わからないかなー、この男心」


「わからないです。女ですし」


「僕はわかりますよ! これってロマンですよねえ!」


 メガネの男はコホンと咳払いし、無精髭の男のノリに付き合い始めた。


「そしてそして、数ヶ月後のことです……! “我々は探していた人物を見つけました。我々の長い旅は終わります”と、一方的に人材募集の終了を宣言されました」


「どこの誰が暗号を解けたのか、わからないままなんだよな。その後も何年かごとに不定期で新しい暗号がアップされて、繰り返し人材募集が繰り返され、ついに今回は俺たちの番だ……!」


 無精髭の男は、不敵に笑んだ。


「まさか暗号を解読した結果、青木ヶ原樹海のど真ん中の座標が出てくるとは、誰が予想したことか。いったい、座標の場所には何が待ってるんだろうな! やっぱり、暗号の投稿主が待ってるのか……?!」


「いやー。普通に考えて、こんな場所に人が住んでるとは思えないですよ。実際のところ誰か待ってたら、それはそれで怖いですよね」


「そもそも、佐渡さわたり先生の解読結果が間違ってる可能性もあるわけでしょ? 暗号には引っかけの嘘情報とかも含まれてたって、聞いたことあるし。座標の場所にたどり着いたけど、何もなかったってオチもありえるでしょ」


「ロマン台無しな意見だな、君たち!」


 しばらく雑談が続いた。だが長くは持続しなかった。

 滑りやすく歩きにくい足場は、徐々に3人の体力を奪い、口数を減らしていく。


 誰もが無言でいると、互いの息切れの音が際だって聞こえてきた。

 樹海の中で他に聞こえる音は、雨音と足音、そして葉擦はずれの音だけである。

 どれくらいの間、そうして歩き続けた頃だろうか。


「……待ってくれ。ここじゃないのか……?」


 無精髭の男が、スマホで現在の位置座標を確認する。

 CICADA3301暗号が示した場所に、自分たちが到着していることに気が付いた。

 言われてメガネの男が、周囲を見渡してみた。


「え? ここ……ですか?」


 何か特別に建物があるわけでもなく、こけむした岩石が転がり、樹木の根がむき出しで地表を這っている風景だ。それは、ここに至るまで、散々見てきた樹海の道中そのままである。

 目的地に着いたというのに、特別なところは何も見受けられない。


「見たところ、何もありませんね」


 メガネの男の感想を聞くと、女は嘆息し、小さく肩を落とした。


「やっぱり、私たちは暗号の解読に失敗してたんじゃないですか? ここの座標は偽情報だったんだと思いますよ。実際、何もありませんし」


「CICADA3301に、引っかけられちゃったんですかね、僕たち……」


「……」


 無精髭の男は、悔しそうな顔で黙り込んでしまう。

 懸命けんめいに周囲へ視線を巡らせ、なにか特別なことがないかを確認してみる。

 特ダネへの執念しゅうねんのためか、男は、なかなか諦めることができなかった。


 ふと、大木たいぼくと呼べる大きさの樹木を見つけ、そこへ視線を転じた時だった。

 奇妙なものが、男の目に付いた。


「…………?」


 樹海には、様々な物品が捨てられている。


 誰かの靴や、リュック。ロープや腕時計など。自殺者が多い場所であるため、死者の遺留品いりゅうひんと思わしきものが数多く落ちている。この場に来るまでの間にも、3人は多くの品々が落ちているのを見かけてきた。男が見つめる大木の根元にも、誰かの遺留品と思わしきものが捨て置かれている。


 無精髭の男と同じように、それに気付いたメガネの男が呟いた。


「あれって……パソコンですか?」


 言葉通り、モバイルPCだ。折りたたみ式のものが開かれており、画面とキーボードが見える。近辺には電源コンセントすらないのに起動しており、画面にはCICADA3301のシンボルである、セミのイラストが全画面表示されている。


 なぜPCが落ちているのか。


 外部電源もなく起動しているということは、先ほどまでここに誰かいて、使っていたのだと考えられる。この場に長く放置されてきたものだとしたら、バッテリーが上がらずに今現在も起動しているのは、おかしいからだ。だとすれば、暗号の投稿主はまだ近くにいるのだろうか。周囲に人の姿はないが……。


 気味の悪い想像が、止めどなく押し寄せてくる。

 だが何よりも3人にとって不可解だったのは、そのことではない。


 ――――“赤い花”が咲いている――――。


 モバイルPCのモニタの上から、1輪いちりんの赤い花が咲いている。

 花は完全にPCに根付き、まるで植物と機械が一体化しているようにも見えた。


 血のようにあざやかな赤。

 その花弁かべんは雨滴に濡れ、まるで静かに泣いているように見えた。



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