乖離、或いは寄宿に似た何か

寝室

本編

「だからね、扇風機もエアコンも壊れちゃったのよ」

何度目かのフレーズがスマートフォン越しに畔山浩介の脳内を通過していった。通話中の画面は先ほどから、寝苦しい夜に煩わしさを加速させる明るさで光っている。ディスプレイをちらりと見やると、時刻は午前二時半だった。紛れもない深夜だ。

「信じらんないよねぇほんと、よりによって二つ同時に、だよ」

電話口の相手の声は驚き半分、苛立ち半分といった感じで、浩介はそれが家電の故障に対するものなのか、あるいは浩介自身に向けられたものなのかを測りかねていた。ただ睡魔と熱帯夜のせいで今にも溶けだしそうな脳みそでも、電話の相手が誰なのかだけははっきりと理解していた。

こっちの台詞だよ、と返すと、たしかに、災難だねぇ浩介くん、と笑われる始末だ。

「こんな日に冷風なしで快適に眠るなんて不可能だと思わない?ひどすぎる」

うぅ、という雑な泣き真似にあー、とかうん、とか気のない相槌を打ちながら、浩介は彼女───香椎瑞希という人間の存在をぼんやりと思い返していた。

瑞希は誰が見ても、文句なしにいい女だった。きっとそれは今でも変わらないのだろう。下らないことでもケラケラと屈託なくよく笑うし、他人に対して誠意と思いやりをもち、なおかつ適度に無関心。いつも身に付けている小ぶりなゴールドのイヤリングを、耳にかけたショートカットから覗かせていて、浩介はそれを見るのが好きだった。かなりの気分屋で、喜怒哀楽は激しくそれなりに喧嘩もしたが、それに振り回されるのも浩介にとっては一種のエンタテインメントだった。

「それで、おれにどうしろって?」

なにかアクシデントが起きた際に彼女が自分に連絡を寄越すというのは、浩介にとっては満更でもない状況だった。過去形なのは、瑞希との関係がすでに、三年前に破綻していたからだ。

瑞希は続ける。浩介は電話口に耳を傾ける。

「悔しいから、浩介くんのすこやかな眠りを阻害したい」

「そりゃまた迷惑極まりないね」

「こうなったら道連れだよ。何をしてもいいと思ってるから、君には」

価値観の違い。これまで友人や瑞希とのことを知る人たちに、破局の原因は何かと聞かれるたびに、浩介はそう答えてきた。本当のところはどうなのかと自問したこともあったが、結局はわからずじまいだった。瑞希は三年前も今も変わらず美しいし、自分に想いを寄せてくれている。これは時折本人が口にしていることであり、浩介はこの独白とも近況報告ともつかない言葉に対する最適解を求めた末に、いつも情けない沈黙を作ってしまう。

「男女の関係なんて案外そんなものなのかもね。始まりも終わりも」

別れてほしい、でもこれといった原因があるわけではない。その辺の女なら発狂しかねないフレーズを放った時、瑞希はそう言った。ほんの少しだけ口角を上げて、ショートカットからゴールドのイヤリングを覗かせながら。その光景のあまりの美しさと尊さに、浩介は笑ってしまいそうになるのを必死に我慢したことを覚えている。もちろん瑞希はそのことに気づいていたのだろうけど。

別れ際だけではない。今だってきっと、瑞希はあどけなさと色気が不思議と同居するその表情を、電話越しの俺に向けてくれているのだろう。浩介は確信していた。

「その通りだよ。おれは君には逆らえない」

短く返事をしながら、浩介は自分のことをひどいエゴイストだと思う。彼女との関係をこんな風に中途半端なものにしていることに、心の奥底では満足している気がしたからだ。

「もったいないことするよね。浩介くんに自信をあげられるのは、あたしだけなのに、ね」

声は透き通っていて、しかし言葉とは裏腹に寄る辺なく響いた。瑞希の言うことは何もかもごもっともで、ただその方法をおれは理解し損ねたのだ。それはおれにとって、おれと瑞希との関係における最大の失敗で、けれどその失敗が今の自分を支えている。浩介にはそう感じられた。

瑞希にとってはどうだろうか。どうだったのだろうか。

「わかった。君が眠れるまで付き合うよ」

瑞希の表情を思い浮かべながら、彼女の言うすこやかな眠りとやらを願って浩介は目を閉じてみる。

「浩介くん、嫌な男になったね。あたしのせいかな」

答えはいつだって自分ではなく、彼女の方からもたらされる。そしてそれは彼女の優しさに因るものでしかないのだ

それからは、控えめで無機質なエアコンの音だけが、ワンルームの鄙びた空間で聞こえる音の全てだった。冷風なき部屋で自分の声を待っている瑞希を沈黙に晒すのは、やはり自分のエゴでしかない。分かってはいても、浩介には何もできなかった。それが自分なのだと、明確に悟ったからかもしれない。

「今年の夏は酷暑だって。早く買い替えなきゃなぁ、エアコンも扇風機も」

瑞希は先ほどの言葉などなかったかのようにごく気軽なトーンでそう告げると、それじゃあ、と言って電話は切れた。

動かないエアコン、回らない扇風機。瑞希が電話をしてきた理由を、浩介は飲み込み始めていた。時刻は午前三時を過ぎた頃だった。

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